平成26年2月
第28話
朝事*
住職の法話
「抱かれている私」
本願寺カレンダーの2月のことばに
「人は
法
(
ほう
)
を求めるに
止
(
とど
)
まって 法に生きることを 忘れている」
とあります。
「大乗」2月号の解説に次のように説いてあります。
『みずからを仏法から離してその外側において「法を求める」に止まっているのではなくて、仏法の中に あって「法に生きる」のでなくては本当の仏法
求道
(
ぐどう
)
ではない、と断言されているところに、 鋭い、そして真剣な「
求法
(
ぐほう
)
」の姿、
「
聞法
(
もんぽう
)
」の姿が示されているとうかがわれます。』
仏法を聞くことはどういう意味があるのか?こういう言葉を機縁にそれぞれが考えてみることも大切なことかも知れません。
又ここの最初の部分に「みずからを仏法から離してその外側において、、、」という言葉はとても鋭い言葉だと感じますが、 如何でしょうか?
私自身は、日々の生活の中で、常に仏法のことを考えてばかりいるのではありません。
色々な自己中心な煩悩を、絶えず起こしながら、欲望の生活を送っていて、そんなときには、仏さまも、仏法もなくなっているときも 多々あります。
それでは、そんな恥ずかしいことばかりで、仏法と離れたことばかりに関心がある私は、仏さまと関係ないのでしょうか?
仏さまは、「そういうあなたが心配でみておれない、呼びかけずにおれない。」と願い、働かれているのではないでしょうか?
一点も曇りのない清浄なる心の仏さまは、清浄でないこころの凡夫にこころを傾けて下さっているのでした。
清浄な仏さまは、清浄でない凡夫に働きかけ、清浄化せずにおれないと働かれている、まことに有難い方なのでした。
そういう意味で、「みずからを仏法から離してその外側において、、」という言葉は、まことに有難い指摘と味わえるのです。
「法の外側にいる者は一人もいないのだよ。」ということです。
しかし、悲しいかな、仏さまの清浄なこころは凡夫の眼には見えません。
そこで、
名号
(
みょうごう
)
という智慧と慈悲のはたらきそのものの呼び声となって、 私に「われに任せよ、必ず救う。」と呼びかけていて下さっているのでした。
しかし、私は、その「仏さまの呼び声」を聞かないで、いたずらに、自分の力に目をつけて、肝心の仏さまの呼び声を 死に物にしていた愚をやっていたのではなかったかと思えてならないのです。
この仏さまの呼び声を味わうについて、「大乗」2月号の、藤井邦麿師のご法話に、次のように説かれています。
『■お慈悲の中で■
【藤井 邦麿 ご法話】
親鸞聖人は「身を粉にし」「骨を砕きても」報じ謝すべき阿弥陀如来のご本願を生涯かけて聞き抜かれました。
そして、死に際のありさまが問題になっている当時の人々を不安から解放されたのです。
これまでの日本仏教の教えの体系を百八十度転換されたのです。
それは人間の側から仏さまに対してお祈りし、お願いして救いを求める前に、阿弥陀如来の側から先に呼びかけ、手を さしのべられているお慈悲【ご本願】を明らかにされました。
そのお慈悲の心を疑うことなく素直に受け
容
(
い
)
れたことが『信心』です。
この信心は自分の努力で
掴
(
つか
)
んだものではありませんから、100%阿弥陀如来からの
賜
(
たまわ
)
りものです。
変質したり無くなったりするものではありません。
生涯煩悩から離れることができない凡夫の身が、その信心を
獲
(
え
)
ることによって、 「
正
(
まさ
)
しく仏になる身に定まった仲間」にならせていただくのです。
油断したからといって、もとの凡夫にもどることはありません。
阿弥陀如来の
智慧
(
ちえ
)
の光に照らし出されて明らかになった
罪悪深重
(
ざいあくじんじゅう
)
のわが身を
慚愧
(
ざんぎ
)
しつつ、その私を決して見捨てないお慈悲を仰いでいく 感謝の日暮しです。
いつ、どのような臨終を迎えても心配はなく、あわてる必要もありません。
そして、この世でいのちが尽きれば、直ちにお浄土に往生して阿弥陀如来と等しいさとりを開き、仏に
