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平成27年1月
第39話
朝事*
住職の法話
「朝日が昇れば」
『本年も念仏を聞きながら味わいながら、仏様と共に歩ませて頂きます。ご教導よろしくお願い申しあげます。称名』
木村無相さんの詩に、
『わたしの信心雪だるま オテントさま出りゃ すぐとける』
という詩があります。味わい深い詩です。
阿弥陀さまの光に照らされたなら、私がつくった信心は、聞けば聞くほど、残るところもなく溶けてしまうという意味でしょうか。
「間違いない」は、私の側にあるのではなく、仏さまの方にあるのです。
私たちは、「自分のこの眼で見たのだから、絶対に間違いない。」などとよく言いますが、本当にそうでしょうか?
ある先生がご法話で、「自分のこの眼で見たから、間違っているのではないでしょうか?」と説かれたのを思い出します。
それだけ私たちは、自分を信じているのでしょう。
「自己過信、買いかぶり、高上り」、等々と、色々な言い方は出来ましょう。
要は、ひと言で言えば、「頭が高い。」ということに尽きるのかも知れません。
自分で
清浄無我
(
しょうじょうむが
)
の、純粋なる善は出来ないのに、 「善いことをしなければ救われない。」と、自分の行う
善根
(
ぜんごん
)
にのみ眼がついて、あまり自分に善いことが出来なければ、 「こんなことでは救われない。」と思い
歎
(
なげ
)
いたりするのは、 自分のことを、「純粋なる無我の善を行うことが出来るはずだ。」という立場に立っているからなのかも知れません。
ある夫婦の描かれた原爆の絵画を見て感動した外国人の方が、この「原爆の絵を
紙芝居
(
かみしばい
)
にして、語れば、きっとこの絵が外国人も巻き込むに 違いない。」と、
試行錯誤
(
しこうさくご
)
しながら、紙芝居を完成させようと努力している 様子がテレビで放送されていました。
その方が、「自分はこの絵を百回見たけれど、見るたびに毎回、新しい発見がある。」と言われた。
又、「
被爆者
(
ひばくしゃ
)
の方は、原爆のことを、『ピカドン』と言われる。」
「人間は、自分の居るところから、見たり考えたりする。自分が居るところというものが、自分の考え方、感じ方に影響を与える。」 「『ピカドン』という表現は、その人がどういう所に居たかということを表している。」
というような意味のことを話しておられたように聞こえました。
私が面白いなあと思ったのは、 「人間は、自分が今・居るところから、その人の感じ方、考え方というものが生まれる。」というところでした。
つまり、「自分が低いところに居れば、低いところからの感じ方・考え方になるでしょうし、自分が高いところに居れば、 高い所からの感じ方・考え方になる。」という発想に新鮮なものを感じた次第です。
人と出会い、二言、三言会話を交わすと、その人がどういう気持ちの人かが、大体察しがつくと言います。
「何かいいことないか。」と言えば、その人は、何かいいことを探している心境なのだと分かります。
信心について語るときでも、その人の言葉から、その人の心境がどういうところにあるかが察しがつくと言います。
しかし、他人の
信心
(
しんじん
)
について、
凡夫
(
ぼんぶ
)
の
分際
(
ぶんざい
)
で、「あの人の信心は正しい、正しくない。」と 判断するのは、
越権行為
(
えっけんこうい
)
なんだと諭されたことがあります。
私たち、凡夫が他人の信心をとやかく判定することは、『自分は凡夫である。』ということを忘れた態度であると。
しかし、お互いに、「なんとなくあの人の言うことはおかしいのではないか?信心の人にしては、態度がおかしいのではないか?」 と感じたりすることはありますが、そこまででしょう。
道を求める途中には、色々な落とし穴があります。落とし穴に落ち込む一番大きな原因の一つに 「
慢心
(
まんしん
)
」 というものがあるのではないでしょうか。
ある弟子が座禅していると
明鏡止水
(
めいきょうしすい
)
の如く、 澄み切った
心境
(
しんきょう
)
になり、そのことを師匠に報告すると、師は、 「それは、『魔』だ!お前の
慢心
(
まんしん
)
・自惚れが そういう形であらわれたのだ。」と
指摘
(
してき
)
されたという
逸話
(
いつわ
)
を聞いたことがあります。
普通なら、誰れでも、
座禅
(
ざぜん
)
して自分の
心境
(
しんきょう
)
が澄み切ると、自分は素晴らしい境地に 成ることが出来たと喜び、得意がるのではないでしょうか。
しかし、師匠というものは、一枚上手なのですね。師匠というものは凄いものだと思います。
「それはお前の
慢心
(
まんしん
)
のあらわれだ!」と指摘されたのですから。
「私は教えをよく聞いてきた。」「私は素晴らしい
境地
(
きょうち
)
に成っている。」というものは 「
慢心
(
まんしん
)
」のあらわれではないでしょうか?
