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平成28年3月
第53話
朝事*
住職の法話
「どんな人も認める光」
「法句経」の言葉に
『愚かなる者も おのれ愚かなり と思わば 彼は賢者なり
愚かなるに おのれ賢しと思うは 彼こそ まことの愚者なり』
『無益な語句を千たび語るよりも、 聞いて心の静まる有益な語句をひとつ聞くほうが、 はるかに優れている』
と釈尊は説かれています。
釈尊は心が静まるような言葉を説かれたのですね。
静けさに導かれるように説かれたのでしょうか?
本当に大事なものは、言葉を超えた静かな沈黙の世界なのでしょうか?
つい、「釈迦の言葉にこんなものがある。」くらいに軽く聞き流す、読み流す自分が恥ずかしく感じられます。
そんなに軽い言葉なんか釈尊は一言も説かれたことはなかったのでした。
『一言が人を生かし 一言が人を殺す』という言葉を聞きました。
一日の終わりに、「私は今日一日、他人が不快になるような言葉を言わなかっただろうか?」と反省されていた先生がおられました。
その先生は、私が子供の頃、道で出会った時に、周りに人が取り巻いていても、先生は、私を見つけると静かに手を上げて挨拶して下さるような人でした。
ささやかですが、私にとって、忘れられない静かな一場面です。
そういう先生に習ったことが、今とても嬉しく思い出されます。
言葉について説かれた言葉が経典にあります。
まことの三語【「
十地経
(
じゅうじきょう
)
」より】
諦語
(
たいご
)
【事実を正しく表した語】
実語
(
じつご
)
【実意・愛がこめられた語】
時語
(
じご
)
【時・処にふさわしい語】
この三つをかねそなえた言葉を
正語
(
しょうご
)
という。
また、
十悪
(
じゅうあく
)
の中に 「言葉」が四つも含まれている。
妄語
(
もうご
)
【事実を表していない語】
両舌
(
りょうぜつ
)
【人の間をさき、和をこわす語】
悪口
(
あっく
)
【人を腹立たせ、悩ます語】
綺語
(
きご
)
【無意味な、
巧
(
たく
)
みに
飾
(
かざ
)
りたてた語】
『法句経』の言葉に、
「言葉がむらむらするのをまもり落ちつけよ。
言葉を
慎
(
つつ
)
しめ。
言葉による悪い行いを捨て、言葉による善をなせ。」
と説かれています。
無駄なことは一言も言われない釈尊の言葉であると、私のための言葉と味わう次第であります。
良寛さんの言葉についての
自戒
(
じかい
)
の言葉があります。
こころよからぬものは-
「ことばの多き 口のはやき さしで口」
「手がら話 へらず口」
「
唐
(
から
)
ことばを好みてつかふ」
「おのが意地をはりとほす」
「もの知り顔の話」
「この事すまぬうちにかの事いふ」
「くれてのち其の事人にかたる」
「返すといひて返さぬ」
「にくき心をもちて人を叱る」
「悟りくさき話 ふしぎばなし」
「神仏のことかろがろしくさたする」
「親切げにものいふ」
「人にものくれぬさきにその事いふ」
「おれがかうしたかうしたといふ」
「この人にいふべきをあの人にいふ」
どれも思い当たることばかりのような気がしますね。
いくら人生経験の豊富な人でも、世間のことはよくよく体験して、知っていても、自分の姿は見えないものではないでしょうか?
あるマルチタレントでコメディもされるし俳優も司会もされる男性が言われていました。
『お笑いの芸人の先輩に言われた。
「お前があの芸人は上手いと思っている人は神様みたいな人だと思え。
あの芸人は、自分より少し上手いと思っている芸人は、お前よりはるかに上手い人だと思え。
あの芸人は自分と同じくらいの実力かなあーと思っている人は、お前より上手い人だと思え。
あの芸人は下手だ。やめればいいのにと思っている芸人がお前だ。」と。
自分のことは分からないものですね。
自分が観客の席で他人の芸を見ている時は、けなしたり、批判したりして見ているけど、自分が舞台に立つと大変なことだったと。』
と謙虚に言われました。
その人は十分過ぎるほどの存在感のある方なのですが、それでもなお昔に先輩に言われた言葉をかみしめているところに感銘受けました。
私も20代の時に、初めて人前で法話したとき、あるお茶の先生から、本を頂きました。
その本の中に、「物事は自分が思っているほどうまくは出来ていないものだ。そういう視点が大事だ。」という意味の言葉が書いてありました。
今の世の中は、自分も含めて、他人に、そういうことを、さりげなく教えて注意してあげるということが少なくなった気がしますね。
先徳
(
せんとく
)
の言葉に
『世の人に「あれは馬鹿だ。」と言われたら、学問成就よろこべよ。』
というのがありました。
仏法の勉強をしても、「自分はこれだけ勉強してきました。」という臭いがしたらいけないということでしょうか?
自分がゼロで仏様が満点、それなのに、どこかしら「自分は偉い。」というものがあるのでしょうか?
