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平成27年12月
第50話
朝事*
住職の法話
「痛みがわかる」
今年も残りわずかとなりました。一年の
総決算
(
そうけっさん
)
と同じように一生の
総決算
(
そうけっさん
)
というものを考えるのだと、教えられたことがあります。
考えてみれば、今年も何人も知った方が亡くなられました。
「人生は一寸先はわからない。」と言いますが、 まさにその通りですね。
悲喜
(
ひき
)
こもごもの人生です。
「人生はあざなえる
縄
(
なわ
)
の
如
(
ごと
)
し」という言葉もございます。
あまり悲観的な考えばかりではいけない。希望を持って歩みたいものです。
しかし、人生は、嬉しいことがあったかと思うと、次に悲しいことが起こったり、「こんなはずじゃなかったのに・・」 というため息が、色々なところから聞こえてくる気がします。
「だからこそ、仏法を聞かせて頂かなければならないのだよ。」という声なき声が聞こえてくる思いが致します。
全て「お育て」ですね。私自身のお育てですね!
「嬉しい時も、南無阿弥陀仏、かなしい時も、南無阿弥陀仏。」
どんな時でも、変わらない拠り所を頂くのが、信心の世界ではないかと味わわせて頂く次第です。
喜びの日は、喜びの日を歩み、悲しみの日は、悲しみの日を歩む。
悲しい日、淋しい日に、喜びの道を歩もうとしても、嘘になることでしょう。
この世界は、どうしようもない悲しみを抱えて、一人一人が生きている世界でしょう。
どんなに幸福そうに見える人でも、裏に回れば、人知れず涙を流しておられることでしょう。
ある子供を亡くされた方が言われました。
「他人と一緒にいる時ではなくて、一人になる時に、悲しみというものは湧いてくるものですよ。」と。
だから表面的に、ニコニコされていても、一人きりの時に悲しんでおられるかも知れないということですね。
だから、「中々、他人の痛みというものは、わからないものだなあー。」ということになります。
その点、仏様という方は、我々とは
随分
(
ずいぶん
)
違います。
仏様の心を、
同体
(
どうたい
)
の
慈悲
(
じひ
)
と言います。
「
同体
(
どうたい
)
」とは、「私達と一体」という意味です。
また、
慈悲
(
じひ
)
の心を説明した言葉に、「カルナー、マイトリー」という言葉があります。
「カルナー」とは、「うめく」という意味です。
我々が苦しみにうめくと、仏様も、一緒にうめくという意味だそうです。
「マイトリー」とは、「友達」というような意味だそうです。
仏様は、高いところにおられる方ではなく、私と同じところまで来て下さって、悲しい時は、共に悲しみ、苦しい時は、共に苦しんでいて下さっているのが、 仏様の
同体
(
どうたい
)
の
慈悲
(
じひ
)
の活動です。
浄土と言うものは
活動体
(
かつどうたい
)
である、活動とは、働き、です。
「法」という字も、左側に、「水」を表す字が付いています。
水は高いところから、低いところに流れていきます。
「
本願海
(
ほんがんかい
)
その水流れて、浄土真宗」
私に向かって働いていて下さるのです。
「南無阿弥陀は如来の呼び声である。」というのはそういう意味です。
この私を、仏様にさせたい、という願いが阿弥陀様の願いです。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにんん
)
は、「正信偈」の中で、
「
往
(
ゆ
)
くも
還
(
かえ
)
るも
他力
(
たりき
)
ぞと、 ただ
信心
(
しんじん
)
をすすめけり、まどえる身にも信あらば、 生死【まよい】のままに涅槃【すくい】あり。 ひかりの国【阿弥陀仏の浄土】にいたりては、あまたの人を救うべし」
「浄土へ
往
(
ゆ
)
くことも、 浄土から
還
(
かえ
)
ることも、
他力
(
たりき
)
である」
と説かれています。
全分、仏様の力のみで救われていく、という
究極的
(
きゅうきょくてき
)
な
真理
(
