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平成28年2月
第52話
朝事*
住職の法話
「今を味わう」
ある家にお参りすると、
『人生の 重きときあり 星月夜 』汀子
という掛け軸が床の間に掛けてありました。
【稲畑汀子 汀子第二句集】
『親戚が書いたもので、「人生が重いときがある。そんなときでも、見上げると星月夜が眺められる。」という意味の言葉です。』
という説明を聞き、「いい歌・いい言葉だなあー。」と感じました。
この歌を詠まれた方も、この言葉を選び書き、掛け軸にされた方も、色々と人生が重いときがおありだったことと、痛みさえ感じました。
苦しいときは、苦しみにとらわれて、なかなか空を見上げることを忘れがちになりますが、どんな時でも、見上げさえすれば、 そこには星月夜があるのだと教えられました。
何度も口ずさみながら、いつも私と共におられる仏さまのことを、連想させて頂いた次第です。
人生の苦しみの一つに、人間関係の苦しみがあります。
わがままな人間は、「他人が自分の思うように動いてくれることを願いすぎる傾向がある。」そうです。
また『「私がしてやった。」という思いが強すぎる傾向がある』とか。
また「単独行動を好み、協調性に欠けるところがある。」とか。
また、「上から目線で他人を見る傾向がある。」とか。
また、「自分に正直過ぎて、ついつい他人を批判することが強すぎる傾向がある。」とか。
いちいち、身に覚えのあることばかりです。反省したいものです。
「苦」は「
不如意
(
ふにょい
)
」といことで、 「自分の
意
(
い
)
の
如
(
ごと
)
くにならないこと」 だそうです。
ある人は、他人に何を言われても
馬耳東風
(
ばじとうふう
)
に聞き流せばいいと言われました。
もちもん、なんでも聞き流せばいいというものではありません。聞くべきことはしっかり聞くことも忘れてはいけません。
しかし、この世では、まともに聞いて、いつまでも気にしていても仕方ないようなことも多いような気がするのですが如何でしょうか。
「忘れること」も大事ではないでしょうか。
最近、ある惑星が発見されたそうですが、宇宙の時間のことを聞くと、気の遠くなるような時間で、それに比べて人間の一生は如何に短いかを 思わされます。
その短い人生の間に、「善い。悪い。」と自分中心に物を見て、相手が悪いと批判して、貴重な日々をいたずらに浪費しているのかも知れません。
そんなことばかりに人生を浪費しているのは、文字通りエネルギーの浪費なのかも知れません。
ある禅の
師匠
(
ししょう
)
に弟子が、禅の
境地
(
きょうち
)
を
問
(
と
)
うた時に、
師匠
(
ししょう
)
は、
「この
菓子
(
かし
)
は
美味
(
うま
)
い」
と答えた、という
逸話
(
いつわ
)
を聞いたことがあります。
この禅の師匠は、その時に菓子を頂き、食しておられたのでしょう。
だから、「この菓子は美味い。」と言われたのでしょう。
毎日忙しく生活していますと、食事もよくよく
味
(
あじ
)
わわずに、過ごすことも多い気がします。
いくら予定帳が予定で一杯になっていたとしても、生きているのは誰でも「今」です。
「今」しか生きられないのです。
「どんなに金持ちの人でも、貧乏な人でも、一日二十四時間は平等である。」と、私に言われた人がいましたが、確かに、その通りですね。
ふと観たテレビ番組で、七十代の女性で、主人を十年前に亡くされ、一人で暮らしていて、家に居る時は、 ほとんど絵手紙を描いている、という女性の活動が紹介されていました。
週に何日か、地元の観光地に出向き、訪れた人たちに、無料で自分の描いた絵手紙を差し上げているというのだそうです。
「人が集まって下さるのが嬉しいし、有り難い。」「人との触れ合いが自分に力を与えて下さるのだ。」
喜びをもって、生き甲斐として、絵手紙の作成に励んでおられるということでした。
主人が定年になり、夫婦で海外旅行に言った時に、色々な美術作品に接して、美術というものが如何に人間に
感銘
(
かんめい
)
を与えるものかということに目覚めて、 自分も美術作品を作成しようと思われたそうです。
絵手紙ですから、言葉も書かれています。その言葉に
惹
(
ひ
)
かれて、絵手紙を求める人も多いように見えました。
深い人生体験から来る言葉には、人を感動させる力があると、今更ながら、感じさせられました。
また、人間は誰でも、自分を支えてくれるような言葉を無意識に求めているのでしょうね。
その方は
看病
(
かんびょう
)
の経験もあり、 自分の人生体験からの言葉を絵手紙に書いているのでした。
絵の方も中々素晴らしいもので、絵と言葉のコラボレーションの味が素晴らしく、皆が求めるのも納得しました。
私も、ふと観たテレビ番組で、録画したわけではありませんので、正確には覚えておりませんが、【多少、間違いがあると思いますがお許し下さいませ。】
「あちらで ぶつかり こちらで ぶつかり 丸くなり」
といような言葉があったように記憶しております。
また、
「頑張らなくていいから 少し休んだら」
というような言葉も書かれていました。
「これは主人を看病して最近主人を亡くされた友人に差し上げたい。」と言われて、求めておられる女性の方もいました。
また、
「小さな一歩を大切に 大輪の花を咲かせたい」
というような言葉もあり、定年になったばかりの男性が求めていました。
また、
「もらうより与える方が幸せ」
というような意味の言葉もありました。
この言葉の通りに生きておられる方だと感じましたね。
私が注目した言葉の中に
「人生は 正しい より 面白い が大事」
というような言葉がありました。
この言葉は、深い味わいがあると感じました。
「正しいことはしなくていい、面白いことの方が大事だ。」という意味ではもちろんありません!
