平成26年7月
第33話
朝事*
住職の法話
「空が開けた《
今年【2014年】サッカーワールドカップの開催国のブラジルの言葉で、
「天気が晴れる《という時に、どういう言い方をするのでしょうか?
問題【クイズ】①空が笑う? ②空が踊る? ③空が開ける?
この中の何番が正解でしょうか?
正解は、③番の「空が開ける《が正解です。
英語で言えば、「スカイ オープン《と言うところでしょうか?
空が開ける・「オープン《という言葉は広々とした、どこか清々した響きを感じます。
「心が開ける。《とか「心がオープンになって。《「オープンマインド《と言えば、 それだけで、心が和していく感じがします。
自分自身が心を閉じていて、他人と仲良く明るく付き合っていこうとしても中々そうはいかないのかも知れません。
又、他人からいくら愛情を注いでもらっても、自分から狭い
殻
(
から
)
に閉じ籠り、閉鎖的な態度では、中々他人の愛情を受け取れないのではないかと思います。
心がオープンでないということは、それだけで、苦しい生き方なのかも知れません。
自分から牢獄の中に籠ってしまう生き方なのかも知れません。
しかし、いくら頭の中では、「そうだよなあー。《と理解が出来たとしても、自分自身のものとならなければ何事も本当に 知ったということにはならないようです。
借り物の知識では物事は簡単には解決できない、ということですね。当たり前のことですが、実際には物事にぶち当たって はじめて目が覚めるということがあるのではないでしょうか?
人間関係でもそうではないですか?最初のうちは仲良く付き合っていたのに、ちょっとした行き違いで、いっぺんに仲違いして いがみ合うということはよくあることではないでしょうか?
私自身どれだけこういう苦い経験をしたことでしょう。誰れでも言わないだけで同じ苦しみを抱えていることでしょう?
それでは、「どうしてこうなってしまったのか?《ということを自分自身、静かに考えてみるとします。
「最初にあいつに私がこう言ったら、確かに、私も言い方が悪かったのかも知れないけれど、あいつはこういう言い方をしやがった。 もっと言い方があるだろう。《
とか、自分が何に対して腹を立てているのかということを追求していくと、「あいつが私をコケにした。冷や飯食わせた。《とか、
「あいつのやり方が気に入らん。《「あいつの態度が投げやりで心がこもっていなかった。私をぞんざいに扱った。《とか。
結局、悪口でもそうですが、みんなと一緒になって他人の悪口を言っている時は、案外楽しそうに話したりしていますけれど、 一端、自分の悪口を言われたとなったら、いっぺんではらわたが煮えくり返るように腹立ちが怒りが込み上げてくるのではないでしょうか?
私の悪口を言ったから腹が立つ。私に対しての態度が冷たかったから許せない、あんな奴とは二度と付き合わない、顔も見たくない。
言い出せば切りのないことですが、「私に対してあの態度は何事か!許せない!。《 等と、
自我
(
じが
)
の強さ、エゴの強さを感じさせられ、 どうしようもない煩悩が荒れ狂うことを止めることが中々出来ません。
そこで、「恥ずかしいことです。《と、仏さまの前で反省しながら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申しながら歩ませて頂く しかありません。
「念仏の
堪忍袋
(
かんにんぶくろ
)
なかりせば、 何にか入れん
癇癪
(
かんしゃく
)
の虫《
という
法語
(
ほうご
)
を聞いたことがございます。
お念仏を称えながら、しみじみとわが身の姿を反省しながら、また同時に、仏さまの広い広い大空のような心を仰ぎながら、 一歩一歩、気づきと共に、歩ませて頂きたいものです。
何か事にぶち当たって、それが解決できないということは、借り物の知識だけであって、自分自身の身についた理解ではなかったという 厳しい批判が聞こえてきそうです。
それでは、私たちは、死の解決は本当に出来ているでしょうか?
「死の解決は生の解決です。《ということを教えて頂いたことがございます。
死のことなんか考える
暇
(
ひま
)
なんかない。
それとも、人間は今・ここで生きているのだ。死のことなんか考えることは要らない、と思われるでしょうか?
生と死は全く関係のない、離れたものなのでしょうか?
