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平成26年12月
第38話
朝事*
住職の法話
「故人に教えられる」
今年も懐かしい方々が亡くなられて、淋しいことです。
お浄土から仏さまと成られて、私たちを御教導下さっておられることと思う次第です。
亡き方は、「私たちは永遠にこの世に留まることは出来ないものである。」ということを無言のうちに教えて下さっているのでは ないでしょうか?
生きている間に、生死を超えた世界につながる道を聞かせて頂くことが人間として大切な急務ではないでしょうか?
そのために宗教というものがあるのではないかと思うのです。
ある人が、与市という同行に、「世の中で間違いないことは、お互いみなが死ぬということだけだ。」と言いました。
与市は、「もう一つ間違いないことがある。それは、わしらの心中は間違うにちがいないということに間違いない。」 と言ったということです。
親鸞聖人は、我欲を中心とした、とざされた心をひらかせ、私たちすべてのものを 「
仏
(
ぶつ
)
」にすることのできる、お念仏のみ教えを説かれました。
「
仏
(
ぶつ
)
」とは「真実に目覚めたもの」という意味です。
私たちがみずからの心の迷いに気づき、
我欲
(
がよく
)
を断ち切って、真実の世界に生きるようになることを、
仏
(
ぶつ
)
になるといいます。
ただ目前の欲望を追い求め、自分のことしか考えられないせまい心から抜け出して、真実を見る眼をひらくとともに、自分以外の 人びとの、まことの幸せを願うような人になることです。
親鸞聖人が歩まれ、示されたお念仏の道は、そうした仏になる道でした。
ある逸話に、法話で、講師が、「この中でどうしても助からない者が一人いる。」と言うと、聞き手の一人が、「私でございます。」 と答えたそうです。
再び講師が、「この中で助かる者が一人いる。」と言うと、同じ人間が、「ハイ私でございます。」と答えました。
この逸話を聞いて、助かるとはどういうことなのかを考えさせられます。
「仏さまが救って下さる。」と、まるでぬか喜びみたいに、ただお助けを喜ぶだけなのもおかしい。
「どうしても助からない。」と言われるような自分の裸の姿というものへの反省の視点というものがある。
それと同時に、ただ「自分は助からない者だ。」と嘆き、卑下するだけではなくて、「助かる者がいる。」と言われるように、 「仏さまのお助け」というものがある。
信心の内容には、この二つの味わいがあるのですよ、ということを教えて下さっている逸話のように思えて深く味わわさせて 頂きたいものだと思うのです。
そこに、仏法の聴聞というものが大切になってくると思うのです。
「阿弥陀さまは、煩悩によってさとりに至ることの出来ない凡夫の為に南無阿弥陀仏という名号を完成された。」と説かれています。
名号・南無阿弥陀仏のいわれを聞かせて頂くことが聴聞の大切な
要
(
かなめ
)
です。
阿弥陀如来の願いの根本願は、 「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生れさせて仏にならしめん」という願いである。
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、「われにまかせよ。」とはたらき続けておられる。
この働きを他力といい、
本願力
(
ほんがんりき
)
というのである。
「
柔軟
(
にゅうなん
)
」という言葉があります。
柔軟とは硬さがほぐれて柔らかになっていることですが、「やさしさ、温かさ、おだやかさ、素直さ、」等の意味もあるそうです。
省みて、私は、あまりに自己本位にものをとらえ、考え、判断して、自己に固執して、自分の立場のみ強調して、主張し、 自分を省みる心や仏さまを仰ぐ心を忘れているのかも知れません。
かたよった頑迷な、自己中心的な一方的な見方しか出来ていないのかも知れません。
自分のことは自分が一番よく知っているというのは、間違いで周囲の人間が自分の性格を一番よく知り抜いているかも知れないですね。
「行く小舟」「イクコブネ」→「イライラ」「くよくよ」「こせこせ」「ぶりぶり」「ねちねち」と狭い自我の心を表しているものです。
自分のことしか考えられない、「
地獄一定
(
じごくいちじょう
)
の機」【機→私のこと】、 つまり、「地獄しか行きようのない私」、は 仏さまからご覧になった私の姿です。
地金
(
じがね
)
の
姿
(
すがた
)
とは、 「三毒の煩悩。我と分別しかない。私から出たものは仏になるために足しになるようなものは何ひとつない。」という意味です。
「どうしても助からない私の姿」だから、仏様は「どうしても助ける。」「きっと助けるぞー。」という 仏様の
願力
(
がんりき
)
の見通しが、そこにはある。
どうしても仏になれない私だから、仏の願力でどうしても仏に成れるぞと、法からの働きが私の中に入り込んで、 仏様のお見通しがお見通しの通りに私の中に入りこんでいるから、仏心の眼をもらって、「どうしてもお前は助からん―。」と お見通しの通り、私は、「どうしても助からない私です。」と、仏様のお見通しが徹ってくると、「どうしても助からない私だ。」と知らされ、 「どうしても助けるぞー。」と「仏様の願力で助かるぞー。」と仏様の仏心の眼が私に入り込んで私の眼になって下さる。
