朝事あさじ・住職の法話

平成24年3月「真実は如来なり」

早朝より、ようこそお参り下さいました。この中にも咳をされている方がおられますが、私も風邪をひいて少し仕事も休んでいました。皆様にご迷惑をおかけしました。
ある本に、「あす死ぬとわかっていてもやるのが養生」という言葉がありました。その本に『関ヶ原に敗れて京都で斬首された、有名な戦国の武将、石田光成のエピソードに、刑の前日、捕えられて引き回され、処刑の場に移送される時に、警護の武士から干し柿をすすめられて干し柿は腹に悪いから、と辞退したという話は有名です。』という話が紹介されていました。
又、その本に、『今までよく体が動いていてくれた、生きている自分を少しでも楽にさせてあげよう。そして大切にしなければ、生きている自分というのはすごいなあ、驚きをもって思ってみる。自分の命に対する尊敬の気持ちが自ずと湧いてくれば、どんなに不満足な人生であったとしても、それを大切にすべきである。だから養生が大切なのだ。』という意味のことが書いてあり、感銘を受けました。
自分の身体に対する尊敬の念、感謝の念が養生の基本にあるということに心打たれました。ある本にも、父母から授かった身体を痛めないで大切にすることが孝行のはじめである、という意味の言葉が書いてありました。すべて「ご恩」ということが基礎にあるのだと感じさせられました。
本日は、「真実」ということについて、みなさまと一緒に、味わいたいと思います。
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい』という根本聖典を書かれています。題にも、『真実』という言葉がございます。
親鸞聖人の「真実」という解釈は、私の側では一切言わない。私の側から仏さまの方に向かっていく立場、これが「不実」です。「真実」の方は、仏さまの側から私にはたらきかけてくださる、これが「真実」です。私の側から向かっていく立場は全部アウトです。本当ではないんです。仏さまの側から私にはたらきかけてくださるものしか真実はないんです。そのように「真実」について説かれています。
ある言葉に
「自分に都合の良いことは悪でも善になり、自分に都合の悪いことは善でも悪になる」
というものがございましたが、「確かにそうだなあ。」と思わずにおれませんでした。同じ意見でも、喧嘩している人から言われると反発心が湧いてきますが、いつも世話になっている人から言われると、「そういうこともあるのかなあ。」と少し受け入れ、聞き耳が立ちます。これは、如何に自分勝手な、自我中心の尺度で生きているかという証ではないでしょうか。
親鸞さまは
『外側に真面目そうな格好はできん、何故か言うたら、内側は裏腹になっているから。』
と自己を厳しく誤魔化すことなく見つめられ、深く仏さまに照らされて、教えを味わわれています。
信心というものが大切だと説かれていますが、信心の形容詞に「真実信心」「他力の信心」「願力回向の信心」「如来回向の信心」という表現で説かれ、『信心は仏様の働き』ということが、根本になっています。
私の心で信じていく中には、自分の都合が混じったり、何より、知らず知らず、仏さまの働きを無視していることになっています、仏様の働き抜きの信心というものはないということでしょう。
「教行信証」の中に、南無阿弥陀仏を解釈するところがございますが、その中に『はからうなり』という言葉がございます。これはどういう意味かと言いましたら、『阿弥陀の側の受け持ちである』ということです。何の受け持ちかと申しますと、「どうしたら救われるか」と計らう仕事が、こっちの仕事が、既に如来さまの受け持ちである、仕事であるということです。そういうことで、この『はからうなり』という言葉は素晴らしい意味なんです。
尻切れとんぼみたいな終わり方になって、すいませんです、今日は「真実は如来なり、如来は真実なり」ということにつきまして、味わわせて頂きました。
親鸞さまは、「ただ念仏のみぞまこと」と深く味わわれ、我々に教えられました。共々に、親鸞さまの教えを学んでいきましょう。ようこそ、お参り、お聴聞頂きました。有難うございました。    合掌


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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