平成26年3月 第29話

朝事*住職の法話

「今在る上思議《

《本願寺新報 平成26年2月10日号・20日号の「阿弥陀経 まナビ《㉘ ㉙ 河智 義邦師》のことばに

『「青色青光黄色黄光しょうしきしょうこうおうしきおうこう《 宝地の荘厳の最後には、池の中に咲く蓮華の様相について説かれています。
その蓮華は車輪のように大きく「青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、 いずれも美しく、その香りは気高く清らかである《と示されています。・・
他者と引き比べて得られる人生の幸せ・満足感ではなく、比較を超えて、身に受ける悲喜をいただいていく、 ありのままの自己を受容することで得られる真の自尊感情のありようについて象徴的に説かれてあります。
「人間は比較する生物である《といったことを聞いたことがあります。
これは比較することの負の面を指摘した言葉かと思います。
その前に、比較には成長をもたらす面があることを考えてみます。 
どのような分野であれ、メンター(良き指導者・優れた助言者・恩師)と比べることによって自分の至らなさに気付き、 向上心の芽生えにつながることがあります。 
また、ライバル(好敵手)の奮闘に刺激を受けて、努力してスキル(技量)が磨かれることもあるでしょう。
それは競争社会といわれる現実、世の中を生きていくためには必要とされる要素かもしれません。
問題は負の面であり、人は無意識にも自分を基準に他者と比較して優劣をつけたがる生き物であることを 指摘したのが先の言葉です。 
他者より優れた点を見つけては優越感(幸せ)を感じ、悪い点があれば劣等感に さいなまれ、上幸感を抱きます。
そして、時には優越感に浸り続けたいために他者を排除したり足を引っ張ったりもします。
・・ところで、経文きょうもんの 「青色青光黄色黄光しょうしきしょうこうおうしきおうこう・・《は、 極楽浄土がそうした傷つけ合ういのちの世界ではなく、すべての存在が比べあうことなく、そのままのあり様で、 ともに輝きあうことのできるいのちの世界であることが明かされます。
それぞれの色から同じ光が輝いているということは、そこに生きる存在がいきいきと自らに与えられたいのちを 生きていることを象徴しているのです。
真の自尊感情を得ている様子がうかがえます。
蓮の花が光り輝くのは、それを照らす光の存在があるからです。
その光を身に受けて輝いているのです。
・・もともと自尊感情(セルフエスティーム)という言葉は、心理学や教育の場においてよく使用される言葉です。
そこでは自尊感情に関して、二つの側面があると指摘されています。 
一つに、他者と比べて評価されたり誉められたり、優越感を感じたりして抱かれる社会的自尊感情です。 
これは他者との関係の中で自分の存在を実感する感情のことをいいます。 
もう一つは、「自分はこのまま生きていてよいのだ《「自分という存在はこのままで尊いのだ《と思うことができる感情のことで、 基本的自尊感情と呼ばれています。 
これは自分勝手で自己中心に生きることを肯定したものではなく、競争・比較の世界の中で限界を感じたり挫折したり、 自分の存在や人生に意味が見出せなくなった人が、「無条件《に「そのままの自己《を受け入れられる感情のことをいいます。 
・・仏教の教えに出って得られる自尊感情のことを 真の自尊感情と表現させていただいていますが、それは基本的自尊感情と大いに重なるところもあります。』と説かれています。
        (河智 義邦 阿弥陀経のまナビ)より抜粋。 
 
ここに、河智師は「自尊感情《という言葉で、とても大切なことを教えて下さっているという気がします。
これが、阿弥陀さまの、「我に任せよ、必ず救う。《という、呼び声を聞いた人に恵まれる大いなる安らぎではないでしょうか。
今・この私を真に支えていて下さっているお働きに目覚めることの大切さを教えられている気がします。
昔から、真宗の信者の方の言葉に、「親様《(おやさま)という、なつかしい言葉がございます。  
間接的に聞いた話ですが、もう亡くなられたご婦人ですが、自分の信心が、中々得られなくて、悩んでおられたそうです。 
信仰の友達(法友・ほうゆう)が、信心の味わいを述べるのに、自分には、そういう気持ちが中々起きてこないことに 焦っていたのでしょう。
自分は分からない信心の味わいを、法友は得ていることに対して、ひそかに、嫉妬心を抱いていたのでしょう。
これも、ある意味で、比較・競争という人間の心ですよね。 
法友は、彼女に対して、「あなたにも、私と同じ親様がついておって下さるじゃないですか。《と、背中をドンと叩いたと言います。
それでも、すぐには、彼女の胸は晴れなかったみたいです。 
彼女は、晩年、病院に入院されていました。 
そこに、見舞れた、仏法の先生に、「私にも親様がございました。《と言われ、先生も感銘を受けたそうです。
「私の親様《という言葉に、感銘を受けられたのでした。                   
ここには、比較・競争を超えた次元から、この私に注がれている仏さまの存在を感じられた世界があるのではないでしょうか。 
比較・競争に振り回されて、悩んでいる只中にも、「そのまま救う。《という如来様の大いなる呼びかけは、 私の上に働いているのでした。 合掌 
                   
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「宣言《
赤ちゃんの誕生の
  
うぶ声を聞いて
  
感動しました。
  

  
誕生の「うぶ声《は
  
「ワタシハ イマ
   
人ノ世ニ 尊イ
   
イノチノ花 ヲ
  
開カセテ 
   
イタダキマシタ!《
   
と 全世界に向かって
   
宣言しているようです。
  
あなたもわたしも
全ての人が
  
誕生の「宣言《
   
をしました。
   
ーみんなのいのち
   
大切にしあおうヨ
  
この人生大事に
   
生きようヨー
   

   

   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い《

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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