平成27年9月 第47話

朝事*住職の法話

「仏様の呼び声」

ある法語ほうご
「聞いた おぼえたこころまで  弥陀みだに取られて 丸はだか、はだかでいつも 親の前、 何十年の聴聞ちょうもん免状めんじょうすてて 幼稚園、これから先も 幼稚園、 聞かぬ昔の赤児あかごにて  大般涅槃だいはつねはん超証ちょうしょうす  願力がんりき 不思議ふしぎ不思議なり。」

という言葉がございます。
仏法ぶっぽう聴聞ちょうもん にきわまる」【蓮如上人れんにょしょうにん】という言葉がございます。 
仏法ぶっぽうは聞くことが大事である。
しかし、聞いていくと、知らず知らず、「自分は何年も聞いてきた。」というような 自我じがが出てきます。
しかし、それは、色々な先生や、法友ほうゆう同行どうぎょうから聞いたものであり、本で読んだり、法友に教えて頂いたものです。
つまり、とうと仏縁ぶつえんではありましたが、他から聞いたり、教えて頂いたものであり、 それらは、自分自身の身に あじわいではなかったのです。
り物」の知識に過ぎなかったのでした。
「聞いた おぼえたこころまで 弥陀みだに取られて 丸はだか」とは、 どういう味わいなのでしょうか?
今まで、自分なりに、色々な先生や、法友、同行から 一生懸命いっしょうけんめい聞いてきた。
しかし、それは「借り物の知識」に過ぎなかったという味わいで、 「弥陀みだに取られて 丸はだか」とは、 阿弥陀あみださまの 真実しんじつの前では、 自分が聞いてきたことは何の力にもならなかったということではないでしょうか?
そこで、「何十年の 聴聞ちょうもん免状めんじょうすてて 幼稚園」とは、どういう味わいでしょうか?
今までの、「借り物の知識」を一度、 白紙はくしにして、というように あじわってみては 如何いかがでしょうか?
「これから先も 幼稚園、 聞かぬ昔の赤児あかごにて  大般涅槃だいはつねはん超証ちょうしょうす  願力がんりき 不思議ふしぎ不思議なり。」
とは、どういう味わいでしょうか?
「これから先も 幼稚園、聞かぬ昔の  赤児あかごにて」とは、どういう味わいでしょうか?
これから、仏法の知識を勉強していくのではなく、仏様の言葉を通して、仏様のおこころを味わうことが大事というふうに味わってみました。
「仏様のこころ」と「凡夫の心」とは、大変な ちがいがあります。
古歌こか
「心こそ 心まよわす心なり 心よ 心に 心を  ゆるすな。」
というような歌があったと思います。
自分の心こそ、自分を迷わすキツネやタヌキであったのです。
ある人が言われました。
「心は自分をだますものだ。心はずるく、 狡猾こうかつである。」と。
ある 先徳せんとくは言われました。
「他人にだまされて まよっていくのではない、 自分の心にだまされて まよいの世界に行くのである。」と。
ある法語ほうごに、
「ころころと ころがる心 あてにすな。きのうの心 どこへやら 今の心も 風車かざぐるま  あすの心もたよりない、 三世さんぜ の心かわりずめ。 あてになるのは おやのお慈悲じひ の 南無阿弥陀仏なもあみだぶつ 。」
とございます。
自分の心が言いました。
「お前はよく 仏法ぶっぽうを聞いてきたなあー。 えらいなあー。」と。
また、「なんで今、仏法聞くことがあろうか?仏法聞くことなんか明日でもいいじゃないか。」と。
キリがないほど、色々なことを、まことしやかに自分に むのが、 わが心というものなのかも知れません。
そういう私の心をじっと見つめている、もう一つの大きなこころがあります。
それが「仏様のこころ」というものではないでしょうか。
仏様の世界から、いつでも、どこでも、私が気づくより前から、私のところに とどけられている働き。
それが、 「仏様ほとけさまごえ」であり、 「南無阿弥陀仏なもあみだぶつ」であります。
念仏ねんぶつ もうしながら、今、今、今と、この身の事実を、仏様と共に生かされていく世界が恵まれている。
私は、 一瞬先いっしゅんさきも見えないし、分からないし、常に しずみ、常に 流転るてんしている、 煩悩ぼんのうまわされている 凡夫ぼんぶに過ぎません。
苦悩くのう有情うじょう 【苦しみを抱えた、情(こころ)あるもの】でしかありえない私です。
しかし、仏様の南無阿弥陀仏なもあみだぶつごえの光に いだかれて、自分の姿を見ては 懺悔ざんげ仏様ほとけさまひかりあおいでは 感謝かんしゃのお 念仏生活ねんぶつせいかつを させていただきたいものです。
毎日まいにち生活せいかつは、 「後悔こうかい」の 連続れんぞくです。
失敗しっぱいしては、 後悔こうかいして、という かえしです。
しかし、 『後悔こうかい時間じかん無駄むだだ。 後悔こうかいして なやみ、 仏様ほとけさまの前で 懺悔ざんげして、心を立て直していくのは、良いようだけれど、 「自分は後悔こうかいし、 反省はんせいし、仏様の教えを聞いて 出直でなおした。自分は 真面目まじめなのだ。」という 「自我じが」を 益々ますます強めていく とし あながある。』とか。
人間は、たとえ、後悔こうかいし、 懺悔ざんげして、 出直でなおしても、あくまで、 「自我じが」から はなれられないものなのでしょうか。 
どこまでも、ずるい心、 狡猾こうかつな自分の心とは、こういうところにもあらわれているのでしょうか?
無意識むいしきなだけに、空恐ろしい気がします。
私の煩悩ぼんのうの心を見ている 「仏様ほとけさまのこころ」が
南無阿弥陀仏なもあみだぶつ」の 「仏様ほとけさまごえ」として、 あやまどおしの私に、今、今、今と はたらつづけていて下さる。
そんな仏様ほとけさまとうといお はたらきを、 日々ひびいま念仏ねんぶつの中に あじわい、 一日一日いちにちいちにち 出来る限り、意識いしきして、 大事だいじすごしたいと思う 次第しだいです。    合掌

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「慣れる」
「慣れる」と
  
いつのまにか
  
いい気に なって
  
つい なまけてしまう
 
油断したり あたりまえだ と
   
思ってしまう
   
「慣れ」を 
  
おそれる気持ちを     
大切にしたいネ 
  
    
   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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