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平成27年8月
第46話
朝事*
住職の法話
「慎みの生活」
夏の甲子園大会の季節となりました。
少年野球の指導などしてこられ、野球のことをよく知っておられる方曰く 「指導者というものはとても大事なものである。」と。
「選手の能力・素質などを見抜く力を持っていることが大事である。」とか。
「身のさばき方や身のこなし方など、基礎的なことや、心理的なこと、等々、基礎を徹底的に身に叩き込むことがとても大事なことだ。」とか。
「平生に基礎的なことを徹底的に練習しておくと、試合の時に日頃の練習というものが効力を発揮するのだ。」とか。
その人の話を聞いていると、野球というものはこんなにも奥深いものなのか、試合や練習一つ見ても、こんなにも深く見る見方もあるのだなあーと感心させられました。
選手の背後には、常に指導者という存在が居ることを忘れてはならないと思わされました。
仏法聴聞の上でも、指導者というものが、とても大事なものでしょう。
私達は、釈尊をはじめとして、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人等々、私達は、私達を 指導して下さる善知識【先生】を 色々なご縁で恵まれています。
しかし、中々、師匠の言われることは素直に聞けないものだと、しみじみ思います。
「自分は弟子の資格のない者だ。」と思わずにはおれません。
しかし、「自分の死」というもの、「今死んだらどうなるのか?」ということを、自分の問題として、他人事ではなく、 「自己の質問」を持って行くときに、「私は弟子の資格のない私です。」なんてのんきなことは言っておれないことを反省させられます。
釈尊は弟子に、「人の命はどのくらいの長さか?」と質問され、弟子は色々と返事をします。
「人の命は、一呼吸の間です。」と答えた弟子の答えに、釈尊は初めて、「その通りだ。」と承認されたと言われています。
「人間の命は一呼吸の間だ。出る息・入る息の間に命がある。」ということは、「一呼吸の間・その間にやるべきことがある。」ということだと教えられました。
「死の瞬間」について書かれた本の中の一部に「人はいよいよ自分が死を迎えるときに、その境地になったときに、我々が一生、一生懸命になってきたことは、 本当に大事なものは一つもなかった。つまらんことばかりに一生懸命だったことが悔やまれる。」という意味の言葉があるそうです。
考えさせられる言葉だと思います。
それでは、自分の死を見つめて行った仕事が本当に価値がある仕事なのでしょうか?
何が本当に価値のある仕事なのでしょうか?
私たち、真宗門徒としては、その死の問題の解決を元気な時に解決することが大事なのではないでしょうか?
仏法は決して「他人事」では済まされないものなのでしょう。自戒したいものです。
ある人が言われたそうです。「何年も寺参りして、私はその間に好きなことして、遊びまわっていくわ。」
「最後の何日か、入院して死んでもその時は我慢するわ。」
「何十年と、何日かは比べ物にならないわ。」と言われた人がいたそうです。
これは、ある意味で、「一番辛い問題は後回しにする。」という態度ですが、確かに楽しいことが好きなのは私もそうです。
しかし、「一番苦手なことを最初に解決していく。」という態度も大事であると教えられたことがあります。
私の知り合いに、習い事の先生がおられましたが、その人は、「私は一番苦手なことを先ず片付ける。」と言われていました。
その方は大変なやり手でしたが、陰では、そういう心掛けでおられたのかと感心させられたのを覚えています。
「今、何時?」「一大事【一大時】」と言えないでしょうか?
