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平成27年6月
第44話
朝事*
住職の法話
「作れない命」
ある仏法の先生が、幼稚園児に、小学生の生徒に法話をしてくれと頼まれたという話を聞きました。
「念仏」という言葉も使えないし、「阿弥陀さま」という言葉も使えないし、子供に仏法を伝えるのはなかなか難しいことです。
しかし、考えてみると、何十年と仏法を聞いてきた同行だけが、同行ではなく、子供も 「
同行
(
どうぎょう
)
」です。
共に、「阿弥陀様の光」の中に抱かれているのです。
また、子供といえど、明日の命も分からないことは、大人と何も変わるものはありません。同じなのです。
だから、もっと子供の時から、仏様のご縁を頂いておくということは大切なことです。
佐伯東組でも、毎年、「サマースクールさえきひがし」【小学4.5.6年対象】をして、お寺に一泊して仏様のご縁を頂く行事をしていますが、 どうか皆さんの子供や孫、近所の子供たちに呼びかけて、気軽に、ご参加をお願いする次第です。
ある仏法の先生が、幼稚園児に、小学生の生徒に法話をされたそうです。
その実話から、私自身が感じたことを言います。
細かい部分は忘れてしまいましたが、おおよそ、次のような話だったと私は 理解している次第です。
先ず、子供に聞きました。
「日本の中でも、遠い場所から、短時間に行き来できるようなものが出来るかな?」と聞くと、子供は「できる。」と答えるそうです。
また、「外国に短時間で行き来できるようなものが出来るかな?」と聞くと、「できる。」と答えるそうです。
また、「月に行き来できるようなものが出来るかな?」と聞くと、「できる。」と答えるそうです。
そして、そこに飛んでいた虫を指さして、「この虫 作れるかな?」と子供に聞くと、子供は「できない。」と答えるそうです。
これで子供に対する法話は終わりで、短い法話だそうです。
やさしい表現で子供にも分かるように伝わるように、仏法の話をされたのですね。
そして、子供には先生の伝えたいことはちゃんと伝わっているそうです。
つまり、「命は作れない。」ということですね。
また、そういう「かけがえのない大切な命を、一人一人が頂いている。」ということですね。
一人一人の命は、「究極的な価値」がある、ということですね。
また、一人一人のその命は、「仏様のいのちに抱かれている命である。」ということですね。
そして、そういう阿弥陀さまの話を普通の言葉、やさしい言葉で、子供に法話した後に、子供に阿弥陀さまの絵を描かせるのだそうです。
子供は素直ですから、心に感じたままを絵に描くのだそうです。
子供が描く阿弥陀さまの絵は、みんな笑っている仏様の顔になっているそうです。
きつい顔をしている阿弥陀さまの絵を描く子供は一人もいないそうです。
皆さんに見せたいほど、見たら心が和んでくるような、やわらかい笑顔の阿弥陀さまの絵だそうです。
私は、その話を聞いて、仏教というものが、難しい理論になってしまって、理論のやり取りになってしまって、現代に生きている人にきちんと 伝わり難くなっているという気がしました。
反省しなければならないことがあると感じました。
病人に硬いご飯は合わなくて、柔らかいご飯でなければ食べられないように、「相手の口に合う。」といいますか、「さじ加減」というものが、 とても大切に思えてきました。
会話でも、自分ひとりが勝手に話しているのではなく、相手の投げてきたボールを、先ずしっかり受け止め、味わい、理解して、聞いてから、 返答の球を投げ返す、ということが大切に思えてきました。
その「さじ加減」といものが何なのか?
