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平成27年2月
第40話
朝事*
住職の法話
「泣ける場所」
ある本に、「代わる者有ること無し」という言葉がありました。
「私に代わってくれる者は無い。」とは、厳しいお
諭
(
さと
)
しですね。
毎日、自分の行っていること、又は、思っていることは、それは「私」以外の何ものでもないでしょう。
しかし、
瞑想
(
めいそう
)
の世界では、
観照
(
かんしょう
)
と言って、ただ自分の心身に起こる全てを
観照
(
かんしょう
)
するだけで、それと
同一化
(
どういつか
)
しない、という境地があると聞きました。
大変素晴らしいことだと感じますが、なかなか私自身にとりましては、そこまで機が熟していない気がします。
私の心身にどのような思いや行いがあろうと、「それが私なんだ。」というところに居て、煩悩にもだえ、怒りに悩み、 馬鹿なことに関わり、後悔したり、情けない気持ちになってみたりする、私自身の
生
(
なま
)
の日々を、生きていくということしかない。
そんな気持ちがするのですが如何なものでしょうか?
親鸞聖人のお言葉に 『
信楽
(
しんぎょう
)
を
願力
(
がんりき
)
にあらわす。』
というお言葉がございます。
「信楽【信心のこと】は願力の中にある。」という味わいでしょうか?
『心を
弘誓
(
ぐぜい
)
の
仏地
(
ぶつじ
)
に
建
(
た
)
て、
念
(
おも
)
いを
難思
(
なんじ
)
の
法海
(
ほうかい
)
に
流
(
なが
)
す』
というお言葉もございます。
「心を仏さまの、全ての者を救いたい、という
弘
(
ひろ
)
い
誓
(
ちか
)
いの仏さまの地面に建て、 思いを、思い難い仏さまの世界に流す。」という味わいでしょうか?
親鸞さまのお言葉を味わっていますと、心が騒いでいるままで、不思議な安らぎが恵まれる気がします。
「愚かなことばかり、思い考え、行っている、ひょろひょろの私にも、仏さまの願いがかけられている。」
そんな心にして頂けるような気がします。
それは、
仏壇
(
ぶつだん
)
の前に坐して、 手を合わせている時に恵まれるものです。私にとって、仏さまのお育てをいただく場が仏さまの前なのです。
甲斐 和里子さんの歌に、
『泣きながら御戸を開けば御仏は ただうち笑みてわれを見そなはす』という歌があります。
何か辛いことがあったのでしょうか?
「泣きながら、仏壇の扉を開いて仏さまの姿を見れば、仏さまは、ほほ笑みながらこの私を見ておられた。」という情景が 浮かんできます。
ある御講師さまのご法話に、「泣ける場所がありますか?」という問いかけがございました。
「あなたにとって泣ける場所はどこですか?」ということだったと思います。
また、「物理的な、スペースという意味の場所ではなく、『心の居場所』がありますか?」という問いかけであったと思います。
小さな自分の
自我
(
じが
)
の中に硬く閉じこもってばかりでは 息が詰まりますよね。
それでは、「私の心の居場所」は何処にあるのでしょうか?
それは、「仏さまの心」の中にあると言えないでしょうか?
