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平成27年3月
第41話
朝事*
住職の法話
「
末代無知
(
まつだいむち
)
」
蓮如
(
れんにょ
)
様の、 「
御文章
(
ごぶんしょう
)
」に、 「
末代無知章
(
まつだいむちしょう
)
」という章が ございます。
「
末代無智
(
まつだいむち
)
」の 「
末代
(
まつだい
)
」とは、 「
末法
(
まっぽう
)
」の時代を 「
末代
(
まつだい
)
」といわれる。
「
無智
(
むち
)
」とは、 「
有智
(
うち
)
」に対し、 「
愚鈍
(
ぐどん
)
なること」を 意味する。
「
凡夫
(
ぼんぶ
)
を対象とした教え」であることをあらわす。
「
在家止住
(
ざいけしじゅう
)
」とは、 「
五欲
(
ごよく
)
の
本能
(
ほんのう
)
の生活に溺れているもの。」のこと。
「
五欲
(
ごよく
)
」とは、 「財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲」であり、「人間の本能の
充足
(
じゅうそく
)
をはかる欲望」である。
このような動物的な在り方から一歩も出られない生活が
「
在家
(
ざいけ
)
」である。
たとえ清らかな心を発しても水の中で絵を画くようなものであると言われる。
いくら教えを学んでも、頭の中では理解したとしても、実際の日常生活の中において、実行出来ないで、 ただちに消えてしまう。
そんな欲望の生活から、一歩も出ることが不可能な存在である。
浄土真宗のみ教えは、このような「末代無智の在家止住の男女」「庶民」が対象である。
蓮如様は、このような庶民の教化に、特に力を入れられたのである。
欲望の生活から、一歩も出ることが出来ないとは、ちょうど
『
一斗枡
(
いっとます
)
の中の
蝦雑魚
(
えびじゃこ
)
』のようなものでしょうか?
『
一斗枡
(
いっとます
)
の中の
蝦雑魚
(
えびじゃこ
)
』は、 「飛んでも、はねても、所詮、一斗升の中からは出れないもの」なのですね。
【
一斗枡
(
いっとます
)
→量一斗(10升)を入れることができる枡。】
【
蝦雑魚
(
えびじゃこ
)
→ 十脚目エビジャコ科のエビ。体長約4.5センチで、環境によって体色を変える。】
このことは、大変大きな問題だと思えてなりません。
「自分の掛け値のない値打ち・姿」というものは、真実に出会わなければ、分からないものなんでしょう。
私たちは、日常生活の中では、知らず知らず、自分の値打ちを認めているのではないでしょうか?
ある友達が言ったそうです。
「俺は、昨日、葬式に会葬して、善いことをして、徳を積んだから、今日は麻雀で勝つことができたのだ。」と。
たわいもないジョークと言えば、ただの笑い話のようですが、何気なく言うことに、真実が顕れているということも、 見逃してはならないという気がするのは、あまりに、生真面目過ぎて、「冗談も分からない。」というものでしょうか?
他人のことは、さておき、自分自身が、「俺は善いことをしているのだ。」という気持ちに、知らず知らずなっていないだろうか?
たとえば、悪いことは、「悪かった。」と気付くことはありますが、善いことの中に、 「私は善いことをしている。」という
「
自我
(
じが
)
」の思いが隠れていることには 中々気付かないものではないでしょうか?
自分の善も悪も、両方とも忘れられたら、さぞかし、すっきりするでしょうねえ。
昔の戦国時代の戦さでは、強い敵の武士を羽交い絞めにして、味方に、「いいから、俺も一緒に刺せ。」というようなこともあったそうです。
それくらいにしなければ、強い敵は倒せなかったのでしょう。
つまり、強い敵を倒す時に、味方も一緒に刺すという意味ですが、「善も悪も、忘れる。」とは、そのようなものなのでしょうか?
話を戻します。
「
末代無智
(
まつだいむち
)
」の私とは、
煩悩
(
ぼんのう
)
から、一歩も出来ることが不可能な私であります。
「
無智
(
むち
)
」とは、何を知らないということでしょうか?
私たちは「世間のこと」については、大変よく知っています。決して、無知ではありません。
それでは、
蓮如
(
れんにょ
)
様は、何を「無智」と言われているのか?
