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平成27年7月
第45話
朝事*
住職の法話
「仏法広まれ」
『平和を願う法要』が平成27年7月3日【木】に、広島平和記念公園 供養塔前にて、 ご門主をお迎えして勤修されました。
ご門主様ご親修 【お言葉】があり、多くの示唆を頂きました。
『本願寺広島別院、安芸教区全戦争死没者追悼法要並びに原爆忌70周年法要』ご門主様ご親修 が平成27年7月4日【金】 広島別院 にて、勤修されました。
引き続いて、ご門主をお迎えして勤修されました。
ご門主様ご親修 【お言葉】があり、 また、記念布教が、諏訪 了我師【浄宝寺】を御講師として、行われ、多くの示唆を頂きました。
諏訪 了我師は、原爆の日は、疎開していました。
疎開先のお寺で、家族が原爆で亡くなり、自分一人が取り残されたことを知りました。
戦争中だから、空襲で家族が亡くなることもあるかも知れないくらいは、思っておられたそうですが、まさか家族がみんな死に 自分一人が残されるとは思わなかったそうです。
とても信じがたい出来事で、「こんな人生は嫌だ。」と子供ながらに思われたそうです。
しかし、どんなに思いもかけない人生でも、自分に代わって私の人生を生きてくれる人はいないのでした。
どんなに思いがけない人生でも、その人生は、私が生きなければならない人生なのでした。
大無量寿経のお言葉にも、「一人生まれ一人死ぬ 身自らこれに当たり 代わるものあることなし」というお言葉があります。
まさにその通りなのでした。原爆投下の後に、親せきが疎開先に迎えに来たそうです。
原爆投下の後、約一カ月後に、焼け野原と化した広島に帰り、島だけが昔と同じように見えたそうです。
焼け野原と化したところで、「これから一体どう生きていけばいいのだろう。」と思った時のことは、今でもはっきり覚えているそうです。
あれから70年経ったわけです。
原爆忌70周年で、色々な行事が開催され、亡き方々の尊い命を思い、 非戦、平和への歩みをあらためて自覚して実践することが求められていることです。
親鸞聖人は、「仏法広まれ世の中安穏なれ」とお手紙の中で言われています。
平和な安穏な日暮の為には、先ず仏法をわが身に聞いていくこと、
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
が大事だと親鸞聖人は言われているようです。
ある先生曰く、み教えと生活がバラバラではいけない。確かにそうですね。
昔から教えは身に付けるのが本当に聞くということだと。
今日の話は身にこたえたと感じたこともあると思います。又、耳に痛いという言葉もあります。
人間は自分に都合にのいい話を聞く時には、どんどん耳が大きくなり、反対に自分に都合の悪いことを聞く時には、
耳が小さくなり、聞く耳を持たないようになってしまいます。
自分の都合で聞くのではなく、教えはそのままに聞いていきたいものです。
平和と言いますけれど、身近に言うならば、毎日の生活の中で、一つひとつの出会うこと出会う人との関係を どれだけ大切にできるかということではないでしょうか。
今日の一日を生きる指針がみ教えではないでしょうか。
自己を見つめるご縁を、時間を持つことが必要でしょう。
自分で自分を見てさえも、同じ間違いを繰り返して、進歩のない自分だと嫌になります。
しかし、親【仏】が子供を、「お前は駄目だ。」と見捨てる親はいない。
いつでも親【仏】に見つめられている私であります。
仏壇に参るということが、私の日常の中に仏様を頂いていく日暮らしであります。
大切にしたいものです。
下記の如く、『平和を願う法要』『本願寺広島別院、安芸教区全戦争死没者追悼法要並びに原爆忌70周年法要』の、 ご親教【ご門主】、表白、ご法話【諏訪了我師】などで、聞かせて頂きました。
法要で、私が聞かせて頂きましたことを、一部、下記に記してみます。
《親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫火宅無常の世界はよろずのこと みなもて そらごとたわごとまことあることなきに ただ念仏のみぞまことにておわします」と 人間世界の愚かさを鋭く指摘されています。
「自分を正当として反対する者を不当として批判していく自己中心性にある。
それは煩悩に根差している私がいくら正義をふりかざし正義を主張しようともそれはいずれも煩悩に根差しているものであるから、 阿弥陀如来の真実の働き前でうち崩れていくものでしょう。」