お経のお勤めでも、本堂でみんなと一緒に読むときは、大きな声で思いっきり声を出したらいいでしょう。
本堂とはみんなで声を出せるように作られています。有難い場所です。
葬儀などでも、大きな会場であれば、大きな声で読経することも大事でしょう。
しかし、狭い部屋で、あまり大声でお経を読むと、「何だ、この坊さんは狭い部屋なのに、馬鹿みたいに大きな声でお経を読んで、うるさいわ。」と 思われるかも知れません。
そういう「さじ加減」というものが、とても大切なものに思えてきました。
浄土真宗の教えは「在家仏教」の教えだと言われています。
日常生活しながら、教えを聞いていく仏教ですね。
「仏法聴聞」というものを、とても大切にしているのが浄土真宗です。
亡くなられたある先徳の僧侶は、「足の
文数
(
もんすう
)
」ということを言われました。
「足に合うサイズの
足袋
(
たび
)
でないと
履
(
は
)
けない。」という意味です。
浄土真宗は、日常生活をしているままで、仏様の方が、私のサイズに合わせて救いというものを説いていて下さる教えであると、味わえないでしょうか?
「仏様の方から、私のサイズに合わせて下さる。」と言いますと、何か自分の都合のいい、虫のいいことばかり言っているように聞こえるかも知れませんが、 決してそういう手前勝手な自分の都合のいい意味で言っているのではありません。
「仏様の方が私に合わせて下さる。」という言葉の意味は、「仏様の働き」ということを意味しています。
ただ、仏様の方から、いつでも、どこでも、私のところまで、来ていて下さる。
それを「
廻向
(
えこう
)
」と言います。
あるがままの生活の中で、仏様という大きなご縁を頂いて、生きていくことはどういうことでしょうか?
色々なことがあっても、常にそこにかえっていく場所が与えられている、という意味があると思います。
日々の生活の中で、自分の心の中には、千と一つの思いが湧いてきていて、常に、その思いに振り回されています。
また、他人との関わりの中で、他人の言動に常に振り回されている自分があります。
しかし、それをご縁に、仏様の大きなこころにかえっていく生活が恵まれていくのが、念仏生活の中にあると思うのですね。
仏様の大きな心とは「阿弥陀様の智慧と慈悲」に私自身が照らされていく、ということであります。
仏様の光の中で、自分の心を見つめさせて頂き、反省し、仏様のこころを仰いでいく、仏様に抱かれた中での生活であります。
失敗ばかりを繰り返し、とても他人に誇れる生活はしていないかも知れませんが、仏様から見たら、「あなたは金色に輝いているのですよ。」という 呼びかけが、「南無阿弥陀仏」という、「仏様の呼び声」の中で、ほのかに味わえるような気がします。
仏様の光を受けて、自分だけの殻に閉籠もることから少しでも、脱して、「共に」という「社会性」の大きな世界に少しでも出て生きていきたいものです。
念仏の教えには、「
自信教人信
(
じしんきょうにんしん
)
」という言葉があります。
「自ら信じたものは、そのことが同時に自然と他への働きかけとなる。」という意味です。
これからも、自分自身あるがままの中に注がれている仏様の光を感謝しながら、少しでも大きな世界に出れたらと思います。
仏教では、「
宿善
(
しゅくぜん
)
」ということを言いますが、 私たちの先祖に、仏法を心から喜んで聞いていた方々がおられたから、今の、仏法のご縁を喜んで聞いている私の存在があり得ているのでは ないでしょうか?
近くは、親が仏法を喜んで聞いておられたご縁というものもあるかも知れません。
そういう目に見えない色々なご縁があるからこそ、今日の私の
「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
のご縁」を頂けているのかも知れません。
皆さんも、「今、どうして、私が、仏様の教えを聞くようになったのだろう?」ということを静かに考えてみて下さい。
そこに、必ず、私に「
仏縁
(
ぶつえん
)
」を結んでくれた方がおられるはずです。
そう味わう時に、「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
」は、決して、私の力ではないということが 分かります。
浄土真宗の教えでは、「浄土に生まれて仏となり、迷いのこの世に戻ってきて、迷えるものを救う。」と説かれています。
お浄土に生まれられた方々が、この世に還り来たりて、この私に仏縁を結ばれるように働かれていると、味わうときに、この仏縁を大切にしたいと 思います。
「恵まれた仏縁」だからです。 ご清聴有難うございました。 合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「ゆめ」
「ゆめ」とは希望
希望のないところには
進歩も 発展も ない
しあわせに つながる
ゆめ ならば
たとえ 小さくても
努力して
育てたいネ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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