平成28年6月 第56話

朝事*住職の法話

「自分を知らされる」

ある先徳の言葉に、
「上手くとは 人を そしらず 自慢せず、身の及ばぬを 恥じる人なり」
という言葉がありました。
仏様の大いなる光に照らされて、自分が照らし出され、真実を仰ぐ心が、この歌の根底に流れている精神でしょうか。
ここの「上手く」とは、「上手に世の中を渡る人」「本当の世渡り上手」と味わうことが出来るようです。
「そしるものは、そしられる。」と言いますが、私自身を含めて、「自分が嫌われている。」ということは中々気が付かないのが、 人間というもののようです。
嫌われる原因の一つに、「慢心まんしん」というものがあります。
「私がやった。」「私は偉いんだ。」「私はすごい。」等々、 自慢にはキリがありません。
大体、自慢する人は、嫌われていますね。
無理ないことです。
あるおじいさんがおられます、体が不自由になられ、自宅で療養されています。
お嫁さんが
「父は若い頃から、自分のことはさしおいて、他人のためにする、というような人柄でした。
体が不自由になった今でも、色々な人から心配して頂き、声かけて頂き、私たちも大事にしてもらっています。
全て父のおかげです。」
と言われました。
仏教では、善悪の基準に「無私性」ということがあるそうです。
自分のことより他人のことを大切にされたという生き方は、年取っても、体が不自由になっても、尊ばれ続けることなんだと教えられました。
親鸞さまは、「愛欲や名誉心や自分を利する心から、離れられない。」と懺悔しておられます。
しかし、欲望というものはキリがないそうです。
これは心しなければならない大事なことですね。
「これだけ得たから、もう満足です。」という時期は、決して来ないそうです。
「一を得たら、二を!二を得たら、三を!三を得たら、四を!四を得たら、五を!五を得たら、六を!!」
「まことに、むつかしの世です。」
短い人生の中で、限りない欲望を抱えて、それを かなえようと、 あえいでいるのが、我々の姿でしょうか?
大体、自分が得る資格がないことを望んでいることが多いのではないでしょうか?
たとえば、自分は、愛していないのに、愛されたいと、強く願ったり、 自分は与えていないのに、与えてほしいと願ったり、 自分は貢献していないのに、自分に尽くしてほしいと願ったり、 自分の分不相応な欲望を、周りに強要しているのでしょうか?
これなら嫌われて当たり前ですよね。
「身の及ばぬ」ということは、中々気づかないことですね。
卑屈ひくつとは、「他人に認められようと、心で、強く願っていながら、欲していながら、それが叶わない 傷心のこと」だそうです。
「そしらず、自慢せず、身の及ばぬを恥じる。」という気持ちで生きている人がいたとすれば、誰がこの人のことを悪く思うでしょうか?
先徳が言われています。
『「道」というものが大事である。「道」は必ず、通じているものだ。』と。
少しでも、「道」に則った歩みをさせて頂きたいと願うものです。
この世の色々な人間関係に、振り回され、悩まされるけれど、自分の姿に気づかず、他人のことばかりを 「善いだ、悪いだ、あいつのやり方が好きだ、嫌いだ、気に食わん、腹立つ。」と批判してばかりしているのが、私です。
まことに憐れなことですが、そこから離れられません。
そこに、自己のつたなさ、というものが考えさせられます。
しかし、世間の事などを見て、いつも感じます。
この世は、「あつかましい人」が多いと、しみじみ思いますし、「公私混同している人」も多いと感じます。
「私用」と「公用」と、けじめをつけて頂きたいものですね。
七高僧の一人は、私用で他人を使ったことを懺悔しておられます。
「他人の褌【ふんどし】で相撲をとる。」
これはやめてほしいものです。
そういう世の中は、とても息苦しい感じがします。
しかし、反面思うのです。
いくら腹立つからといって、このように、他人のことを批判ばかりしていていいのだろうか?
ある先徳の言葉です。

