朝事・住職の法話
平成24年1月 「南無阿弥陀仏の千両役者 我でも」
新年あけましておめでとうございます。こうして生かされているのは自分の力ではないと思っております。
年賀状のあいさつに「明けまして 南無阿弥陀仏」という言葉が書いてあるのが何枚かございましたが、南無阿弥陀仏というものが、現代は葬式などを連想して、暗い言葉だと、嫌がる傾向もあるのではないかと思いますが、実際は、これほどめでたい言葉はないはずです。
ある先徳は、「どんな時でも、南無阿弥陀仏、結婚式でも南無阿弥陀仏」と言われた方もあるくらいです。
ただ、そういうことだと、知っているだけではなく、自分の身に深く頂き、味わわせていただくことが大事ではないかと思います。
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」といいますが、自分抜きに知るだけではなく、真剣に、自己の問題として、そのことをわが身に、自分自身に味わわせていただきたいものです。
ある先徳の句に
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ 南無阿弥陀仏の千両役者」
とあります。
「私でも」
南無阿弥陀仏の働きが無限に深く大きく千両役者なので、救って頂ける、という味わいの歌です。
毎日の生活では、他人の悪口を言ったり、愚痴を言ったりするこの自分の口から、お念仏様が出て下さることは、自分の力ではなく、仏様の「お前を必ず救う」という功徳の呼び声が我々に、一瞬たりとも、休むことなく、働いて下さっているからと、他力だからこそ、ありがたいと味わう次第です。
香樹院師の法語に曰く
「色もなければ形もなし、
選択本願の無量寿仏、生き仏はこれじゃ。知っておるか。口に出入りの南無阿弥陀仏、この南無阿弥陀仏に助けられての往生じゃ。」
と申されました。
阿弥陀様を他人仏にしたり、死んだ仏のように思い、じっと蓮台に座っておられる仏と思い、また、南無阿弥陀仏を死にものに扱うものだから、いつまでたっても、信心ということがわからなくなるのではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏助けるぞ」と仰せ下される阿弥陀如来は生きてござる親様である。その約束も、「本願力」も生きておる。
南無阿弥陀仏は生きてはたらいてござる。その働きの「大慈悲力」によって私は往生するのである。
如来様の大悲のはたらきそのものである南無阿弥陀仏に助けられて往生を遂げるのである。
阿弥陀如来の功徳を有難うございますと憶念するところ、即の時に正定聚不退の位に入るのである。
これが「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」(信の一念)のこころであります。
人間に生まれて来て「南無阿弥陀仏」と「一たび聞かせていただいたら往生するぞ」と仰せ下さる。
南無阿弥陀仏様の力を今更のごとくありがたくいただく次第です。
南無阿弥陀仏の功徳不思議なれば、考えず、思わず、はからわず、聞くだけで往生とは、何たるお慈悲であろうか。聞いたら何たる幸せ者であろうか。
南無阿弥陀仏には、無量力功徳がある。南無阿弥陀仏で往生するぞと仰せ下されたことが、しみじみいただかれて、何とも云えぬ「たのもしさ」と、「うれしさ」と、「よろこび」にみちている。南無阿弥陀仏ただ一つ、ひとつの味わいは無限に導く、無限に大きく、味わいがある。
ある先徳は「わき見をするな、考えな。よそ見をするな、考えな」と言われています。
浄土真宗は、名号のいわれを聞きひらくことが最も大切であり、もっとも肝心な点であると言われています。
南無阿弥陀仏のいわれを聞きひらくことは、即ち本願のいわれ、本願の生起本末を聞くことになります。
自身の愚かなこと、罪の深いことを知らせていただいて、その私を救いたもうのが如来様の本願名号であるといただけたならば、自分の力にとらわれなくなります。
親鸞聖人は、「信心」は「名号」から別体のものではなくて、信心は名号のはたらきである。
