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平成28年4月
第54話
朝事*
住職の法話
「淋しい春なのか」
白血病のために昭和六十二年二十五歳で
夭折
(
ようせつ
)
された、岡山市生まれの
住宅顕信
(
すみたくけんしん
)
氏は、 縁あって
得度
(
とくど
)
して浄土真宗の僧侶となられた方である。
白血病という厳しい環境の中で、文字通り命がけで、
自由律俳句
(
じゆうりつはいく
)
に打ち込み、真剣に勉強し、 俳句に情熱を傾け、死後、「未完成」という
句集
(
くしゅう
)
が出た。
厳しい環境の中で、静かに自分を見つめて作った句は、俳句のことを全く知らない私にも、不思議に、心に響くものがある。
死後に彼のことを取り上げたテレビ番組の中で、「お父さんを何に感じるか?」という質問に、息子さんが、 「父の俳句です。」と答えておられたのが、とても印象的だった。
我が子のことを
詠
(
よ
)
んだ句は少ない。
しかし、息子さんにとられては、句の中に、父親が生きていると感じるのだろう。
句の中に父親が生き生きと息づいているのだろう。
私達には、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の残された
御聖教
(
おしょぅぎょう
)
がある。
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
」の一句の中にも親鸞様は生きておられるのだろう。
そんなことを連想した。
住宅顕信
(
すみたくけんしん
)
の句を少し味わいたい。
「若さとはこんな淋しい春なのか」
「春風の重い扉だ」
「念仏の口が愚痴ゆうていた」
「どうにもならぬこと考えていて夜が深まる」
「一人の淋しい物音立てている」
「夜が淋しくて誰れかが笑いはじめた」
「何もないポケットに手がある」
「開けっぱなした窓が青空だ」
「泣くだけ泣いて気の済んだ泣き顔」
「黒衣一枚、凡夫である私が歩いている」
「気の抜けたサイダーが僕の人生」
「ずぶぬれて犬ころ」
「念仏の白い息している」
句の中に 「念仏の白い息している」 という句がある。
病室で静かに自分の病気や死を見つめながら、 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と称名念仏された。
その時に病室が寒くて息が白かったのでしょうか?
又私の勝手な解釈だけれど、阿弥陀様から私に与えられている道を白道という。
白道の白なのかと、ふと考えた。
念仏の心を聞くことが、浄土真宗の教えの要だと聞かされている。
蓮如様も、御文章の中で、繰り返し繰り返し、南無阿弥陀仏のいわれを聞けと諭されている。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
が「教行信証」に
元照律師
(
がんじょうりっし
)
の言葉を引用されている。
「いはんやわが
弥陀
(
みだ
)
は名をもって物を接したまふ。
ここをもつて耳に聞き口に
誦
(
じゅ
)
するに、
無辺
(
むへん
)
の
聖徳
(
しょうとく
)
、
識心
(
しきしん
)
に
攬入
(
らんにゅう
)
す。
永
(
なが
)
く
仏種
(
ぶっしゅ
)
となりて
頓
(
とん
)
に
億劫
(
おっこう
)
の
重罪
(
じゅうざい
)
を
除
(
のぞ
)
き、
無上菩提
(
むじょうぼだい
)
を
獲証
(
ぎゃくしょう
)
す。」
名は
名告
(
なの
)
りで、
名号
(
みょうごう
)
のことです。
物は
衆生
(
しゅじょう
)
のことです。
南無阿弥陀仏の名号は、み名を聞き、口に
称
(
とな
)
えれば、限りない仏様の尊いお徳が、 私達の心に入り込んで下さり、仏となれる種となって下さり、この上ないさとりの世界に入ることが出来るという意味です。
大体、仏様に成るには、願と行が伴わなければなれないとされています。
大学に合格する為には、大学に入るという願いと、受験勉強という行が、両方そろって、 はじめて大学に合格するということが実現するわけです。
仏様に成るには、願いと無我の行が伴わなければ成れないと言われています。
親鸞様は厳しい修行をされる中で、厳しく自己の心を見つめられ、無我の清浄な心に成りきれないことに行き詰られ、 法然上人に出逢われ、念仏のみ教えを頂かれたのでした。
「
歎異抄
(
たんにしょう
)
」の中に、
「
弥陀
(
みだ
)
の
誓願不思議
(
せいがんふしぎ
)
に助けられまいらせて
往生
(
おうじょう
)
をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころの
発
(
おこ
)
るとき
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
の
利益
(
りやく
)
にあずけしめたもうなり」
という言葉がございます。
一生懸命やったけれど出来なかった。
その中で、
弥陀
(
みだ
)
の
誓願不思議
(
せいがんふしぎ
)
を
仰
(
あお
)
ぎ、 自分には仏様に成る種、原因は全くないけれど、私が仏様に成る種を
阿弥陀様
(
あみださま
)
が 用意して下さり、われにたよれと み仏は、南無阿弥陀仏という名号となって、 この名号の心を聞いてくれ、聞き開いてくれと私達に呼びかけ続けていて下さっているのでした。
共々に仏様の救いの働きを仰ぎながら、感謝と
懺悔
(
ざんげ
)
のお念仏生活を送らせていただきたいものです。
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「ものさし」
正しいものにふれて
「はずかしい」
という気持ち-
真実なるものにふれて
「これでは いけない」
という気持ち-
「マチガッテイタ」
と知らされる気持ち-
人生には 必要なのです
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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