平成26年10月
第36話
朝事*
住職の法話
「宇宙にただ一人」
人間はよく他人と比べて、「自分はつまらない人間だ。」と、情けない気持ちになることがありますよね。
しかし、ある方が言われました。「比べるのは知性がないからだ。目の前の石は、宇宙にたった一つの石だ。 他の石と比べる必要はない。」と。
そう言われてみれば、事実は確かにその通りですね。
「宇宙にたった一つの目の前の石」、「宇宙にたった一つの私、あなた」。
「宇宙にたった一人」、と言うと、何かとても淋しい感じがしますが、実は、たった一人の自分は、 「宇宙に抱かれている自分」、「宇宙と一体の自分」、宇宙全体が、この五尺の小さな自分と関係がある壮大な賑やかな面もあるのでしょう。
そんなことを味わわさせていただきますと、この小さな自分もとても意味のあるものだという気がしてきます。
昔聞いた話に、ある若い修行している雲水は、修行して得られる超能力的なものに興味が起こり、 「修行すれば、どんな能力が開発され、得られますか?」と師匠に尋ねたそうです。
師匠は、「朝目が覚めたら、こうして歩けるではないか。ご飯が食べられるではないか。これ以上の能力が、どこにあるというのか?」 と答えられたとか。
これは、自分一人の命全体に、宇宙全体が働いていることを悟られている方のお言葉なのでしょうか?
とはいえ、現実の生活の中では、色々な人がいますし、この人生は、なかなか自分の思い通りにはいきませんよね。
ある七十代の男性が、しみじみと言われました。
「自分の周りの人間が、自分の思い通りに動いてくれることはない。自分の力ではどうしようもないことがある。」と。
「ある程度、年取って、人生を達観すると、一々小さなことを気に病んで、ぐずぐずと周りに当たり散らして、 迷惑かけるよりも、明るく生きたら、自分も周りも楽しくなれるのではないか?」という意味に聞こえました。
また、こうも、言われました。
「ゴルフを一緒にしても、勝ち負けにこだわり過ぎると、『負けて悔しい!』と周りに当たり散らす態度になる人がいますね。
周りも、不愉快になりますよ。短い時間の付き合いなんだから、もっと楽しく付き合いたいものですけどねえ。」と。
又、「ゴルフ仲間が、体調を崩して、今までのように、仲間と一緒にゴルフをすることが出来なくなったんです。
それで仲間が嬉しそうにゴルフしているのを見て、悔しいのでしょう。僻むので、みんなも、困ってしまうんです、 その僻みが強くてね。」と。
どこか、他人事とは思えないところがありますね。
ある方は、「人間は、ある程度年取ったら、趣味を持っていたらいい。仕事を引退しても、趣味があれば救われる。
それを、今までやっていた仕事に未練があり、せっかく引退したのに、引退した喜びを味わうことが出来ない人もいる。
それで、つい息子たちに、要らない余計な口出しをして、嫌われ、家庭内でも、世間でも、尊敬されないことになってしまう。」 と言われました。
切ない話ですが、確かに、そういう事は世間に多いのではないでしょうか?
それも自分に、自分だけの趣味が無いからだと、、?
しかし、趣味も一人だけでは出来ない趣味もありますし、お金がかかる趣味もありますね。
また、趣味と言っても、本当にその趣味が楽しく感じられるようになるまでには、集中した努力も要ることでしょう。
一足飛びに、「趣味が楽しい。」という境地には至れない面もあります。
ある奥さんに、「奥さんも色々な趣味をお持ちでしょう?」と聞くと。
「色々と、少しはやってみたことはありますけどねえ。」という返事が返ってきました。
今の時点で、そんなに夢中になれる趣味もないようでした。
しかし、別に趣味にこだわる必要はありません。
日本人は、何故かしら、昔から、仕事と趣味をはっきり分けてこなかった面もあるようですね。
私の親戚の叔父さんも、私が学生の頃に、会いに行くと、よく、「仕事が趣味になる生き方がある。」と言ってくれました。
その叔父は、自分自身、仕事を趣味にしていたような人でした。仕事を深めていく勉強、研究が好きだったのではないかと思います。
その叔父さんは、休日でも仕事関係の本を読んだりして結構、自分で、幸せだったのではなかったのかな?
