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平成28年5月
第55話
朝事*
住職の法話
「不可思議」
「不可思議」というテ―マで話させて頂きます。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の言葉を集めた
御聖教
(
おしょぅぎょう
)
に 『
歎異抄
(
たんにしょう
)
』がございます。
『歎異抄』に
「
弥陀
(
みだ
)
の
誓願不思議
(
せいがんふしぎ
)
にたすけられまいらせて
往生
(
おうじょう
)
をばとぐるなりと信じて
念仏もうさんと おもいたつこころの おこるとき
すなわち
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
の
利益
(
りやく
)
にあずけしめたもうなり」
という言葉があります。
「弥陀の誓願に たすけられまいらせて」
と言っても意味は通じたと思うけど・・。
何故、「誓願不思議」と「不思議」という言葉を付けられたのでしょう?
「頭で理解することとは違います。」というところに注意を
喚起
(
かんき
)
したかったのでしょうか?
「仏法は聞いて覚えて一年生 仏法の不思議に卒業なかりけり」
先ず、仏法を学ぶときに、最初は道理理屈を、一通りは覚えなければいけないでしょう。
しかし理屈をいくら覚えても、仏法を身に付けることとは違うことでしょう。
「
愚痴
(
ぐち
)
にかえる」
「
愚者
(
ぐしゃ
)
になりて往生する」
という言葉もあります。
龍樹菩薩
(
りゅうじゅぼさつ
)
は
「御経の言葉は 月を指す指である」
と言われています。
仏様の世界は あまりにも広大無辺で、凡夫の耳には中々入らないのでしょう。
「
大言
(
だいげん
)
里耳
(
りじ
)
に入らず」
という言葉があります。
「仏法のような尊いものが 凡夫の耳に入るかな」
と言われた
先徳
(
せんとく
)
もおられます。
ある太平洋の小さな島に、どういうわけか、大きな船が近づいたことがあったそうです。
しかし、その島の住民は、誰れ一人として、その船を見なかったそうです。
その島の人間には、あまりにも 大きな船を今まで見たこともなかったのです。
それで、誰れも、その大きな船が、そこにいることに気づかなかったそうです。
人間は、今まで、自分が見聞きした経験のないものは、分からないものだということが、よく分かる逸話です。
「分からない。」と言えば、「ご恩」ということも、中々分からないものです。
先日、ある僧侶のご法話に、ご恩について次のような話をして下さいました。
『寺の日曜学校の生徒の数が、極端に少なくなった。
このままでは、駄目になってしまうと、危機感を感じて、やるだけやってみようと思った。
案内し、呼びかけ、チラシ等を配布して、やっと、ある程度、人数が増えた。
「私が頑張った結果こうなった。」と思っていた。
しかし、日曜学校の子どもの父兄と話をすると、「私は、寺の日曜学校の卒業生です。チラシを見て子どもを入れようと思いました。」 ということが結構あって、頑張ったのは、自分だと思っていたけれど、親父が頑張っていてくれたのだと気づかされた。』
というような内容の話だったと思います。
ご恩ということについて、特に親のご恩、先祖のご恩ということについて、とても分かりやすく考えさせて頂いた話でした。
その僧侶の方は、大変な努力をされて、子どもに呼びかけ、その結果には違いないと思います。
しかし、その背後に、何十年も前に、親の世代の方々の、努力が実を結んできている、という
厳粛
(
げんしゅく
)
な事実があったのでした。
私自身に当てはめて、味わいましても、こうして、住職をさせて頂いていることも、先祖の努力の上に、今の私があるだけなのでしょう。
先祖の徳のお陰という言い方も出来るでしょう。
その徳も、私は食いつぶしているのかも知れません。
それでは、先祖方の徳を受けている私は、何をするべきでしょうか?
先ず、そのことをしっかり認識し、今度は、自分が子孫のために、出来る限り努力して、種まきをしなければならないのではないでしょうか。
先輩方の
懸命
(
けんめい
)
な努力の上に、今が
築
(
きず
)
かれてあり、その上に、乗っかっている私は、懸命な努力をしていかなければならないのではないでしょうか。
「先に生れん者は、後を導き、後に生れん者は、先を
訪
(
とぶら
)
え。」という意味のお言葉が、
御聖教
(
おしょぅぎょう
)
にあります。
私は、身近に、仏法聴聞の先輩方の姿を見てきました。
すでに往生された方を含めて、私の心に、「私も、この方々の後を、訪ねていきたい。」という気持ちが強くあります。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の和讃に 「
善香人
(
ぜんこうにん
)
のその身には、
香気
(
こうけ
)
あるがごとくにて、これをすなわちなづけてぞ、
香光荘厳
(
こうこうしょうごん
)
とまうすなり」
という『
和讃
(
わさん
)
』がございます。
「
善香人
(
ぜんこうにん
)
」、「善い香り」
私が今まで、出会わせて頂いた、念仏者の方々は、見かけは、どこから見ても、普通の方々でした。
何も特別な人たちではなかったような気がします。
しかし、仏法という善い香りに、絶えず触れておられたからでしょう。
心ひかれる香りがございました。
そして、不思議なことに、この香りは、その方が、お亡くなりになられても、私の心から、容易に消えないのです。
不思議ということを言いましたが、考えてみれば、仏法そのものが「不可思議」そのものではなかったかと感じるのです。
「表現できないもの」を、私たちに、 「
如何
(
いか
)
にしたら、伝えることが出来るだろう?」というところに、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
や高僧方の大変なご苦労があったと思うのです。
ちょうど、親が子供に、何とかして伝えたい、ということを、ああも言ってみたり、こうも言ってみたり、色々と手立てを尽くして、子に伝えようとするように、 高僧方は、どうしても表現できないもの、凡夫の頭ではどうしても、分からないもの、それを、「月を指す指」として、我々を気づかせたいという願いをもって、 教えを説いて下さったのではなかったでしょうか。
大体、「仏様」「お浄土」という世界は、我々には、分からない世界ではなかったでしょうか。
もし、「仏様が分かった。」と言うのであれば、その方は、仏様ではないでしょうか?
先ず、仏法は理屈を覚えなければならない。
確かに、教えの一通りの道筋を知らないようなことでは、努力不足と言えるかも知れません。
しかし、仏法は知ること、知識ではなかったのでした。
最初、何にも知らないのは、本当に知らないということでしょう。
しかし、仏様の心は、不可思議としか言いようのないものなのでしょう。
「不可思議」つまり我々には、知り得ないものだから、不安心である、ということではないでしょう。
たとえ、「分からなくても、安心出来る世界」が信心の世界ではないでしょうか?
こういうことも、全て仏法の先輩方の教えて下さったことです。
「不可思議」というテーマで、話をさせて頂きました。
仏様の教えの底知れない深さ、それは、そのまま、私の底知れない愚かさ、
罪深
(
つみふか
)
さの為ではなかったのでしょうか?
日々の生活の中で、「あんな奴はいなくなればいいのに。」と、相手を邪魔者扱いすることもあります。
いや、それしかないのが、
凡夫
(
ぼんぶ
)
の心なのかも知れません。
仏様の光に照らされ、抱かれ、私の底知れない愚かな心を見せて頂きながら、
懺悔
(
ざんげ
)
と感謝のお念仏生活をさせていただきたいものです。
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「蓮の花」
ハスの実の中に
ハスのいのちは
二千年もの間 生きていた
縁【条件】が ととのって
今 美しい花 開いた
どろ沼の中から
どろ沼に 染まらず
清らかな花 咲いた
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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