「それは、縁次第では、どのようなことでもしかねない私達の愚かさに対する警告でもあります。」
「いかなる争いでも、悲しみの涙が伴うことであることを、私達は決して忘れてはなりません。」
「阿弥陀如来は欲望や怒りに沈む者をこそ救いたいと願われ敵と味方を区別して傷つけ合う私たちの悲しい姿を照らし出しておられます。」
「仏智に教え導かれ争いの現実を直視することが基本でしょう。」
「阿弥陀如来の智恵と慈悲を仰ぎつつ平和の為に尽くしたい。」
「争いから来る悲しみ傷み痛みを和らげることができたでしょうか。」
「この70年間に、平和への願いと学びをどれだけ深めることができたでしょうか。」
「あらゆる争いの根元である私たちの愚かさを深く見つめ、争いを繰り返さないようにすべきです。」
「得難い人間に生まれて、同じ世界に生まれ、同じ時代に同じ時間に生きている、同じ場所に生きている私たちが、お互いを認めることができず、 どうしてこの上に、傷つけ合わないといけないのでしょうか。」
「 お互いを認め合わないといけない。異なる価値観を認め合い共存できる社会の実現の必要性を、 世界中の人々が再認識する機会となるよう願ってやみません。」
「お念仏を頂く私達は、あらゆる人が安穏のうちに日暮しができる社会の実現をめざして、最大限の努力を惜しんではなりません。」
「 一つひとつの命に如来の願いがかけられていることに気付かされる時、その願いのもとに、お互いが互いを大切にして、 敬い合える世界が開けてくるのではないでしょうか。」
「人間はなぜ戦争や争いをするのでしょうか。静かに自分の胸に手を当てて、考えてみたいものです。」
「自分さえよければいいという心と、自分は正しい悪いのは相手である。相手は間違っているという独善性が争いの原因ではないか。」
「私たち自身が傷つくと共に他の多くの人々を傷つけたという、その反省に立って、平和への願いが力を持つものとなるでしょう。」 と前門様【大谷 光真師】は平和を願う言葉の中で言われている。
「如来さまのお心を聞かせて頂くことを通して、自らを是とし、他を非とする独善性の恐ろしさに目覚め、 如来さまの大きなお慈悲の中で全ての者が煩悩具足の凡夫として救われなければならない命と自覚し、 同じ立場で同悲同感することが平和の原点ではないでしょうか。」
「恨みにとどまり、被害者や加害者に固執しておるならば立場が違って来ればいつでも自我の衝突が起こる。」》
等々、上記の如く、法要のご親教【ご門主】、表白、ご法話【諏訪了我師】等のご縁で拝聴させて頂きました。
聞いて終わり、ということではなく、これからの日々の念仏生活の指針として、
仏縁
(
ぶつえん
)
を大切に、わが身に頂き、よく噛みしめ、咀嚼し、消化して、 身につけていきたいものです。
昔、私は、ある同行から、「み教えを聞いて、よく練りなさいよ。」と一言、ご忠告して頂いたことを思い出します。
前門主の大谷光真師は、講演の中で、次のように言われています。最後に紹介させて頂きます。 合掌
《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」 というものがあります。
私は、これこそ、仏教の言葉の中でも、万人に通じる宝の言葉だと思っています。
もちろん、簡単に怨みを棄てることはできませんが、どうしたら怨みを減らすことができるかを考える方が、いかにして、 怨みを返そうかと考えるよりもはるかに生産的であります。
「われが、われが」という慢心に打ち克つことは、けだし最上の楽しみである。」
仏教の教えは、基本的に、非暴力です。
宗教に関わるものが、独善的・排他的にならないように気を付けることです。
自らに誇りを持つことと、他の人々を認め受け容れることの両立こそ、宗教の今日的課題です。》
《大谷光真師OBサミット 2007》 より抜粋
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「クヨクヨ」
クヨクヨ オロオロ
イライラ フラフラ
落ち込む と
こころが 弱くなる
不安定になる
「強く生きるんだヨ」 と
いつも おもいつづけ
ささえていて下さる方が ある
ヒトリボッチじゃないんだ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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