成
(
なら
)
せていただくのです。
「一寸先は闇」どころか、明るい展望、確かな方向性、安心したよろこびの人生が開けてきます。
ただただ阿弥陀如来にお礼のお念仏を申すばかりです。』
【藤井 邦麿 ご法話】
この中に『人間の側から仏さまに対してお祈りし、お願いして救いを求める前に、阿弥陀如来の側から先に呼びかけ、手を さしのべられているお慈悲【ご本願】を明らかにされました。
そのお慈悲の心を疑うことなく素直に受け
容
(
い
)
れたことが『信心』です。
この信心は自分の努力で
掴
(
つか
)
んだものではありませんから、100%阿弥陀如来からの
賜
(
たまわ
)
りものです。
変質したり無くなったりするものではありません。』
とあります。
自分の力は全く混じっていなくて、100%仏さまの働きだから、変わらないのだと、説かれてあるところに目が覚める思いがするのです。
私の身近なところでも、色々な方々が「老・病・死」の中で、生きておられます。
もちろん、この私自身の必ず受けなければならない、決して逃げられない人生の姿でもあります。
だからこそ、この中で、一体何が本当の拠り所となるのだろうか?ということを思わずにおれませんし、真の変わらない
拠
(
よ
)
り
所
(
どころ
)
を 求めずにおれない気がするのです。
自分で作り上げたものならば、いくら苦労して作ったものでも
崩
(
くず
)
れてしまうかも知れません。
この私に永遠に崩れない拠り所が、作れるでしょうか?そんなことはできるはずもありません。
ころころと一秒だってじっとしていない私のこころです。
そんな私の愚かさを、あてにならないことを見抜かれた上で、「そのまま来たれ!」と呼びかけていて下さるのです。
その心を「大乗」2月号に、次のように説かれています。
『■南無阿弥陀仏*なもあみだぶつ■
【藤沢 量正 ご法話】
人は、自ら言葉を用いるだけでなく、いつも誰れからかの言葉や呼びかけの声を期待し、明るさとあたたかさに
触
(
ふ
)
れた人生を希望します。
言葉のない人生、あたたかさにあうことなき
日暮
(
ひぐ
)
らしは、人をして孤独の思いを一層深めさせるものです。・・
思えば仏はみ名であり、み名は仏そのものなのです。
喚
(
よ
)
び声は力であり、真の力は仏のいのちを得てこそであります。
しかも、「わが名を称えよ」とよびたもう仏の声は、同時に 「
汝
(
なんじ
)
よ」とこの私をよびたもう大悲の
顕現
(
けんげん
)
であって、われらはその喚び声にあたためられて南無阿弥陀仏と み名を称える身に育てられるのです。
人間のかなしみに底なきが故に、仏のいのちは
無量寿
(
むりょうじゅ
)
であり、われらが苦悩や
罪業
(
ざいごう
)
のなかで
流転
(
るてん
)
する故にこそ、仏の
智慧
(
ちえ
)
は
無辺際
(
むへんざい
)
であります。』
【藤沢 量正 ご法話】
「御正忌報恩講」ご門主法話【ご親教】(本願寺新報 第3157号)には、
『この私を捨ててはおけないというお慈悲、「南無阿弥陀仏」が私の心に届くのが信心ですが、私の育てた心ではありませんから、 他力の信心です。』
とあります。
変わることのない拠り所とは、私の力ではないところにあったのでした。それは永遠に変わらない仏さまのこころであったのです。
その救いの働きは、仏さまのことなんか思っていない、この私に対して用事があったのでした。もったいないことです。
ナンマンダブ ナンマンダブ 合掌
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「仏さま」
いつでも どこでも
仏さまに
照らされている私でありました
いつでもどこでも
仏さまに
つつまれている私でありました
そのみ仏を「アミダ」という
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
トップページへ
朝事の案内
書庫を見る
このページはインラインフレームを使用しています。