名号は凡夫が信ずるまで、じっと静止しているものではない。
名号は「南無阿弥陀仏、必ず救うぞ」の如来の願心であり、願力であり、自己の生死の問題なんかは、すっかり忘れて、浮かれきって、うっかりしておる凡夫に、久遠の昔から、働きかけ、呼びかけ、眠っておる凡夫を目覚めさせ、驚かせつつあるのであるのであります。
一般的に、普通の人たちは、阿弥陀様はじっとしておる、名号も生命なき死物のようにじっとしておる、信ずる働きは、凡夫の方でするのだと考えていないでしょうか。
南無阿弥陀仏は、呼びかけ、はたらきかけて、信心発ることなき、無智無能の凡夫に信心を起こさせたまい、如来様を憶念せしめたもう力であり、大慈悲心である。
凡夫が自分の力で信じたように見えるのは表向きであって、その実、如来様が凡夫の心の中に入って来て下さったものに外ならない。
ある先徳は、
「ほっておいてくれと言われても、ほっておかれぬ親心、どうぞ私に助けさせておくれ。」
と如来様の温かい血の通った慈悲の活動を味わわれておられます。
「南無阿弥陀仏は親様である、見てござる、護ってござる、待ってござる」
という言葉を絶えず味わわせていただきたいものと思う次第でございます。
「なつ」さんという有難い方がおられました。なつさんが、ある先生から頂いた歌に「法の花」という歌がございます。
「なつ」さんは、苦しい病気になって、闘病生活をしておられたそうです。その中で、仏様の教えを身に付け、深く味わっておられました。
「法の花」 |
|
南無阿弥陀仏 |
|
親様如来は |
南無阿弥陀仏 |
落としはせぬぞと |
南無阿弥陀仏 |
摂取の証拠 |
南無阿弥陀仏 |
往生一定 |
南無阿弥陀仏 |
南無阿弥陀仏 |
|
来いよ来いよと |
親の声 |
心配するなと |
親の声 |
護っておるぞと |
親の声 |
声聞くままに |
南無阿弥陀仏 |
南無阿弥陀仏 |
|
わき見をするな |
考えな |
南無阿弥陀仏が |
招待券 |
南無阿弥陀仏が |
および声 |
よばれて帰る |
親の里 |
南無阿弥陀仏 |
|
わたしゃ阿呆の |
尼入道 |
大悲の親様 |
南無阿弥陀仏 |
まかして丈夫な |
南無阿弥陀仏 |
南無阿弥陀仏に |
手を引かれ |
南無阿弥陀仏 |
|
毎日毎日 |
南無阿弥陀仏 |
迎えに来たぞ |
来ておるぞ |
これがほんまの |
摂取不捨 |
親と見合いは |
もうすんだ |
南無阿弥陀仏 |
|
本願成就 |
南無阿弥陀仏 |
よび声一つ |
南無阿弥陀仏 |
待っておるぞよ |
南無阿弥陀仏 |
ほんまにこのまま |
南無阿弥陀仏 |
南無阿弥陀仏 |
南無阿弥陀仏 |
|
「法の花」 |
毎日毎日口から出たり入ったりして下さる南無阿弥陀仏は親様である。
「親様」なるが故に、「なつ」さんに、二六時中、一分間もたえ間なく、一秒間もたえ間なく、念力をかけて下さっているから、「なつ」さんは、「南無阿弥陀仏」と聞き、「南無阿弥陀仏」と、親様の言葉を、少しもたがわず、「なつ」さんが称えるときに、そのお念仏の中に、お念仏のうちに、お念仏の全体が、「落としはせぬぞ」の「親様」の大悲心であるから、「なつ」さんは、親様の言葉を聞き、親様の言葉を称え、親様のまことを、
名号、六字のうちに、毎日毎日いただかれたら、苦しいながらに、なんとなく辛抱ができたのかと思った次第です。
「なつ」さんは、苦しい病気であるのに、死にいたるまで、よう辛抱されました。苦しいときにも、お念仏と共に、見舞いに来た人たちに、「親様」のありがたいことを語っておられたそうです。
「なつ」さんは病院の中で、阿弥陀様を拝むことが出来ないけれど、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えておられた。
「南無阿弥陀仏」も八万四千の光明を放っておられる。
その光明は目には見えないが、「なつ」さんを包み、「なつ」さんを取り巻いて、摂取不捨と抱きしめておられる。
「なつ」さんは、さぞかしそれをよろこんでお念仏をしておられたことでしょう。
