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平成27年5月
第43話
朝事*
住職の法話
「ひとつこと」
「ひとつこと」という題で、話をさせて頂きます。
と言いますのは、ある先生から、 『法話は、「ひとつこと」を、繰り返し、巻き返し、色々な方面から説いていくことだ。』と教えられたからです。
それでは、その「ひとつこと」とは、一体何でしょうか?
『このような煩悩を抱えた欠点だらけの私が救われる喜び』という、その「よろこび」というものを語るのが「法話」 の一つの側面ではないかと思うです?
仏教を勉強して、何もかも分かって、理解して、それから、他人に法話するということではなくて、今、自分が、喜んでいる、 その喜びを、私なりに話すことが大事なことなのでしょう。
それでは、毎日、喜んでばかりの生活でしょうか?
集金人が自宅に集金に来られても、喜びだ。病気をしても喜びだ、という、そんな意味ではないはずです。
もし、何でも、わけもなく、喜ぶというのなら、それはおかしいことになるのでしょう。
そうではなくて、仏さまの救いの働きを、この私の上に味わうということが、自然と、喜びになっていくということではないでしょうか。
日々の生活は、自己中心の心で、見るもの、聞くもの、すること、全て、自分を中心にして、自分の都合がよければ喜び、 自分の都合が悪ければ、怒り、愚痴を言う、という自己中心の生活をしています。
恥かしいことです。
このように反省してみますと、私自身は、人生を
享楽
(
きょうらく
)
的に考えて、生きているということになるような気がします。
しかし、実際の人生は、決して、自分の思い通りにはならないものです。
「
生老病死
(
しょうろうびょうし
)
」
「生まれる苦しみ」「老いる苦しみ」「病む苦しみ」「死ぬ苦しみ」の「四苦」というものがあります。
「
愛別離苦
(
あいべつりく
)
」「愛する者と別れる苦しみ」
「
怨憎会苦
(
おんぞうえく
)
」「憎む者と会わなければならない苦しみ」
「
求不得苦
(
ぐふとっく
)
」「求めるものが得られない苦しみ」【欲求不満】
「我欲のコントロールが出来ないことからくる苦しみ」
「
五蘊盛苦
(
ごうんじょうく
)
」「身と心が盛んであることからくる苦しみ」
「我欲のコントロールの出来ない、まるでブレーキのきかない車に乗っているようなもの」
「四苦八苦」「生死」【しょうじ】と言いますが、まさしく、この人生は、四苦八苦を、誰れも、逃れることは出来ません。
人生を、自分の欲望をかなえる為のものだという考えが、間違いであるということが、ほのかに感じせられます。
ある先生は、「人生は克服すべき課題である。」と表現されました。
確かに、人生を享楽的な気分で生きていては、とてもこの苦しみは乗り越えることは出来ないと感じます。
それでは、どうすればいいのでしょうか?
難しい理論・理屈は、さておき、毎日の日常生活の中で、み教えというものを、聞き、味わっていくことが大切なのではないかと思うのです。
ある方は、『いくら、仏法の理論・理屈を聞いても、人生の苦しみは無くならない。』と言われました。
確かに、苦しんでいるときに、理論・理屈を言われては、決して聞く人は納得しないでしょう。
「いくら理論・理屈を聞いても、私は、今、辛いのです。苦しいのです。悲しいのです。淋しいのです。」という現実の方が重いのですね。
大切なことは、その切れば血の出るような現実という土台の上に、「仏さまの教え」を頂いていくことが 大切なのではないでしょうか?
自分のあるがままの生活の中で、仏法を聴聞していけばいいのであって、何も、よそ行きの着物を着て、 仏法を聴聞する必要は何もないはずです。
現実を離れて、仏法を聴聞するから、「死んでから先の教えで、今の私とは関係ない、今の生活とは教えとは関係ない。」 ということになるのではないかと思うのです。
「死んでから先のことで、今の私とは、教えは関係ない。」と思っている証拠に、「往生」ということ一つを考えてみましても、 「死んでから先のことで、今の私と、往生とは、関係ない。」と思っていないでしょうか?
もちろん、今、往生しているわけではございませんし、仏さまに成ったわけではありません。
煩悩を抱えた、迷い多き、凡夫の生活が今の私の現実です。
しかし、み教えを通して、仏さまの願いを、繰り返し、聞かせて頂きますと、今は往生していなくても、「往生する身に」定められている、 ということに気づかされ、そこに、「私のような愚かなものが、もったいないことであります。」と、今の現実の生活の中で、 「往生する身」に育てられていることに気づかされるのです。
又、ある先生は、「往生とは、人生の方向が決まること」と味わわれました。
煩悩を抱えた、迷い多き私の現実生活ではありますが、そういう中でも、私自身の進むべき方向性が決まることが、 死んでから先の教えではないということでしょう。
また、私たちのまわりには、「生老病死」の姿を通して、常に、私自身が、警告され、導かれているのではないでしょうか?
知った方が亡くなると、その事実をまともに見ることが嫌だからと、避けてばかりいる私自身の姿があります。
身近な死『無常』という事実を見ないように、目を塞いで、それでいて、自分の生き方は、相変わらず、欲望中心の生活を 続けているのではないでしょうか?
これは、決して他人の問題ではなく、私自身の問題ですし、私自身の姿そのものでもあります。
自分自身の硬い殻の中に閉じこもり、殻の外に、他人という者といるし、大きな、広い世界があることも気付かずに、 ただただわが身の幸せのみを願い生きていくのは、情けないことです。
仏さまの願いが、このわが身にかけられていることに気づかされたならば、仏さまの救いの働きを拠り所に、この現実に取り組んでいく力を 頂くということが、仏法聴聞する中に、開かれていく世界ではないでしょうか?
そこには、「私はどうせ凡夫なんだから」と、凡夫に
胡坐
(
あぐら
)
をかいてはおれないのではないでしょうか?
そこに、少しでも、仏さまのこころにかなった生活をさせて頂かなければもったいない、という気持ちが恵まれるのではないでしょうか。
仏さまのみ教えを通して、仏さまに出会わせて頂いたならば、苦しみの中に、届いている仏さまの救いの働きを、もったいないと味わい、 仏さまの呼び声であります、お念仏と共に、一日一日、手を合わせながら、「仏さまと共に」という生活が恵まれるのではないでしょうか。
「自分が一番可愛い。」「われさえ良ければいい。」という自己中心の根性は無くなりませんが、仏さまの広大な心にふれると、 自分の小さな自我の殻が破られて、「自我の殻を超えていく。」という「方向性」を、往くべき道として、示されるような気がします。合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「忠告」
人から
忠告されるのは
気持ちの
良いものでは
ありません が
すなおに
耳を かたむけよう
ーより良く向上するために
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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