仏様の方が私に入りこんで信心の眼になって下さる。
願力
(
がんりき
)
に乗じて、
往生一定
(
おうじょいちじょう
)
と定まり、我が身を見ては、「私のような 助からない者を。」と定まる。
本当の
聞其名号
(
もんごみょうごう
)
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」 世界は仏様の眼が伝わってきて、 私の
地金
(
じがね
)
の
姿
(
すがた
)
がそこにはじめて見えてくる。
自分の眼ではない。仏様の眼である。それがそのまま私に見えてくる。
しかし、汚い心が見えてくるだけでなく、そういうお前を必ず救うぞという仏様の願力の働きも見えてくる。
「落ちる私」と知らされる。「助かる私」と知らされる。そこに自ずと二つの姿に分かれてくる。
仏様のご覧になったように私の姿が見えてくる。落ちる私しかありません、そういう私がいつもお助け間違いないと味わわれる。
どんな姿の私が見えて来ても、「これが私の姿です。」と言い訳け出来ない姿が見えてくる。
それを仏様の、「必ず救う。」という仏様の
決定
(
けつじょう
)
をもらって、私の心が定まる。
「お前は必ず仏が引き受けているぞ。」と、「仏様の
決定
(
けつじょう
)
」 「仏様の自信」です。「自信」「
決定
(
けつじょう
)
」の所に仏さまは安心してござる。
その安心が私に映ってくる。親の方が先に安心している。子供が心配しても仕方ない。
私が一人色々と言っていたけれど、親がお母さんが安心していて下さった、というところに本当の安心が恵まれるのです。
仏様の必ず救うというものは狂いが無く、それは必ず私の心に届いて下さるのです。仏様の絶対の命令は必ず私の心を突き通すのです。
私の上に二つの面があるのです。一つの裏表です。助からんから、助けて下さるのです。
しかし、中々「自分は何も出来ない。何の力もない。」にならないのです。
何かしたらと一分でも自分で何かしたら行けそうという気持ちがどこかに残るのです。
「どうしても」、という心が生まれてこないのです。どうしても助けるという仏様の働きだけで助かるのだと中々ならない。
私だって少しくらいと良いところがあるはずだと、
地金
(
じがね
)
の
姿
(
すがた
)
「三毒の煩悩。我と分別しかない。私から出たものは仏になるために 足しになるようなものは何ひとつない。」という心に中々なれないのです。
人間の心というものは、ちょっとやそっとで、「どうしても助からない、何んにも出来ない私です。」とは中々なれないものです。
ひどい目にあったり、死に際の人だけが、「わたしが飛んでもはねてもどうしても私は助かりません、何の力もありません。」 となるのでしょうか?
普通は、もうちょっと聞いたら、しっかりしたものが出てきそうだという気持ちを持つのでしょうか?
人間はいくら仏法を聞いても欲望に振り回されて、自己嫌悪に苛まれることも多々あります。
そんな時に、先生に、「どうすればよろしいでしょうか?」と尋ねた。今まで何回も聞いてきたことなのに、 聞いていて聞いていないのですね。
「ちょっとも聞けていなかった。」と気づかされることがあります。
先生曰く「仏法というものが聞けるものではないと知らせてもらうだけでも大きな 収穫だと思うけどなあ。」
しっかり聞いていたと自分で思っていただけで本当は少しも聞いていない。
「仏法のような尊いものが凡夫の耳に聞こえるものではない。」と、「何にも聞こえてはいない、しかし、お助けは間違いない、そこに 眼がついたら言うことはないんだ。」と諭されたことがあります。
「何にも聞いていないと気づかされてショックを受けた、これも大きな薬です。」
「『
大言俚耳
(
だいげんりじ
)
に入らず。』で、そこに気付いて、
萎
(
しお
)
れることはない。
そんな時も、仏さまのお助けには少しも変わりはない、と仏様の方にさっといけばいいのだ。」と諭されたことがあります。
「どうしたらよろしいか?」と聞いても、「ほんとうを言うたらそれだけだよ。」これが私の 「
地金
(
じがね
)
の
姿
(
すがた
)
」です。
私たちの苦しみの原因は煩悩です。
私たちは、つい、苦しみの原因を他人や周囲のせいにしがちですが、仏法ではその原因を自分の心に求めます。
こうした煩悩によって苦しみ悩むのが私たちの姿ではないでしょうか?
苦しみ悩む人生も仏の慈悲に出会うなら苦悩のままではない。
仏さまに抱かれた人生は、球のどこを押えても、そこが中心なように、仏さまの慈悲のど真ん中の人生です。合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「ととのえる」
どんなに 小さなことでも
心 こめて
ととのえられたものには
心をうつ味が ある
美しさが ある
自然に
心が 暖まってくる
ーうれしいネー
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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