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平成28年1月
第51話
朝事*
住職の法話
「たのもしく」
新年あけましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします。
昨年も色々な出来事がありました。 会社のトップがどん底に落ちる、ということもありましたね。 明日のことは誰れにも分からないですね。
「
有為転変
(
ういてんぺん
)
」 という言葉がぴったりの一年ではなかったでしょうか!
現代では、ある意味で、金持ちになることが幸せの
条件
(
じょぅけん
)
かも知れませんが、 本当の金持ちとは一体どういうことを言うのでしょうか?
一千万円持っていても、「一千万円しか持ってないよう!」と、
愚痴
(
ぐち
)
を言う人もいるでしょう。
たとえ
貧乏
(
びんぼう
)
でも、ゆったりと生きている人もいるのでしょうね。
現代のように
一寸
(
いっすん
)
先
(
さき
)
は分からないという
安心感
(
あんしんかん
)
のない時代では、お金というものが大きな
拠
(
よ
)
り
所
(
どころ
)
になってしまうということも確かにありますね。
しかし、ここで、一度、「本当の豊かということはどういうことなのか?」を考えてみたいと思います。
先徳
(
せんとく
)
の言葉に
『仏法は、ただなんとなく、たのもしく
本願力
(
ほんがんりき
)
を
仰
(
あお
)
ぐばかりぞ』
という
法語
(
ほうご
)
がございます。
阿弥陀様
(
あみださま
)
の
本願力
(
ほんがんりき
)
をたのもしく
仰
(
あお
)
いでいる
姿
(
すがた
)
を言われている
法語
(
ほうご
)
だと
味
(
あじ
)
わう次第です。
本当に変わらない
拠
(
よ
)
り
所
(
どころ
)
とは一体何なのでしょぅか?
先徳
(
せんとく
)
の言葉に
「
無明
(
むみょう
)
のあるところに、仏の教えがある。」
という言葉があります。
「
無明
(
むみょう
)
」とは、一体、何なのでしょうか?
「
無明
(
むみょう
)
」とは、「明かりが無い」と書きますね。
「
智慧
(
ちえ
)
」の無い 「
闇
(
やみ
)
」のことでしょう。
また、私の「
罪
(
つみ
)
の
闇
(
やみ
)
」のことでしょう。
私の
迷
(
まよ
)
いの根本が 「
無明
(
むみょう
)
」というものだとしたら、 「今の私そのもの」だということになります。
迷いの私が、ここにいるから、仏様は、その救いの活動を止めない。
迷っているものがいる限り、仏様はそこに働いていますよ。
仏様は、迷いの
衆生
(
しゅじょう
)
が、そこにいる限り、救いの働きの活動をし続けるというのです。
仏様は、迷いの
衆生
(
しゅじょう
)
を救う働きの中に、
安住
(
あんじゅう
)
を見出しておられるのでした。
自分の安住を、迷えるものを救う中に見いだしておられる。それが仏様です。
「
願作仏心
(
がんさぶっしん
)
は
度衆生
(
どしゅじょう
)
の
心
(
こころ
)
なり」
という「
和讃
(
わさん
)
」がございます。
「仏様に成りたいという心は、 迷いの
衆生
(
しゅじょう
)
を救う働きをする身にさせて頂くということである、仏様の力で。」
という味わいでしょう。
ある人は、自己中心的な人間のことを「我れさえよければいい。」と批判されていました。
私の根性は、まさに「我れさえよければいい。」というものです。
そういう私が、こうして
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
しています。
これは一体どういうことでしょう?
誰の力で、こうして
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
しているのでしょうか?
今、こうして私が仏法のご縁に
遇
(
あ
)
っている事実が 「
無明
(
むみょう
)
のあるところに、仏の教えがある。」ということの具体的な場所ではないでしょうか!
仏様は、迷いの
衆生
(
しゅじょう
)
が、そこにいる限り、救いの働きの活動をし続けるというのです。
仏様は、迷いの
衆生
(
しゅじょう
)
を救う働きの中に、
安住
(
あんじゅう
)
を見出しておられるのでした。
私も仏様に成らせて頂く道を
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
のご縁を通して頂いているのでした。
「自分さえお浄土へ参ればいいのだ。」ということではありません。
自分の迷いのこころが破られ、広い世界に出させて頂くことを教えているのです。
そうは言いましても、私の毎日の心の姿は、決して他人に誇れるようなものではありません。
私の心に何か確かなものがあると言えるでしょうか?