世間のことは無知ではないとしたら、
「
往生浄土
(
おうじょうじょうど
)
」について、何も知らない私ということですね。
考えてみたら、私は、一体どこから来て、何処へ行くのでしょうか?全く知らない私という事実に突き当たらざるを得ません。
安心
(
あんじん
)
の問題では、嘘というものが一番いけないものです。
知らないことは、「知らない。」と言うしかありません。
実際に、「分かっている方」の前では、「知ったかぶり」が出来ないということは、世間のことでも、その通りですよね。
仏法の世界も、知らない私は、「知った方」「分かった方」に教えて頂くしかありません。
世間的な肩書きや、表面的な姿がどのようであろうと、知った方に、教えを乞い、導いて頂くしか道はありません。
「愚かであり、自ら偉いと思っているものは 真に愚かである。」という法語を以前、聞いた覚えがありますが、先ず、私は 往生浄土について、仏様の悟りの世界については、一切知らない、という事実から、親鸞様に聞いていく、蓮如様に聞いていくという姿勢を、 大切にしたいものです。
「
末代無知章
(
まつだいむちしょう
)
」のなかに、 「
一心一向
(
いっしんいっこう
)
に仏たすけたまへともうさん
衆生
(
しゅじょう
)
をば たとい
罪業
(
ざいごう
)
は
深重
(
じんじゅう
)
なりとも かならず
弥陀如来
(
みだにょらい
)
は すくひましますべし」
というお言葉がございます。
蓮如様のお手紙を集めた「
御文章
(
ごぶんしょう
)
」は、 「教えの
領受
(
りょうじゅ
)
の手本」だと言われています。
「教えを受けた姿は、このようなものです。」という見本という意味でしょう。
この「
御文章
(
ごぶんしょう
)
」の中に、 「助けたまへ」というような表現の箇所が、多くございます。
表面的な、字の意味では、私の方から、「助けて下さい。」「助けたまえ。」というような意味に思えますが、実は、 そういう意味ではありません。
「阿弥陀様に私たちは、しっかりと、抱かれている。」という事実が 「
先手
(
せんて
)
」として、先ずある。
「そうなれば、助けたまへ。」と、 「
信順
(
しんじゅん
)
」「おまかせする。」という意味になります。
「仏たすけたまへともうさん衆生」とは、心持ちから言えば、 「仏が助けたもうと、もうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも かならず弥陀如来はすくいましますべし。」と味わえばいいと、 教えられた先徳がおられます。
「助けたまへ」→「助けたもう」と味わえばいい。
ある先輩のご住職は、「助けて下さい阿弥陀様、ではなくて、助けて下さる阿弥陀様です。」とご法話されたのを、 思い出して、とても大切なことをおっしゃって下さっていたのだなと、思う次第です。
「
先手
(
せんて
)
の救い」ということについて、思い出すことがあります。
ある若い女の子が、病気で亡くなられたそうです。
親族が、その子に「仏様にお願いしているの?」と聞くと、その子は、 「お願いしないと助けて下さらない、そんな水臭い仏様ではない。」と、子供ながらに答えられたそうです。
私は、親族の方から、直接お聞きしたので、その時に話して下さった、そのご婦人の表情や雰囲気を、今も、おぼろげながら、覚えています。
風の便りで、そのご婦人も、その婦人の夫も、何年か前に、往生の
素懐
(
そかい
)
を 遂げられたそうです。
そのご夫婦のことを、懐かしく、思い出します。
私は、会ったこともない女の子ですが、『お願いしないと助けて下さらないような、そんな水臭い仏様ではない。』 という言葉は、忘れられないものです。
亡くなる前の言葉としては、子供ながら、あっぱれなものだと思います。
子供は、かえって、他人の言うことを素直に聞いて、疑わないのかも知れませんね。
少し、健気さも感じます。素直さは、私も、見習いたいものです。
又、ある八十代の、一人暮らしのご婦人はこう言われました。
「私が子供の頃に、おばあちゃんの寝ている、布団の中に、入っていくと、祖母が、およそこういう意味のことを、いつも言ってくれた。
『ナンマンダブツと称えたら、阿弥陀様はいつも、あなたのバックに居て下さるのよ。ナンマンダブツはお母さんということよ。』と。」
その八十代のご婦人の心の中には、おそらく何十年前に、おばあちゃんの布団の中で聞いた話が、しっかりと、生きて働いている事実を 感じて、聞いているこちらの方まで、「そうなんだなあー。そうなんだなあー。今も、私のバックには、阿弥陀様が居て下さるのだなあー。 ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。」と、思わず、お念仏を称えさせられたことです。
その婦人の人生は、並大抵ではないご苦労の連続だったそうですが、きっとお念仏を支えに、今日まで乗り越えてこられたのでしょう。
人それぞれ、色々なご縁によって、阿弥陀様の心に、導かれ、出会わせていただくのだと、改めて教えられた次第です。
「末代無智の在家止住」という私であります。こういう私だからこそ、光が、この私に、働いていて下さるのでした。
悲しいかな、恥ずかしいかな、しかし、「末代無智」の私ということを、原点に、益々、仏法聴聞に努めなければ、と思っています。
御清聴頂きまして、有難うございました。 南無阿弥陀仏 合掌
【私自身への「お育て」との思いから、一部、関係書物等より、引用させて頂きました。有難うございました。合掌】
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「いのち」
小さな 野の花も
かけがえのない
いのちの ありったけを
咲かせて いる
あの人も この人も
あなたも わたしも
みんなの「いのち」
かがやいて いる
-大事にしよう-
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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