朝事・住職の法話
平成24年2月「三つの『哉』(三哉のこころ)」
親鸞聖人750回大遠忌法要で、御門主、新門さまがお言葉を述べられました。一部、紹介させて頂きます。共に味わわせて頂きましょう。
ご門主のお言葉
『先ほど、お正信偈の前にお唱えしましたのは、親鸞聖人の主著『教行信証』の最初の部分、「総序」です。
「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」というお言葉から始まっていました。
意訳しますと、「私なりに考えてみると、凡夫には、はかりがたい阿弥陀如来のご本願は、渡ることの難しい迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにも、さまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである」となります。
何が起こるかわからない私の人生。無知と欲望に引きずられている私。過ぎ去ったことは取り返しがつかない世の中。どれも渡りにくい荒海に譬えられます。
難しい修行をしなくても、人生そのものが難問、難題の連続です。でも、阿弥陀如来は南無阿弥陀仏となって私を支え、さとりへと導いてくださいます。
ご本願を信じる者、南無阿弥陀仏をいただく者にとって、この世は往生浄土への船の旅です。船は大勢が乗れる大きな乗り物を意味します。
私が救われる教えは、誰でもが救われる教えです。共に手を取り、支え合って人生の旅を続けたいと思います。そして、今生きているあらゆるいのち、後々の世代も心豊かに生きられることを願わずにおれません。』(抜粋)
新門さまのお言葉
『浄土真宗のみ教えを聞かせていただく私たちは、阿弥陀如来のはたらきによって、自分自身の真実の姿に気付かされます。それは煩悩を抱えた姿であり、自己中心的な考え方から離れられない姿であります。
阿弥陀さまのお救いは、自己中心的な自分を肯定することなく、しかし、煩悩をなくすこともできない私たちに向けられています。』(抜粋)
お言葉の中に、『阿弥陀さまは、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。』というお言葉があり、大変驚きました。煩悩の闇を破ると、簡単そうに言われてありますが、この一句は驚くべき言葉だと思います。
お釈迦さまは悟りを開かれました。人間の苦しみの原因は煩悩であると、見通されました。その煩悩の闇を破ってくださるのが阿弥陀さまの光明であると、親鸞様は断定的に言い切っておられます。
750回大遠忌にあたり、改めて、親鸞様のお言葉を味わわせて頂きましょう。
親鸞聖人は、主著『教行信証』の中で、深い思いをこめてつづられた三つの言葉があります。
『誠哉、慶哉、悲哉』がそれです。
ご本願み教えを仰いで、「誠なる哉」と、この私を抱きとって、決して見離さない真実に出会った感動を詠嘆し、このみ教えに出会わせていただいて、日々色々な苦悩に苛まれながらも、心を仏さまの大地にたてて、思いを仏さまの世界に流すことのできる感動を、
「慶しい哉」といい、しかし、お念仏を申す身にしていただきながら、煩悩にふりまわされているわが身の浅ましさを、「悲しい哉」と深いザンギ(反省)をこめて、おおせられました。
そのおこころを、共に深く、味わわせていただきましょう。
親鸞さまは、どこどこまでも、この私のところまで、下りてこられ、「お前の煩悩の深さと、この親鸞の煩悩に悩む姿も同じだよ、一緒に仏さまに救われていこうね。」と、愚かな私に同じて下さっているように思われて、もったいなく、力んでいた自分の肩の力が抜けていくような安らぎを感じさせられます。
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩
のままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
トップページへ
朝事の案内
書庫を見る