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平成27年10月
第48話
朝事*
住職の法話
「仏様のお陰で」
「お
陰様
(
かげさま
)
」という言葉をよく使いますが、 味わい深い言葉ですね。
自分の力を主張して、「私はこれだけのことをした。」と言うのは、確かにその通りなんでしょうけれど、 「それは他人が評価して言うことではないか?」と思うことです。
お互いに
凡夫
(
ぼんぶ
)
だから仕方ないことですが、 根本的なことは、「救いの働きということにおいては、私の力はそこに
微塵
(
みじん
)
も、役に立たない。」ということではないでしょうか。
よく、「私の力なんか何もないのだから、、。」というような言い方をしたりしますが、 それは、「救いの働きに対しては、私の方から何一つ付け加えたりする必要がない。」ということでしょう。
聞いた話ですが、戦後、戦争が終わって、 「これからは
仏法
(
ぶっぽう
)
の為に、いよいよ
一生懸命
(
いっしょうけんめい
)
になってやらなければならない。」とある人が言うと、 ある
仏法
(
ぶっぽう
)
の先生が「何かやることがあるのかいな?」と言われた。
という
逸話
(
いつわ
)
を聞いたことがあります。
中々面白い話だと思うのですが、 皆さんは、
如何
(
いかが
)
お考えになりますか?
戦争も終わったし、これからの日々を
仏法中心
(
ぶっぽうちゅうしん
)
の生活をしていきたい、
仏法
(
ぶっぽう
)
のために尽くしていきたい、 という尊いやる気に満ちた言葉のように感じますが、どうして、その先生は「何かやることあるのかいな?」と、 水を
差
(
さ
)
すようなことを言われたのでしょうか?
それは、「私の救われるという働きにおいては、私の方から働く
隙間
(
すきま
)
は
一寸
(
いっすん
)
たりとも無いのだ。」
ということを、先ず、最初に、おさえて下さった言葉だと味わう次第です。
人間というものは、眼が外を向いています。何かにつけて、外へ外へと気持ちが動きますね。
つまり、欲望に振り回されている生活ということです。
親鸞聖人も「自分は
愛欲
(
あいよく
)
や
名誉欲
(
めいよよく
)
から離れられず、救われることを喜ばない者だ。」と 反省し、告白されています。
我々が如何に、
外向
(
そとむ
)
きの生き方をしているかが思われます。
「自分とは、一体何者なのか?自分とは誰れなのか?」ということを問われたら、私は、どう答えることが出来るでしょうか?
自分のことを敬っているでしょうか?
「自分なんかつまらない、生きている価値がない、何のために生きているのか分からない。」と感じていないでしょうか?
生きていて、自分自身を
尊
(
とうと
)
べないほど情けないことはないという気もするのですが
如何
(
いかが
)
でしょうか?
自分の身体も自分であまり大切にしていなくて、
不摂生
(
ふせっせい
)
をしているのは、 自分の身体も敬っていないからではないでしょうか?
人間の身体は、老病死などの苦悩などもございますが、身体自身は、実に素晴らしく出来ています。
そして、一刻も休むことなく、私のために働き通しに働いて下さっています。
死ぬまで、働きづめに働いていて下さっている自分の身体ですが、別に「いつも働いてくれて、私を生かしてくれて有難う。」と、 お礼を言うこともないような気がします。
たまには、身体に、「有難う。」とお礼が言いたいものです。
そして、また頑張っていきたいものです。
「自分が今・こうして在ることが、如何に多くの働きのお陰であることが出来るか?」という「生かされている事実。」
それを仏教では、
縁起
(
えんぎ
)
という教えで教えています。 「すべてもちつもたれつ」という心です。
計り知れないご恩のおかげで生きている。
今・ここに在ることの深みを一人ひとりが持っている、ということではないでしょうか?
そういう尊い事実に目覚めずして、眼を「外へ、外へ」と向けて、「愛欲」「名誉」等々とキリがない欲望に振り回されるだけで 一生を終わってしまうのは、どこか淋しい、虚しい気がします。
しかし、性懲りもなく、同じように愛欲や名誉に引きずり回されるのはどうしてでしょうか?
本当の救われるよろこびを知らないから、救いの尊い静かな深い味わいが感じられないからでしょうか?
