平成26年1月
第27話
朝事*
住職の法話
「罪もさわりも」
ようこそお参り下さいました。共に、本年もお聴聞の一年でありたいものです。
ある法語に
『限りなき大空の智慧 限りなき大海の慈悲 われ安し 罪もさわりも あるがままにて』
という言葉がございました。
日々の生活を題材に教えを味わうと、だんだん自分の値打ちがなくなっていく気がします。
何ひとつ教えの通りに生活がいかない気がして恥ずかしくなります。
昔読んだ話に、たしか、ある年賀状に、
「正月くらい心静かに過ごしたいと思っていましたが、せっかくの正月も煩悩に乱れて しまいました。その時に、私の口から念仏が出ました。」
と書いてあった、というような意味の話だったように記憶しています。
確かに人間は理性だけで生きているわけではありません。
最近観たテレビ番組で、他宗派の僧侶の方でしたが、
「『空』ということがあります。般若の空とか、
色即是空
(
しきそくぜくう
)
とか、言います。
この空とは、自分にこだわらないという意味で、自分にとって損か得かということを考えない、 プライドを捨てるということです。
自分にとって損か得かを考えないで、自分にこだわらなければ、すべてのものが平等に見えてきますし、 恐れというものもなくなります。
自分の損得を考え、自分にこだわるところから、恐れや苦しみは起こってくるのです。
苦しみの原因は、自分にこだわるというところにあります。」
と説かれていました。
それを聞いたアナウンサーが一句、川柳を作られ、 「こだわりの
衣
(
ころも
)
を捨てて○○寺」 と言われていました。
人間は、知らず知らず、自分へのこだわりを強く持ち、その為に自ら苦しんでいるものなのだと教えられました。
しかし、知識がいくら豊富になっても、自分が味わい、自分の心に感じたものとならなければ、教えはあっても、 絵に描いた
餅
(
もち
)
にしか過ぎなくなります。
そこに、教えを聞くものの苦悩というものがあるのではないでしょうか。
全く、愚かで、つじつまの合わないことばかりやっていて、
矛盾
(
むじゅん
)
に満ちたことをやってしまうのが、凡人というものでは ないでしょうか。
ある方が言われた話に、「『み仏の鏡にうつる わが姿』という言葉の後ろに、何か句を
詠
(
よ
)
んでみろ。」と言われたそうです。
『み仏の鏡にうつる わが姿 恥ずかしい』という歌を作られた方もあったそうです。当然そうですよね。
私も同感です。悪をして平気ということは仏教徒としてはおかしいのでしょう。
そこに、当然、
懺悔
(
ざんげ
)
がなければならないでしょう。
しかし、問題提起は、これからで、その方が言われるのに、
「『み仏の鏡にうつる わが姿 恥ずかしい』、そこに、恥ずかしい、ということだけでいいのだろうか?
自分の姿を恥ずかしいというだけでなく、そこに、仏さまの救いの慈悲を感じて、恥ずかしいながらも、 仏さまの慈悲に抱かれ、たのもしい、というようなこころが出て来てもいいのだけどなあ。
あまりに自分の心だけにこだわり過ぎているのではないのか?」と指摘されました。
先程の
「正月くらい心静かに過ごしたいと思っていましたが、せっかくの正月も煩悩に乱れて しまいました。その時に、私の口から念仏が出ました。」
という話の最後に、「その時に、私の口から念仏がでました。」という言葉がありました。
この方の驚きみたいなものが、そこに出ていると感じます。
仏さまは、この愚かな私のこと、このどうしようもない煩悩の心の底まで念仏となって呼びかけていて下さる、と 感じられたのではないでしょうか?
ある方が、教えを自分の苦しみの中に味わわれて、
『落ちる 助かる 助かる 落ちる 法の
深信
(
じんしん
)
機の
深信
(
じんしん
)
、 二つのこころで一つのこころ、あらあら不思議有難い。』という意味の歌を作られ、よろこばれたそうです。
機の深信とは、「自分の姿を見せられる」ということでしょう。
法の深信とは、「仏さまの智慧と慈悲を仰ぐ」ということでしょう。
念仏の救いは、自分の姿を見せられ、恥ずかしいと懺悔するだけでなく、そこには、仏さまという大きなバックボーンが あると、仏さまのこころをたのもしく仰ぐ面もあることを忘れてはならないことだと教えられました。
『
毒草
(
どくそう
)
あるところに、 また、
薬草
(
やくそう
)
あり』という言葉があります。
また、『
無明
(
むみょう
)
があるところに仏の教えがある』という言葉もあります。
また、『
極悪最下
(
ごくあくさいげ
)
を救うために、
極善最上
(
ごくぜんさいじょう
)
の法をもってする』という言葉もございます。
よく偉いとか、賢いということをいいますが、一体、「偉い」ということはどういうことが偉いというのでしょうか?
『わしは偉いんだ。』と、高いところで威張っていることが偉いということでしょうか?
そうではなく、自分は高いところに居ながら、最も低い所で苦悩している者の為に、降りてきて、一体となれる方、 その苦しんでいる心の中にまで入り込め同感出来る方こそ偉い方といえるのではないでしょうか?
何年も前に、亡くなられたある作詞家作曲家は、ある歌手に、立派な歌手とはどんな歌手のことをいうのか?ということについて、こう言われたそうです。
「聞き手を励まし、聞き手を喜ばせ、聞き手と一緒に悲しむことができる歌手が立派な歌手なんだ。」
という意味のことを言われ、その歌手は、その先生の言葉を大切な教えとして、よりどころにされているそうです。
「私は凄い歌手だ偉いだろう。」という歌手が偉いのではなく、聞き手に苦しみ悲しんでいる人がいたら、その人と共に悲しむことが出来る 歌手が立派な歌手だと言われたのです。
その作詞家作曲家は、大衆の中に生きているのが歌だ。ちんどん屋が自分の作った歌を演奏しているのを見て嬉しかったそうです。
法の深信という言葉の中に、煩悩によって狂わされて、あっちによろよろ、こっちによろよろしている、この愚かな私のためにこそ、仏さまの救いの 働きはあったのだったと、味わわせて頂く次第です。
その人の心の底まで入り込んで下さる方が偉いのだと、この法はこの私を離れていないと言われているのです。
仏さまは無限の高さで、私は無限の低さでしょう。それが離れていないのだと教えられるのです。
高いところにおられながら、低い私を、常に、抱きとっておられる。その働きを 「
無碍光
(
むげこう
)
」と言います。 合掌
最後に 「小山乙 若丸さま」の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『掲示伝道集』小山乙 若丸 著 法蔵館より】
「掲示伝道」より
煩悩を離れて
悟りがあるのではない
煩悩そのものが
仏になる種となるのである
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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