「今しかない。」そういう心掛けで生きていくのが本当なのでしょう。
ある先生は、若い頃に大病をされ、仕事も辞めざるを得ませんでした。
後年、その先生は、「世間的には辛い死ですが、仏法的には、死は人間を真剣にさせる。死ほど人間を真剣にさせるものはない。」と言われていました。
「自分も死を意識したから、仏法を真剣に求め聞く身になった。ここまでみ教えを味わうまでに育てられたのは、 死を意識したからだ。」と自分を仏法に導いたものとして、辛かったけど、自己の死というものを、 自分を仏の道に導いてくれた先生として、拝んでおられるように感じさせられました。
親鸞聖人も、若い頃から、死というものを強く意識され、後生の一大事の解決に奔走され、道を求めていかれた方でした。
親鸞聖人のご苦労のおかげで、私たちは阿弥陀さまの願いを聞くご縁を頂いていることを思えば、 親鸞さまのご恩を思わなければならないと思います。
親鸞聖人のみ教えは、どのような罪深いものも、阿弥陀如来さまのご本願を信ずれば、 即座にお救いにあずかるという信心のいわれを、明らかにして下さいました。
本願を信ずるということは、阿弥陀如来さまが 「そなたがこの世に生きているかぎりは護りつづけ、いのちが終われば浄土に迎えとって、清らかな さとりの身にしてあげましょう。」
と誓われたみ言葉を、疑いなく聞きいれて、阿弥陀如来さまのおはからいにおまかせすることをいうのです。
そのことを親鸞聖人は
「
信心
(
しんじん
)
は、 如来の
御
(
おん
)
ちかひをききて
疑
(
うたが
)
ふこころのなきなり」
【『一念多念証文』・『注釈版聖典』六七八頁】
と言われました。
しかし、人間は中々他人の言葉を受け入れることは出来ませんね。
いくらお経のお言葉でも、釈迦如来の金言でも、素直に聞けないなあーと思うことが多々あります。
ある先生は、「お経は文献ではありません。如来さまが私を呼び続けていて下さることを、 お経を通して、わが身に聞き続けていくことである。」という意味のことを言われました。
そのお経のみ言葉のままに、如来さまのお呼び声を素直に受け入れるとき、即座にお救いにあずかるわけで、親鸞聖人は そのことを
「
信心
(
しんじん
)
定
(
さだ
)
まるとき
往生
(
おうじょう
)
また
定
(
さだ
)
まるなり」と仰せられたのです。
【『親鸞聖人御消息』・『注釈版聖典』七三五頁】
世間では、出来る限り、慎み慎み、気をつけ気をつけて、精一杯努力していかなければなりません。当然のことです。
しかし、仏様の前では、ただの凡夫として、仏様の光に照らされるだけの私であります。
仏様の大きなお慈悲の光に抱かれて、あるがままの姿を見られている身は、少しでも、慎みの生活を心がけたいものです。
それは、仏様に、知られ見られ抱かれた上での慎みで、堅苦しい窮屈なものではなく、よろこびの慎みの生活ではないかと味わう次第です。
しかし、それも中々続きませんが、煩悩をご縁に、仏様の心に立ち返り立ち返りしていきたいものです。
「朝顔や その日 その日の 花の出来」で、出来る限り慎みの生活をさせて頂きたいものです。
ある先生は、「どうにもならないまんま助けてもらったら一番ではないか。」と言われました。
どうにもなれない私でありました。どうにもなれない凡夫がどうにかなろうともがいている私でした。
どうにもなれないまんま仏様に救われていく身ではないかと味わう次第です。
あまり甘え過ぎもいけませんが、どうにもなれない、矛盾の存在が凡夫であります。
罪を造らなければ生きていけない私です。
どうにもならない自分をどうにかなろうとしていたところに、仏様の呼び声が素直に聞けない原因があったのでしょうか?
どこまでも矛盾の動物が私であります。
このどうにもならない者を救おうとされている本願の心にひきつけられていく以外にないのではないでしょうか?
本願の不思議に目をつけさせられ、ひきつけられ、この私が仏様の願いに包まれていることに目覚めさせて頂きたいものです。
自分の願いを仏様に向けていくのではなくて、仏【親】の願いを聞いていきたいものです。
「親【仏様】は、この私をどのように思っていて下さるのか?私にどのような願いをかけて下さっているのか?」
共々に聞かせて頂きたいものです。
また、み教えを自分の都合ではなく、正しく聞いていくように聴聞していきたいものです。【自戒の言葉です。】合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「失敗」
完全無欠じゃないから
失敗することも あるサ
しっぱいして
しくじって
今まで 気づかなかったことを
一つ一つ 知らされる
ー失敗も 私のたからものー
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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