他人には
偉
(
えら
)
そうなことは言えても、 自分のあるがままの生活というものは、決して他人に
誇
(
ほこ
)
れるようなものではなく、
貪欲
(
とんよく
)
や、
瞋恚
(
しんに
)
【
怒
(
いか
)
り】、 小さなことにくよくよしたり、
愚痴
(
ぐち
)
が出たり、 自分の意に
叶
(
かな
)
わないと腹立ててみたり、相手を憎んでみたりします。
毎日が
煩悩
(
ぼんのう
)
の
日暮
(
ひぐ
)
らしであって、 情けない限りではないかと思うのです。
特に「他人に負けたくない。」という負けん気ばかりが強くて、実際には完全に負けていても、 自分の負けを認めたくない。「どんなことがあっても負けたくない。」という、 自分を
可愛
(
かわい
)
がる
自愛
(
じあい
)
の心の中に 『
慢
(
まん
)
』という
煩悩
(
ぼんのう
)
があります。
人生とは常に自分のそういう
根性
(
こんじょう
)
を見せてもらう
実践道場
(
じっせんどうじょう
)
の場でありましょう。
「
煩悩
(
ぼんのう
)
深くして底なし」と、
善導大師
(
ぜんどうだいし
)
の 「
礼讃
(
らいさん
)
」の中の言葉にあります。
確かに「
煩悩
(
ぼんのう
)
深くして
底
(
そこ
)
なし」ではないでしょうか。
仏様
(
ほとけさま
)
の
功徳
(
くどく
)
の
光明
(
こうみょう
)
に
出会
(
であ
)
い、 自分の
底
(
そこ
)
なしの
煩悩
(
ぼんのう
)
まで
照
(
て
)
らして下さる
如来様
(
にょらいさま
)
の
功徳
(
くどく
)
は、はかり知れないと気づかされるのではないでしょうか。。
私は自分の
罪
(
つみ
)
の感じ方が少ないのかも知れません。
自分が知っている自分は、ほんの表面的なものだけで、心の
奥底
(
おくそこ
)
にどんな心があるか分かりません。
反省
(
はんせい
)
した下から悪い心が出るのが
煩悩
(
ぼんのう
)
というものではないでしょうか。
香炉
(
こうろ
)
にいくら
磨
(
みが
)
きをかけたところで臭いは無くなりません。
それを、仏教語で、「
習気
(
じっけ
)
」と言うそうです。
いくら努力しても、「私が!」という
自我
(
じが
)
や、
貪欲
(
とんよく
)
や、
瞋恚
(
しんに
)
【
怒
(
いか
)
り】、
愚痴
(
ぐち
)
等の
煩悩
(
ぼんのう
)
の臭いが無くならない私たちではないでしょうか?
こういう私を
照
(
て
)
らし
支
(
ささ
)
えていて下さる
本願
(
ほんがん
)
の
底
(
そこ
)
が知れません。
『仏法は、ただなんとなく、たのもしく
本願力
(
ほんがんりき
)
を
仰
(
あお
)
ぐばかりぞ』という
法語
(
ほうご
)
がそういうところから味わいますと、
誠
(
まこと
)
に
有
(
あ
)
り
難
(
がた
)
い
安
(
やす
)
らかな
法語
(
ほうご
)
に
味
(
あじ
)
わえます。
親鸞聖人
(
しんらんしょぅにん
)
の 「
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
」の
総序
(
そうじょ
)
の
文
(
もん
)
の言葉に
『
無碍
(
むげ
)
の
光明
(
こうみょう
)
は
無明
(
むみょう
)
の
闇
(
あん
)
を
破
(
は
)
する
慧日
(
えにち
)
なり』
という言葉がございます。
「阿弥陀様の慈悲の光明・智恵の光明が私の闇を破って下さる。」という意味です。
私はこの一句を限りなく尊いものとして
仰
(
あお
)
いでおります。
『
一句万劫
(
いっくまんごう
)
の
渇
(
かつ
)
を
治
(
じ
)
す。』という言葉があります。
「いたずらに沢山のことを覚えていくのではなく、一つことをとことん味わい抜くということが大事だ。」と教えられたことがあります。
一句の中に、仏様の全体が現われているのです。
力
(
りき
)
まないといけないところに、 本当の
大安堵
(
だいあんど
)
はないのかも知れません。
真実
(
しんじつ
)
の道というものを
頂
(
いただ
)
くところに、何も自分で
力
(
りき
)
むことは
要
(
い
)
りません。
力
(
りき
)
まないといけないところには、「疑い」というものがあるのかも知れません。
二度と迷うことのない静かな
安堵心
(
あんどしん
)
が
信心
(
しんじん
)
の世界ではないでしょうか。
仏智不思議
(
ぶっちふしぎ
)
の
名号
(
みょうごう
)
を
仰
(
あお
)
ぐことこそ
不思議
(
ふしぎ
)
なれ。
これ一つだと
力
(
りき
)
むことなく、 これ一つに腹がすわっていく世界が、
如来様
(
にょらいさま
)
の お
誠
(
まこと
)
一つにひかれていく世界が、信心の世界ではないでしょぅか。
「
仏様
(
ほとけさま
)
あなたがいたおかげですなあー! 」
お母さんに本当に
抱
(
いだ
)
かれている子は、「お母さん!」と言うだけでしょう!
『
仏法
(
ぶっぽう
)
は、ただなんなとなく、たのもしく
本願力
(
ほんがんりき
)
を
仰
(
あお
)
ぐばかりぞ』
『お母さん!』と言うだけでしょう。
バックに
本願力
(
ほんがんりき
)
がある。
愚
(
おろ
)
かな私のバックに
本願力
(
ほんがんりき
)
がある。
勿体無
(
もったいな
)
いことです。
「
嬉
(
うれ
)
し、
恥
(
は
)
ずかし、
恥
(
は
)
ずかし、
嬉
(
うれ
)
し。」
恵
(
めぐ
)
まれた
信
(
しん
)
を
仰
(
あお
)
ぎつつ、
御恩報謝
(
ごおんほうしゃ
)
の 生活をさせて
頂
(
いただ
)
くよう
努
(
つと
)
めたいものです。
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「ツノ」
ツノは 心の姿
むさぼり・腹立ち・おろかさ
他人のツノは よく見えるが
自分のツノには 気がつかない
手を合わせ
仏さまを 拝むとき
わたしのツノを 知らされる
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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