仏教では、「
生死
(
しょうじ
)
《というように一言で言います。
また、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、
「
生死出
(
しょうじいず
)
べき道《を求めて、仏道を修行され、勉学 されたと聞いております。
たえず、親鸞聖人におたずねしていきながら、聞法していきたいものでございます。
親鸞さまは何を求められ、何を教えられたのか?
何に気づいてほしいと、その九十年の厳しいご生涯を過ごされたのでしょうか?
今一度、初心に立ち返り仏法聴聞させていただきたいものです。
親鸞聖人の「
和讃
(
わさん
)
《【仏法の歌】の中に、
「
金剛堅固
(
こんごうけんご
)
の
信心
(
しんじん
)
の
さだまるときを まちえてぞ
弥陀
(
みだ
)
の
心光摂護
(
しんこうしょうご
)
して
ながく
生死
(
しょうじ
)
を へだてける《
という御和讃がございます。
「
阿弥陀如来様
(
あみだによらいさま
)
は、 私が金剛堅固の信心の定まる時を待っておられる。《というお心が和讃のお言葉から、私の胸に 伝わってくるようで好きな和讃ですね。
広い広い大空のような阿弥陀如来様の智慧と慈悲は、南無阿弥陀仏となって、いつでも・どこでも・誰れにでも、 こちらが願うより先に、この私のところに届いていて下さるのだ。
あまりに近くにおられるので気づかないのでしょうか?
仏さまは無我な方なので自我の心・エゴの心には理解できない質のものかも知れないですね。
しかし、この和讃を読みますと、常に、この私のことを案じておって下さるのだなあー。この私と無関係なのではないのだなあー、 という気がしてきます。
また、「蓮如上人御一代記聞書《【152凡夫直入の道】に次のようなお言葉がございます。
『凡夫のあさましい身でありながら、浄土に往生するということを、容易なこと、ありふれたことのように思い倣しているが、 それは大変な思い違いである。
凡夫がすぐにお浄土に往生するのは本願のおはからいによるので世にも
稀有
(
まれ
)
な
勝
(
すぐ
)
れた救いであって、これを信ずることは難しい極みであるから、 「大経《にも、難中之難といって、 「
難
(
むずか
)
しいなかにもいちばん難しい信心である《と説かれてある。
このように凡夫のはからいではとても起こすことのできない信心であるが、仏智の上思議なおはからいによって、獲得しやすいように 廻向して成就してくだされたのである。
覚如上人の「
執持鈔
(
しゅうじしょう
)
《には 「往生ほどの一大事は凡夫のはからうべきことではない《とのべられた。
これはただ仏のはからいによるのであることを諭されたのである。
この蓮如上人の仰せのとおり、實如上人も「後生の一大事ということを存知して、この一大事はただ仏智のおはからいによると 信心する人には同心なさる《と仰せられたことである。』
と諭されてありますが、まことに凡夫としては絶対に自分では起こせない信心を、ただ仏さまの智慧から廻向されるのだという ことが感動を持って説かれています。
また、「蓮如上人御一代記聞書《【223仏恩を嗜む】に次のようなお言葉がございます。
『仏恩をよろこんで念仏をたしなむということは、世間で普通いうているものをたしなむというようなことではない。
信心をいただいた身には、仏恩を有り難くおもうて念仏まうすことであるが、そのよろこぶひまには、凡夫のならいとして懈怠に なるときに、こういう広大な仏恩を忘れることはあさましいことであると、仏智のおはからいにたちかえって、ありがたいことである、 尊いことであるとおもうところから、他力のおん
催促
(
もよおし
)
によってひとりでに念仏申すようになれるのである。
仏恩をたしなむということは、このことである、すなわち自分のはからいで、つつしみはげむことではなくて、他力のおはからいに よって、気をつけさせていただくことである。』
とございます。仏さまの御恩を報謝する念仏をたしなむことは、そのたしなむということは自分のはからいでなくて、他力の おはからいに
催
(
もよお
)
されることを諭されています。
凡夫として煩悩があるのは悲しいけれど、カラスの羽が黒いのと同じように、いくら洗って白くしようとしてもできないと いうことなのでしょうか?
煩悩に狂わされるのは情けない悲しいことですが、深く
慚愧
(
ざんぎ
)
しつつ、ただ仏さまのおはからいによってめぐまれた信心によって 救われていくと味わう次第でございます。 合掌
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「おはよう《
『おはよう』と
ニッコリほほえむ
あいさつ で
明るい一日 が
ひらけて ゆくのです
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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