そんな言葉は世の中を乱すだけです。そんな浅い表面的な意味ではない!
私がこの言葉に感じたことは、 「やれ 善いとか、悪い」とか言って、他人の欠点ばかりをあげつらい、お互いに批判し合っている自分の生活が少し楽になるような言葉のように感じたからです。
「他人の批判ばかりしている生活より、もっと毎日味わい深く楽しく生きたらどうですか」というような意味を「面白い」という言葉に感じたのです。
『法句経』の言葉に
『人は沈黙する者をそしり 多く語るをそしり 又少なく語る者をそしる およそ この世に そしりを受けざるはなし』
という言葉があります。
無駄な言葉を一言たりとも言われない釈尊のお言葉であると思って、しみじみ味わう次第です。
この法句経の言葉を聞きますと、如何に我々が自分勝手なものさしで、勝手なことを言っているかが省みられる気がします。
「正しい より 面白い が大事」
という意味は、よくはわかりませんし、正確にも理解できているわけではありませんが、理屈抜きに
惹
(
ひ
)
かれたのです。
蓮如上人の言葉に、念仏の味いに、「あら 面白や」という言葉があるそうです。
私の生活は、「他人に負けてはおれない、負けてなるものか!世間の人に馬鹿にされたくない。」と、力んでばかりで、 自分自身の生活を面白いと感じる心のゆとりはなかったような気がします。
「クオリティー オブ ライフ」という言葉がありますが、「生活の質」というものを問題にした言葉のようです。
いたずらに、自分の力に任せて、他人と競争しながら、自己の力一杯を発散して生きていくより、生活の質というものにも心を
留
(
と
)
めたいと思うのです。
いたずらに、あれもこれもとすることよりも、たとえ小さな事でもいいから、心を込めて行い、
味
(
あじわ
)
っていきたいと思った次第です。
絵手紙の「面白いことが大事」ということは、自分の楽しいと感じることばかりしていく、わがままな意味ではなくて、 「もっと面白いということに、心を留めたらいいよ。」と呼びかけられているような気がして、心惹かれたのです。
「面白い」と言えば、「私は毎日を面白いと感じて生きているのだろうか?」ということも思われたのですね。
先般お亡くなりになられた漫画家の水木しげる氏は
「人間はワクワクドキドキすることが大事だ。自分は、私自身がワクワクドキドキしながら 漫画を描いている。命がけで自分の好きな漫画を描いている。自分の好きなことをしているのだから、苦しいことも乗り越えられる。」
というような意味のことを言われていました。
『苦の中に キラキラ光る 宝みつけよう』
という
先徳
(
せんとく
)
の言葉があります。
『法句経』の言葉に
『老いは苦なり 病いは苦なり 死は苦なり 人の別離は苦なり 人 憎みあうも苦なり 求めて得ざるも苦なり
かく 一切は苦なりと 智慧もてさとらば 人は苦より免れん』
とあります。
仏さまの智慧の灯火【ともしび】をたよりに、苦の中を、「仏と共に」歩ませて頂きましょう。
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「お大事に」
体の健康に注意することも
いのちを大切にすることですが
心を 問題にすることも
忘れてはなりません
ー何でもやたらと欲しがったり
すぐ 腹を立てたり
いつもグチや不平を言っている
心の姿に 気づこうヨ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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