親鸞様は
「あなたが一人いて、仏様のご恩を喜ぶのなら、二人で喜んでいると思って下さい。二人で仏様のお慈悲を喜んでいる時は三人で喜んでいると思って下さい、 その一人は
親鸞
(
しんらん
)
だと思って下さい。」という意味のことを言われています。
島倉千代子さんが歌われていた「しんらんさま」という歌があります。
「しんらんさま」
滝田常晴 作詩/古関裕而 作曲
そよかぜわたる あさのまど
はたらく手のひら あわせつつ
南無阿弥陀仏と なえれば
しんらんさまは にこやかに
わたしのとなりに いらっしゃる
きらめく夜空 星のかげ
あらしにきえても かくれても
南無阿弥陀仏 となえれば
しんらんさまは ともしびを
わたしのゆくてに かざされる
この世の旅の あけくれに
さびしいいのちを なげくとき
南無阿弥陀仏 となえれば
しんらんさまは よりそって
わたしの手をとり あゆまれる
この歌詞から感じる親鸞さまは、とても身近な方だという感じがします。
私としては、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、 迷いの私を
導
(
みちび
)
かれる方として、敬うことは当然でしょう。
しかし、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、 「あなたも、私と同じ信心に住してくれ。」と願われているという気がするのです。
「自分と同じ信心になれるのだから、なってほしい。」と願っておられる気がします。
「
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
と同じ信心に住してこそ、 親鸞聖人への ご
恩報謝
(
おんほうしゃ
)
になるのだ。」と
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
も言われています。
私とすれば、身近な親しい感じのする
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
を通して、
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
」や 「
御和讃
(
ごわさん
)
」等で、我々を正しく導かれる、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
に段々と出会わせて頂きたいものです。
お
釈迦様
(
しゃかさま
)
は、一人の泣いているイダイケ夫人のところに、現われ、
法
(
ほう
)
【教え】を
説
(
と
)
かれています。
私のことを一番に気にかけて下さっている方がお釈迦様や
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
ではないでしょうか。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
の
御和讃
(
ごわさん
)
に次のような御和讃がございます。
『
如来
(
にょらい
)
の
作願
(
さがん
)
をたずぬれば
苦悩
(
くのう
)
の
有情
(
うじょう
)
を
捨
(
す
)
てずして
廻向
(
えこう
)
を
首
(
しゅ
)
としたまいて
大悲心
(
だいひしん
)
をば
成就
(
じょうじゅ
)
せり』
「阿弥陀さまは、苦しみ悩む私がここにいるから、『必ず救う』という願いを、私に振り向け、慈悲のこころを絶えず注いで下さっている。」 というお心と味わいました。
人はそれぞれ、その人にしか分からない
苦悩
(
くのう
)
を
抱
(
いだ
)
いて生きています。
苦悩
(
くのう
)
の
有情
(
うじょう
)
【有情=心あるもの】を何より一番に救おうとして下さっている、
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
慈悲心
(
じひしん
)
を感じさせられる
御和讃
(
ごわさん
)
だと味わわされます。
「私なんか生きていても仕方ないのだ。」「私はつまらない人間だ。生きる価値もないものだ。」と思う前に、 大きな
仏様
(
ほとけさま
)
の
光
(
ひかり
)
を
仰
(
あお
)
ぎましょう。
きっと、そこには、私の前に開かれた
大道
(
だいどう
)
が感じられることでしょう。
そして、そこには、仏様に成ることの出来ない、
救
(
すく
)
われ
難
(
がた
)
い自分の姿を見つめつつ歩む世界も、 同時にあることであります。
それと同時に、この何の
取柄
(
とりえ
)
もない
煩悩
(
ぼんのう
)
まみれの
凡夫
(
ぼんぶ
)
の 私が
仏様
(
ほとけさま
)
に、 絶えず呼ばれている 感謝と
懺悔
(
ざんげ
)
の お
念仏生活
(
ねんぶつせいかつ
)
をさせて頂いていることです。
この凡夫の私が、仏様に願われている感激を胸に、 益々み教えを
聴聞
(
ちょうもん
)
し、
親鸞
(
しんらん
)
さまと、
一味
(
いちみ
)
の
信心
(
しんじん
)
に
住
(
じゅう
)
し、
正
(
ただ
)
しく
仏
(
ぶつ
)
の
大悲心
(
だいひしん
)
を学んでいきましょう。
苦悩
(
くのう
)
の
有情
(
うじょう
)
に動いているのが、 仏様のこころであると味わわせて頂く次第です。
こういう愚かな私がいるから、
阿弥陀様
(
あみださま
)
が
苦悩
(
くのう
)
の
有情
(
うじょう
)
を 救いたいという
本願
(
ほんがん
)
を起こされたのです。
共々に、仏の大悲心を聞かせて頂きましょう。 合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「ワカリマシタ」
「ワカリマシタ」
と 言っても
実行しなければ
わからない のと
同じだヨ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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