阿弥陀様が「南無阿弥陀仏落としはせぬぞ」と仰せられたら、きっと私は助かる。
「南無阿弥陀仏」は願力摂取のすがたであると同時に、私が必ず往生する証拠であります。
「南無阿弥陀仏」と聞くなり、「早や、わが往生は成就しにけり」と、「なつ」さんは頂いておられたことと思います。
御文章に曰く「不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたまふ」と説かれています。
「なつ」さんは、平生から「願力往生」「願力摂取」を信じて「往生一定」のおもいに住しておられたことでしょう。
「なつ」さんは、日一日と、死ぬる日が迫ってきている中で、さぞ「来いよ来いよ」の親様の声をうれしく、なつかしく、楽しく思って聞かれたことでしょう。
「来いよ来いよ」と呼んで下さる以上、如何に愚かな「私でも」、如何に罪業深重の「私でも」願力不思議によって助かるに決まっています。
南無阿弥陀仏は、「心配するな」と仰せ下さる親様の「生の声」である。
大悲の親が手を引いて、大悲の親が待っていて下さるお浄土へ、大悲の親様の南無阿弥陀仏と一緒に参らせていただくのです。
親様の声は聞きたいものである。阿弥陀様も生きておられるから声も生きている。
「生の声」とは「生きておる声」のことです。
「如来様の直々の声」であります。
広島のある和上は
「極楽の道は一すじ南無阿弥陀 思案工夫のわき道をすな」
と母親に手紙を書かれています。
短い歌ですが、短いから価値がないということは、仏様の言葉にはありません。無限の味わいがこの歌の中にあると、常に仏語を味わいつつ生きていくところに安堵があるのでしょう。
招待券が来たら、どんな催し物にも、旅行にも、行事にも、招待券の力で、遠慮なく、大手を振って出席することが出来ます。
今、極楽から「南無阿弥陀仏 待っておるぞよ」の招待券が「なつ」さんに届けられた。
招待券を出したお方は仏様です。「なつ」さんも、この招待券をいただかれて、浄土に往生されたのでしょう。
よんで下さるからこそ参られぬものが参らせていただくのでしょう。この「およびごえ」を、いつ、どこで聞くのか。
毎日毎日口から出入りして下さるお念仏のうちに聞くのでしょう。
原口針水和上の歌に
「わがとなへ わが聞くなれど 南無阿弥陀 つれていくぞの 親のよびごえ」
とあります。
去年は、びっくりするような無常の出来事が色々とございました。あっちが死んだ、こっちが死んだということを聞くのであるが、自分の番ということを抜きにして仏法聴聞はあり得ないと思う次第であります。仏法は自分が正客なのです。他人ではありません。
「かえるべき 親里ありと知る智慧は 御名を聞く身の幸にこそあり」
という歌がございます。
「かえるべき親里」があるということは大きなことですねえ。
「愚痴に還りて極楽に参る」というお言葉がございますが、偉くなって参るのではなく、 阿呆でいい、いくら阿呆でも、「私のような阿呆でも」、「仏様のよびごえ」にひかれていくのです。
ただ親様が「護っているぞ」と、この世もあの世も、昼も夜も、生にも死にも、いつもついていて下さるから、参られぬものが参られるのです。
親様、仏様を抜きにして、仏様を忘れて生死の問題を解決する道はありません。
毎日毎日、南無阿弥陀仏。毎日毎日、如来様の「生の声」生きておる声を、聞かせていただき、親様と出会わせていただく幸を深く味わわせていただきたいものでございます。
親を知らない子供はどんなに心細いことでしょう。仏様を親様と慕いつつ、生死の闇を解決させていただき、希望を持って、生死の問題に安堵感を頂いて、どんな時でも、親と一緒に、生かされていきたいものです。
「弥陀と私は松葉の中よ どこに落ちても 二人連れ」 合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩
のままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
トップページへ
朝事の案内
書庫を見る