ある意味で、この世の中は、批判したり批判されたりの世界ですよね。
ある方が言われました。 『自分のことを責めている人、許せない人は、他人のことも許せないで責める人ではないか?』
人間に
完全無欠
(
かんぜんむけつ
)
な人はいないでしょう。
他人の欠点をあげていたら、切りが無いですし、責めつづけるしかなくなってきますよね。
もっと自分というものを大切にしていけば、他人に対しても、ただ欠点を責めるだけではない、ゆとりのようなものも 生まれてくるのかも知れません。
「自分の口から出る言葉を一番近くで、それを聞いているのは、他人では無く、先ず自分だから。」ということを教えられたことがあります。
「他人の悪口を言えば、その悪口を言う時の思い上がった心が、そのままその自分の人格形成になっていく。」と言われた方があります。
私たちは、日頃、自分の喋る言葉にそれ程、注意を払いませんね、というより気が付いたらもう言ってしまっているのですよね。
「口から出るその言葉」によって、知らず知らず、自分が形成されてゆく、ということに中々気を留めないですよね。
気をつけたいものですね。
甲斐和里子さんの歌にも、次のようなものがあります。
『ともすれば 人のうへいうこの舌も 仏の御名を呼ぶときのあり』
『手に合わない 厄介な我の心を 如来の大きな御手に お渡しする』
彼女のような立派な方でもこんな歌がある、面白いですね。
親近感を感じさせられる気がしました。
手を合わせて、仏さまの願いが南無阿弥陀仏という
名号
(
みょうごう
)
となって、常に、私に働いていて下さることに気づくならば、 そこには、感謝の生活が恵まれるのではないでしょうか。
宗教とは、「感謝」という面が、とても大切なことであると言われた方がありましたが、感謝なき生活は砂漠のような生活でしょう。
老・病・死は避けられない人間の姿です。
これから年取っていくことを考えると、何か人生の指針というか、『答え』が欲しい気がしてきます。
生きていて、「虚しさ」を感じることがありますね。
生きていて何の意味があるのだろうか?かと言って死ぬまでは生きていかなければ仕方ないから生きているのだ。
そういう
溜息
(
ためいき
)
や
呟
(
つぶや
)
きをぼやくことはありませんか?
親鸞さまは
『
本願力
(
ほんがんりき
)
に
遇
(
あ
)
いぬれば、むなしくすぐる人ぞなき、
功徳
(
くどく
)
の
宝海
(
ほうかい
)
みちみちて
煩悩
(
ぼんのう
)
の
濁水
(
じょくすい
)
へだてなし。』【「和讃」】
と言われました。
仏さまに出会った感動が
溢
(
あふ
)
れ出たような 歌ですね。
仏さまに出会ったならば、自分ではつまらん人生のように思っていても、仏さまから
功徳
(
くどく
)
の宝を頂いた人生は、 仏さまという大きなバックボーンを頂いた、弱いようで力強い人生なのでしょう。
【『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)には、あらゆる人を念仏ひとつで救おうという、阿弥陀仏の本願が説かれています。
その阿弥陀仏の本願とは何かと言うと、阿弥陀仏という仏は、もと法蔵という菩薩が四十八の願いをおこし、 長い修行を経て、理想の浄土を建立して仏となられました。その浄土を極楽と名づけ、その仏を阿弥陀仏と名づけられたのです。
その四十八願の十八番目の願を、特に「本願」と呼んでいます。
この本願は、あらゆる衆生に対して、「われを信じ、わが名を称える者を、わが国に必ず往生させる」という誓願であります。】
『本願力の大風に 吹かれ吹かれて ふーらふら』という法の歌を思い出します。
甲斐和里子さんの歌に
『み仏を 呼ぶわが声は み仏の われを呼びます み声なりけり』
『み仏のみ名を称えるわが声は わが声ながら尊かりけり』
『西の方遠にまします御仏は わが心にも亦ゐますなり』
という歌があります。
又、甲斐和里子さんの本の中に『人生は人間学校』という章があるそうです。
すこし紹介させて頂きます。
「・・・この世を無事なもの、平穏なものと、かねて思うていらるるから、たまたま苦しい事に出会うと、 自分だけかと思い僻んでスネ言葉を吐かれるのであろうが、苦しいことや悲しい事は誰にもある。珍しいことはすくない。
堪え難い苦しみ、忍びがたい悲しみの一つずつが人間学校の進級試験である。
いかなる難問に出くわしても、狼狽せず、ジッとおちついて工夫しているとよい答案を考え出すものである。
人生の面白みも、仏教のありがたみも、ほんとうは老境に達してからはじめて理解るのである。なんにもわからないうちに死ぬのはおしいことである。 ・・・・」とございます。
人間を苦しめている色々な人生問題は、人間学校の進級試験の問題なのでしょうか?
「お育て」という言葉の深さを思わされます。 合掌
【私自身への「お育て」との思いから、一部、関係書物等より、引用させて頂きました。有難うございました。合掌】
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「橋」
島と島 を 結ぶ
巨大な 橋 を
かけることは
すばらしい
人と人 を 結ぶ
信頼の 橋 を
かけることは
もっと すばらしい
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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