お百姓さんでも、休みの日も、田んぼを見に行くことが、一服でもあり、仕事でもあるということもあるわけですね。
ことさら仕事と休みを分けない生き方も素晴らしい面もあると思います。
要は、自分自身に、これだ!という何かがあれば、そんなに他人と比べて一喜一憂する必要もないということでしょうね。
少しは見習いたい気持ちはありますね。
人生は、確かに、「幸不幸」「成功 不成功」など、相対的な評価というものもあります。
もちろん、努力という原因があって結果という果が得られるのでしょうが、、。
当たり前のことですが、ついつい、他人が成功したと聞けば、いたずらに羨ましがるだけに終わり、その人の陰の努力を 忘れがちです。
人生は、僥倖【ぎょうこう】・「あこがれ」や「夢」だけを夢見ていて、開けるはずもありませんよね。
「仏法は、一人いてよろこぶ法なり。」という言葉を聞いたことがございます。
「一人いてよろこぶ。」とは一体どういうことでしょうか?
自分が宇宙にただ一人、又、同時に、宇宙に抱かれている自分、宇宙と一体の自分、宇宙全体に関係がある自分。
そういう自分に目覚めさせて頂き、意識的な目覚めのある喜びある生き方をしたいものだと思うのです。
人間の欲望にはきりがないと言いますが、日々の生活は、際限ない自分の欲望に振り回されて、どうしようもない惨めな 状態です。
誰れかが、この私を惨めにしているのではなく、自分が惨めになっているのかも知れません。
「求める」から「不満」なのでしょうか?渇愛【かつあい】という言葉も仏教であります。
二十四時間、欲望は無くならない。求めることは止められない。
他人の苦しみ、悩み、心の痛みなどを考える心のゆとりもないような気がします。
自分のことばかり考え、他人のことを見落としていることも多分多いことでしょう。浅ましいことです。
又、仏教聖典には、「足るを知るは第一の富」「悪から遠ざかる味わい」「教えのよろこびの味わい」等の言葉があります。
悟りを開かれた仏陀の言葉です。
しかし、仏陀の真意はどこにあったのでしょうか?
私は、仏陀の言葉を読みながら、いつも思います。
「仏陀はこのような言葉で、このように説かれているけれど、実際には、真意はどういう意味だろう?」と。
問い続けていきたいと思っています。きっと仏陀は答えて下さるのかな?真剣に命がけで問えば、、、?
「自分の姿に目覚める」「意識的に生きる」「自覚して生きる」、ということが欠けていると思いますね。
「意識的」なものが欠けていると思うのです。毎日同じ失敗を繰り返していては、あまりにも情けない気がします。
しかし、後悔して、「二度としません。」と誓いを立てて、自己満足していけば、「私は後悔した。反省し誓いを立てた。」 という自我が益々強まっていく、自我の心の狡さ【トリック・からくり】には中々気が付かないものだとか。
一見、殊勝気な反省の姿の裏に、狡猾な自我の落とし穴があるとは、私も知りませんでした。
私は、自己の日々の問題を常に、仏さまのみ教えに問い、親鸞さまに問い、蓮如様に問い、仏陀に問い続けたいものだと思っています。
たとえ結果がすぐに得られなくても、努力を忘れず、世間に振り回されるだけではなくて、人生は一寸先はわかりませんから、 今日一日深い喜びがある日々を大切にしたいものです。
「本願力に遇いぬれば むなしくすぐる人ぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
親鸞聖人の和讃です。
「仏さまの方から、この私に働きかけて下さっている働きに目覚めさせられて、私のようなものが尊い働きに出遇わせて頂いた。」
限りない仏さまの働きをこの身一杯に頂かれたことを、深く感謝し、その日その日を御恩報謝させて頂きたいものです。 合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「和顔愛語」
やさしく 明るい
まなざし と
ほほえみ【和顔】
心のこもった
いつくしみの言葉【愛語】
人と人との
ふれあいの中で
大切に したいです ネ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
トップページへ
朝事の案内
書庫を見る
このページはインラインフレームを使用しています。