平成26年11月
第37話
朝事*
住職の法話
「仏さまの方に」
先日、ある住職さんの言われるのに、
「家族が亡くなられて、法事で、中々、仏様の方へ心がいかないで、 故人を偲ぶところで止まってしまう場合が多いですね、下手すると故人のことも思わない場合のあるようです。」
大体、そういう意味のことをおっしゃいました。
身近な人が亡くなって、家族は故人のことを思っている。
それは間違いないことだと思います。
故人のことを口に出さなくても、ぐっと堪えて笑顔を作って、親戚の接待に努めている喪主もあるような気がします。
つまり、故人に対する色々な思いが溢れているわけでしょう。
それで、中々仏様の方へ心がいかないのも、一面無理のないことではないかと思うのです。
しかし、「法事」という字をよく見て下さい。
「法の事」という字を書きますね。
私は、この字を、「仏法の事」「仏様のはたらき」というように味わっていますが、如何でしょうか?
法事とは、
「日頃、忙しいので、なかなか仏法を聴聞する機会のない、お互いが、せめて故人の命日をご縁として、 仏法に少しでもご縁を持ちましょう。」
という趣旨の、仏法の行事だということになります。
親戚との和合も勿論、大切ですが、故人は身を以て、「人生の無常」を教えて下さっているわけです。
あまりに辛くて、そんなことも思えないような法事もあると思います。
しかし、「人生の無常」とは、他人のことだけなのでしょうか?
「他人の姿は、私に、私の姿を教えて下さっている。」と言えないでしょうか?
「そんな陰気なことを言うから仏法は聞きたくないのだ。」と言う人がいます。
嫌なことは、少しでも、考えたくないのは、私も同じです。
私自身、自分が死ぬということは考えたくもありません。
「後生の一大事」と言われています。「一大事」なのだと蓮如上人は言われています。
「一大事」とは、私が迷いから悟りに向かうという一大事なのではないでしょうか?
ある方が亡くなられ、病院の部屋に、「今までは、他人が死ぬと思いしに、俺が死ぬとは、こいつたまらん。」という言葉を 書き残していた、というエピソードを聞いたことがあります。
また、ある高利貸しの方が亡くなる時に、「金はなんぼでも出すから、死ぬのだけは、こらえてくれ、助けてくれ。」と 医師に泣きながら懇願した。というエピソードを聞いたことがあります。
その逸話をして下さった講師が言われました。
『「金はいくらでも出すから、死ぬのだけは勘弁してくれ。死ぬのだけは助けてくれ。」と言ったので、その話が、ひととき、その地域で 話題になったけれど、これは決して笑えない話です。
今にして思えば、その人は、そういう姿まで見せてくれて、我々に大切な何かを教えて下っていたのだと味わえます。』
と諭されました。私自身の問題だということですね。
「
二河白道
(
にがびゃくどう
)
」のことを説かれた
御聖教
(
おしょうぎょう
)
や、また、他の御聖教の中にも、 「
忽然
(
こつねん
)
」という言葉が、仏法の中で、出てきます。
この「忽然」という一句は、「自覚」示す文字だと教えられました。
辞典には、「忽然」という言葉について、
『@物事が一瞬にして現れたり消えたりするさま。 「 −と姿を消す」 物事の出現・消失が急なさま。 忽如(こつじょ)。こつねん。「―として消えうせる」Aにわかに。突然。こつねん。』
と解説されてあります。
「驚きを持つ」「気付く」「目覚め」そういう意味でしょうか?
「無自覚なものには、恐るべき何物もない。」
「無自覚なものには、自分自身が問題になることがない。」
ということも言えましょう。
普段、何事も起こらず、平平凡凡な生活をしている状態から、突然、普段と違う状況に変わっていくことが、人生には あります。
「人生には、登り坂、下り坂」以外に「まさか!」の坂があるとは、よく言われることです。
最近の災害は、まさに、「まさか!」そのものですね。
また、家族や、親しい人が、急に病気になったり、急に亡くなったりすることもありましょう。
また、自分が大病になって、死にかけたり、急に健康が失われ、入院生活を余儀なくされる場合もあります。
そのときに、「
忽然
(
こつねん
)
」ということが起こるのでしょう。
私の知人にも死線を乗り越えてきた方が何人もおられます。
一度、そういう目に会うと、その人の人生に大きな影響を与えずにはおられません。
私たちは、そういう方から学ぶことが、多くあると思います。
「
二河白道
(
にがびゃくどう
)
」の中に、
「
忽然
(
こつねん
)
として中路に二河あるを見る」
という言葉があります。
「
二河
(
にが
)
」とは、「火の河」【怒り】、「水の河」【貪り】。
それは、「私自身は火の河と、水の河にほかならない。」ということが見えてきた、ということです。
今まで気づかなかった自分の姿に突如、気付かされたという状態でしょう。
目覚めることが無ければ、自分が暗いところに居ても暗いと感じられないわけです。
「これが当たり前なんだ。みんなも同じようにしているじゃないか。これが普通だ。」と、つい安易に過ごしてしまいがちです。
「貪り」とは、「自己関心ばかりの心で、他人のことに心が向かない、広い心が持てない。」これは水のように冷たい心ですね。
「怒り」とは、「自分に気に食わないことに、むかっとする。」これは火のような熱い心ですね。
突然、全く見忘れていた自分に気付かされる。
目覚め始めたときに、貪りや怒りの自分であったことに気付かされることがあります。
このことを「
忽然
(
こつねん
)
として中路に二河あるを見る」と説かれています。
自分を取り巻く状況が急に変化して、その中に巻き込まれてどうしようもなくなったり、自分の心の中に欲望や怒りが渦巻いている ことに気付かされて、驚いたり、そういう、「驚き」というものが「仏様」に心が向くご縁になるのではないでしょうか?
自己の
煩悩
(
ぼんのう
)
を、ご縁として、仏様の方に心を向けさせられます。
自分ではどうしようもない位の煩悩です。
それでは、それは自分の力で、煩悩、自分の醜さ、恐ろしさに気付いたのでしょうか?
実は、仏様の智慧の鏡に照らされて、自分の欲望、貪りの心、怒りの心、恐ろしい心などに、気付かされたのではないでしょうか?
闇が闇に気付くことはないですよね?きっと何かに照らされているから気付かされるのでしょう。
私の恥ずかしい煩悩の心が気付かされるところには、必ず仏様の存在が在るのですね。
そのことを「うれし、、恥ずかし、恥ずかし、うれし」という気持ちだと言われた先徳がおられます。
煩悩を
慚愧
(
ざんぎ
)
しながら、そういう私を照らしていて下さる 仏様の存在に気付かされ、仏様の方に心を向けさせられる、
慚愧
(
ざんぎ
)
と 感謝の気持ちが、信心の生活の中にあるような気がします。
「常に、共に居て下さる仏様の呼び声」が「南無阿弥陀仏」の「お名号」になって、絶えず私に呼びかけられている身の幸せを 感謝したいものです。 合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「親友」
忠告しあえる 友
共に笑える 友
喜びあえる 友がある
いっしょに泣ける 友
はげましあえる 友がある
善き友を 持とうヨ
善き共に なろうヨ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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