人間は表向きは、信心らしい姿をしていても、内面は仏様を抜きにして、「自分が仏法をよく知った。」とか、 「自分は仏様のことが分かっている。」というところに停滞していることもあるように感じます。
これはあくまで自戒の言葉です。
ある先生は、「人間は偉そうにしている間は、決して嬉しいものではないよ。」と言われたそうですが、その通りでありますね。
達磨
(
だるま
)
の前に出て、彼に
「私は、これだけ仏法のために尽くしました。寺を沢山建てました。僧侶を沢山養成しました。この功徳は如何なものでしょうか?」 と質問した位の高い人に対して、達磨は言いました。
「
無功徳
(
むくどく
)
」と。
こんなことは、よほどの信念がなければ言えないことです。
達磨さんだからこそ言えた言葉でしょう。
人間というものは、自分がしたことにとらわれるものなのでしょう。
『「他人に求めない」ということが真の厳しい道である。』と言われたチベットの高僧もおられました。
『それまでは、いくら善行をしても、まるで「英雄物語」のようなもので、その先に「他人に求めない」という真の厳しい道があることに気づくことは ショッキングなことだ。』
とも言われていました。忘れられない言葉です。
人間は自分のしたことにとらわれ、その「とらわれ」のために苦しむものなのでしょう。
実際、色々な面で、 「
執着
(
しゅうちゃく
)
」に泣いているのが人間というものではないでしょうか?
毎日家族と共に生活していますが、「このままの状態がいつまでも続いてほしい。」と願うのも
執着
(
しゅうちゃく
)
なのかも知れません。
「家族全員が、健康でいつまでも長生きすることを願うことがどこが悪いのか!」と怒られそうですが、その心があるから苦しむというものも その通りではないでしょうか?【もちろん私もそうです。】
ある女性が言われました。
「人間より動物の死が悲しく感じられることがありますね。」と。
どういうことかよく聞いてみると、その女性が20年も飼っていた猫が最近亡くなったのだそうです。
写真も撮っているし動画も撮っている。亡くなって本当に悲しい辛いと。
『「人間は執着する心があるから苦しむのです。」とある御講師さんのご法話で聞きました。』と言いましたら、一瞬「どういうことか!?」という表情をされました。
私はその女性に『「それは執着だ!だからいけないのですよ。」と批判的な意味で言ったのではありません。
その御講師さんが言われた意味は、
「執着するから苦しむのですよ。」
ということを教えて下さったのであります。
そして、そのことに気づくと少しでも楽な気持ちになれると教えてくれている意味ではないかと思うのです。』
と言いました。
その女性は、言わんとする意味が分かったらしく、今度は深く
頷
(
うなづ
)
き納得されたようでした。
他人に何か教えを説くということになりますと、ついつい、
「自分は分かっているれど、相手は分かっていない。」
「だから私が教えてあげなければならない。」という姿勢になりがちです。
相手と対等に、全く同じ立場に立つ、同じ地平に立つといことは、実際には、かなり難しいことのようです。
相手は困っているから助けてあげなければならないということは、しない人間より素晴らしいし、
讃
(
たた
)
えなければならないと思います。
しかし、自分が相手より上に立ち、困っているから助けてあげるのだという視点は、ともすれば、知らず知らず相手を見下げた態度になりがちだそうです。
中々相手と同じ地面に立つことは難しいみたいです。
何かしてあげても、相手がお礼を言わないと、「してあげたのに礼も言わない。」と
愚痴
(
ぐち
)
が出たりします。
本当の親切ならば、相手がお礼を言おうが言うまいが関係ないはずです。
しかし、情けないことに、私には、やはりひっかかるものが出てきます。
これが純粋な親切ではないということで、それだから相手にも、私の親切は中々通らないのですね。
人間の
煩悩
(
ぼんのう
)
ということについての説明を聞きますと、 人間は純粋な善行・つまり
無我
(
むが
)
の行いを実行することは不可能だという気がします。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
が 「地獄しか行くところはない。」【『地獄は
一定
(
いちじょう
)
すみかぞかし』】
と言われた言葉が私のことと迫ってくるのを感じます。
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
」の中に
『
我亦在彼摂取中
(
がやくざいひせっしゅちゅ
)
』
「
我
(
わ
)
れも
亦
(
また
)
彼
(
か
)
の
摂取
(
せっしゅ
)
の中に在る」
と説かれました。
もちろん「
煩悩
(
ぼんのう
)
がいい。何をしてもいいんだ。」という意味ではありません!
「あるがままの、どうしようもない、私の
煩悩
(
ぼんのう
)
のままで、 仏さまの
救
(
すく
)
いの光の中 【
摂取
(
せっしゅ
)
の中に在る】に
抱
(
いだ
)
かれている。」
という意味ですね。
阿弥陀様
(
あみださま
)
のことを
無碍光如来
(
むげこうにょらい
)
とも言います。
どんな人でも、どんな人生でも、「あの人なんか駄目だ。」「あんな生き方はダメだ。あんな人生はいけない。」と否定しない働きのことです。
【もちろん、何をしてもいい、どんな悪いことでも許してもらえる、というような甘えた意味ではないのは当たり前のことです!】
【そんな教えなら、世の中を乱すだけです。そういう、間違った意味ではありません!】
それに比べて、私は他人のことを、「あんな人はおかしい!」「あんな人間の生き方はおかしい。」「あんな人生は認めない。」と否定ばかりしています。
阿弥陀様
(
あみださま
)
は、全てを生かして見て下さっているのだなあーとただ驚くばかりです。
「やはり仏さまは凄いなあー素晴らしいなあー。」と
讃
(
たた
)
えることしか出来ません。
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「恥じる」
ていさいばかり考えて
恥ずかしがらなくても
いいことなのに
ほんとうに
恥ずかしく思わなければ
ならないことを
少しも恥じようとしない
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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