しんり
)
が説かれています。
これを自分勝手に
下手
(
へた
)
に
解釈
(
かいしゃく
)
したり、 自分の
都合
(
つごう
)
で
歪
(
ゆが
)
めて
解釈
(
かいしゃく
)
するのではなく、そのままに
頂
(
いただ
)
くべきでしょう。
ある
先徳
(
せんとく
)
の味わいの
法語
(
ほうご
)
に、
「助けてくださるから 助かるのである。南無阿弥陀仏は助ける力であり 助かる力である。」
という言葉がございます。
この単純な言葉の中に、仏様の
純粋
(
じゅんすい
)
な働きが
述
(
の
)
べられています。
ある方が仏法の研修会で、質問したそうです。
「お浄土について、
経典
(
きょうてん
)
には、
金銀瑠璃
(
きんぎんるり
)
で美しく
荘厳
(
しょうごん
)
【飾られている】されている。
お浄土では、
百味
(
ひゃくみ
)
の
飲食
(
おんじき
)
が
得
(
え
)
られる、 というような表現がなされているが、これは、私たち
凡夫
(
ぼんぶ
)
の関心を
惹
(
ひ
)
こうとして、 こんな
魅力的
(
みりょくてき
)
な表現がされているのですか。」と聞かれたそうです。
すると先生は、「あなたは、まだそんなことを言っているのですか。
浄土
(
じょうど
)
とは、
活動体
(
かつどうたい
)
ではないですか。」と
諭
(
さと
)
されたそうです。
浄土
(
じょうど
)
という
活動体
(
かつどうたい
)
が南無阿弥陀仏という
呼
(
よ
)
び
声
(
ごえ
)
となって、 私たち一人一人の心のどん底に、
煩悩
(
ぼんのう
)
の荒れ狂う私の心の底に、変わることなく、 働きかけて下さっていたのでした。
その質問した人は、後年、「あの時は、あんな質問をして、先生に
諭
(
さと
)
されたけれど、、。」と言われながら、 「
浄土
(
じょうど
)
の
百味
(
ひゃくみ
)
の
飲食
(
おんじき
)
」ということについての説明を 次のように話されました。
「
浄土
(
じょうど
)
へ
往
(
ゆ
)
くと、全ての生きとし生けるものが、我が子に見えるようになる。お浄土へ
往
(
ゆ
)
き、仏と成ったら、この全ての我が子を救う働きをするのだ。
我が子を救うほど楽しいことはない。それは、 まるで
百味
(
ひゃくみ
)
の
飲食
(
おんじき
)
を食べるようなものだ、《我が子を救う仕事の喜び》というものを、
百味
(
ひゃくみ
)
の
飲食
(
おんじき
)
を食べるようなものだと、 説かれたのだ。」と
味
(
あじ
)
わいを
込
(
こ
)
めて話されました。
その方も、何年か前に
往生
(
おうじょう
)
されました。
今は姿は見えませんが、我が子を
救
(
すく
)
う働きをされているのでしょうか。
さて、
親鸞
(
しんらん
)
様は、 「その
浄土
(
じょうど
)
へ
往
(
ゆ
)
く力も、
浄土
(
じょうど
)
から
還
(
かえ
)
る力も、
他力
(
たりき
)
だと、 ただ
信心
(
しんじん
)
をすすめられました。
まどえる身にも
信
(
しん
)
あらば、生死【まよい】のままに 涅槃【すくい】あり。」と 「
正信偈
(
しょうしんげ
)
」で説かれています。
浄土への道を私たちに示された
親鸞
(
しんらん
)
様の教えを、共に聞かせて頂き、仏様に成る道を歩ませて頂けることは、
勿体
(
もったい
)
ないことです。
素直にみ教えを、み教えのままに聞かせて頂きましょう。合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「眼」
人間の目は
外を向いているから
外のものは
よく見えるけれども
自分自身を
しかと見つめる眼は
なかなか身につかない
-自分心の姿を
深く知る眼をいただこう
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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