『「あなたがこう思っているのは、このように、改めなければなりません。」というのは「高上り」です。
こしらえ、育てる勧め方ではない。
阿弥陀さまが助けて下さる、ということを告げるだけです。
その人をこしらえるのは、私の仕事ではなくて、仏様のお仕事です。
親切な人は、解らんところまで、気を使ったつもりで、
「あなたはこう思っているけれど、違うぞ。」と、良くしてあげるつもりで、教育します。
それは教育です。
「それは間違いですよ。正しいのはこうですよ。」
教育しようとします。
これをやっても大したことはないです。
一生懸命やっている人に、「間違いですよ。」と言ったところで、解りはしません。
何故なら、そう思い込んでいるのに、 わりのものを与えないと駄目です。
「いけません。いけません。」と言っても、かわるべきものがなければ「いけません。」が捨てられません。』
先徳は、その辺のところを
『「それは、いけません。」という暇があるのなら、有難い仏さまのお慈悲を伝えればいいのです。』
と諭されました。
身に覚えがありますね。
「あの人は、こういうところを考え違いしている。間違いだと言ってやりたい。」
私自身、そう思うことは、しばしばあります。
元々、仏教では、「苦」のことを 「不如意ふにょい」と言いました、「意の如くならない。」ことを「苦」と説いています。
ある長老は、「思い通りにならないことを、思い通りにしようとするところに、苦しみが生まれるのだ。」と。
私自身が、如何に、余計なことを、しようとしているか。
如何に、計らいが強いか、ということが、省みられます。
「その人は、そういう人だ。ほっとけばいい。」のでしょう。
要らん忠告などは、しない方がいいのでしょう。

二河白道にがびゃくどう」 【善導大師ぜんどうだいし】の教えがあります。
仏様に照らされて、見えてきた、私の心の姿は、 愚痴ぐちという、 智慧ちえの無い、 無明むみょうを元にしています。
そこには、水の河【欲】、火の河【怒り】が映し出されています。
「欲しい欲しい。」という「限りない欲望」が「水の河」。
自分の限りない欲望が叶えられないと起こってくる「怒りの河」。
水も火も、限りない勢いで、荒れ狂っているのです。
欲望の、「水の河」は、今、まさに、 「飛沫しぶきをあげて、満ち満ちている、荒れ狂っている」のです。
そういう中で、み教えを聞いている私に気づかされます。
ある方は、「穴の開いたバケツに、どんどん水が入ってくる。それを汲み出しながらも、水はどんどん入ってきている。」と表現されました。
まことに、鬼気迫る、見事な表現だと、とてもリアルに感じた次第です。

親鸞聖人しんらんしょうにんの言葉を集めた 御聖教おしょぅぎょうに 『歎異抄たんにしょう』がございます。 
『歎異抄』に 
弥陀みだのご恩ということを、忘れて、 良し悪しということをのみ、言い合っている。」
という意味のお言葉があります。 
『「いけません、いけません。」いうだけでなくて、 わりのものを与えないと駄目』という、 その「替わりのもの」とは一体なんでしょうか?
『「それはいけません。」という暇があるのなら、有難いを仏さまのお慈悲を伝えればいいのです。』
仏さまの働きを伝えることが、何よりも、大事ではないでしょうか。
愚痴ぐちにかえる」 
愚者ぐしゃになりて往生する」
という言葉もあります。
自分の勘違いや、狭い視野の思い込みは、時として、自分も苦しみ、他人にも迷惑をかけるものなのかも知れません。
仏様に導かれる日々を送らせて頂きたいものです。

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「いのち尊し」
一人 ひとり
  
それぞれに 
  
ふかい縁を めぐまれて
  
今生に いのちの花
 
開かせていただいた
   
うかうかと過ごして なるものか
  
むなしく終わらせて なるものか
  
大事に 生きなければ   
  
            
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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