自戒
(
じかい
)
したいものです。
それと共に、常に正しい導きをいただき 念じていかないと、どんな横道に
逸
(
そ
)
れても、その間違いに気付かない愚かさに 陥ってしまう危険性があります。
源信和尚
(
げんしんかしょう
)
は、
座禅
(
ざぜん
)
をしていて、自分の心境が澄み切ったときに、 「
妄念
(
もうねん
)
こころの私がこんなにきれいな心に成るはずがない。 これは魔だ。」と
大懺悔
(
だいさんげ
)
されたという逸話が残っています。
さすが
源信和尚
(
げんしんかしょう
)
は、自分で自分の心境が 魔のあらわれだと感じて
慚愧
(
ざんぎ
)
されたのは
凄
(
すご
)
いものだと思います。
仏様は他人を救っても「私は救った。」という思いもなく、「私は仏だ。」という思いもない方だそうです。
そういう無我な方が仏様であります。
親鸞さまは、「自分は先生ではない。」と謙虚な態度でおられますが、そういう親鸞さまの態度が、そのまま私達を導いて下さっているのです。
親鸞さまに導かれ、親鸞聖人を師として、念仏の道を歩ませて頂きたいものです。
仏さまとは一体どんなお方なのでしょうか?
ある先生は、「仏さまとは、私以上に私のことを知り、私以上に私のことを愛して下さっているのが仏さまではないでしょうか?」 と問いかけられました。
自分が自分のことを知るということも、ある程度までは知り得ても、それは限界があるものでしょう。
「私以上に私のことを知っておられるのが仏さま」とは、どういう意味でしょうか?
仏さまは、私の心の底の底まで、奥の奥まで、隅々まで知り抜いておられるということでしょう。
「
阿弥陀様
(
あみださま
)
は、今見てござる。」という法語を聞きました。
「今・見てござる。」のです。
「阿弥陀さまは親様である。見てござる・護ってござる・待ってござる。」という法語も聞きました。
私の知った方で、他人の考えていることに対して大変敏感な人がおられます。
私は、その人と会うのが、とても苦痛でなりません。恥ずかしくてなりません。逃げたくなります。
つまり、もし、私の考えていることが隅々まで、知られたら、とても恥ずかしくておれないものだなあ、としみじみ感じたのですね。
私の掛け値のない
地金
(
じがね
)
の
姿
(
すがた
)
というものは、出来れば知られたくないものです。
私は思います。少し他人の考えていることに対して敏感な人と会うことだけでも、これくらい恥ずかしい、苦痛なことで、 逃げ出したいくらいなことなのだなあと。
それなら、『阿弥陀さまは、今・見てござる。』ということは恥ずかしくないのか?という疑問が起きるのですね。
「阿弥陀さまは悪人を救う。」と説かれますが、自分は仏さまの鏡に映されたら、まさに悪人としか言いようのない姿ではないかと思います。
恥ずかしくて仕方ない、どういう言い訳も、弁解も出来ない、自分の欲望中心の浅ましい姿であると認めざるを得ない姿です。
阿弥陀さまの太陽のような、限りない智慧、限りない慈悲を仰ぎながら、
慚愧
(
ざんぎ
)
と
感謝
(
かんしゃ
)
の、
御恩報謝
(
ごおんほうしゃ
)
の念仏生活をさせて頂きたいものです。
自分の
煩悩
(
ぼんのう
)
は他人に知られたら、とても恥ずかしいものではありますが、仏さまの救いを喜ぶ種となっていくものでもあります。
これは大変なことですね。大きな転換だと思います。
自分の
煩悩
(
ぼんのう
)
を ご縁に、仏さまのお慈悲を味わうという念仏生活が与えられているのですね。
真剣な仏法の
聴聞
(
ちょうもん
)
を継続し、心身すべてが仏さまの慈悲で 満ち満ちていく、仏さまの
功徳
(
くどく
)
をわが身一杯あじわいたいものです。
「今は早や 心にかかる雲もなし 見られ 知られて
参る極楽」
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「あいさつ」
「ことば」は 心の脈はく
「あいさつ」は
いのち から
いのち への
呼びかける
「こころ」が
ピチピチと している
あいさつを ひびかせたいな
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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