平成25年12月
第26話
朝事*
住職の法話
「親鸞聖人の導き」
報恩講の季節になりました。親鸞さまのみ教えに導かれるご恩を深く思い、ますますみ教えを 聴聞していきたいものです。
昔、私は、御講師に質問しました。
「仏さまは、他力で救って下さるのなら、十把一絡げで、網ですくうように、 簡単に救って下さればいいのではないのか?
何故に、信心がどうだ、というような難しい話を聞かなければならないのか?」と問いました。
今思えば、ずいぶんと厚かましい、横着な問いかけです。その時、御講師は、
「いくら、このまま、あなたをお浄土に連れていっても、あなたの心が地獄ならば、 お浄土が地獄になっていくのですよ。 もし、あなたの心が餓鬼のままなら、いくらお浄土に連れていかれても、そこが餓鬼道の世界になってしまうのですよ。」 というような意味のことを言われました。
つまり、私は、自分の迷いというものに全く気付いていなかったのです。
自分が見えていないとは、まさしくこのことでした。
おまけに、私は、仏法を聞けば、苦しいこの娑婆を
遁
(
のが
)
れさせてもらって、楽が出来るのではないかと いう虫のいい、自分の都合のいいように、下心をもって、仏法を聞いていたような気がします。
自分の悪にも、間違いにも気づかず、肯定して、自分の欲を延長する心で、 娑婆を遁れる為に、仏法を聞いておっても、教えの真意がわかるはずがありませんでした。
そういう、自分の欲を延長する心で死後の安心を願っていたのでした。
信心というものが、苦しみを逃げて、楽に向かう道であるはずがありません。
信心は生きる力の根本です。この信心のないところに生きていく道徳はありません。
しかし、日々、自分の心の中には、煩悩が止むことはありません。
そういう私に、先手の仏さまの救いの働きが不断に働いています。
『正信偈【しょうしんげ】』の中に、
「
不断煩悩得涅槃
(
ふだんぼんのうとくねはん
)
」
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」というお言葉がございます。勿体ないことです。
驚くべきお言葉ですが、それこそ自分の都合のいいように解釈したら大変なことですね。
実際、毎日毎日煩悩がふえてゆけば、一日一日地獄に近づいてゆくのです。
ある先徳のお言葉に『山に近うなれば松風の音が聞こえるし、海に近うなれば波の音が聞こえるし、地獄に近うなれば地獄の 音が聞こえる。
極楽に近うなれば極楽の音が聞こえます。
信心のない者には地獄が現れてきます。だから自ら驚き立てなければならぬ。』というのがございます。
実際に、仏法は、生死をかけた真剣勝負の世界だったのでした。
ある先徳は、
『親鸞聖人が「
歎異抄
(
たんにしょう
)
」に、
「善人なおもて往生を
遂
(
と
)
ぐ、 いわんや悪人をや」と申されたのは、善人さえ往生するのだから、悪人はなおさら往生する、悪人は 仏さんの目当てであると申されるのである。
法然上人は「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」と申された。
親鸞聖人は「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と申された。
これを反対のように思うておる人もあるが、そうではなくて、一つのことを両面からいわれたのである。
私は若いときには、このことがわからないで、法然上人より親鸞聖人がすすんでおるのだと思うていた。
しかし、よく味おうてみると両方ともほんとうなのである。
法然上人の「悪人なお往生す、いわんや善人をや」と申さるるのは、悪人さえも往生のするから、 善人が往生することはもちろんであると申されるものである。
これは法然上人の時代に、 「
悪人正機
(
あくにんしょうき
)
」ということを誤解して、 何をしても助けられると思うて悪いことをして平気でおった人があったので、こうしたお言葉の必要があったのである。
ところが、自分の
善根功徳
(
ぜんごんくどく
)
を因にして仏になる という計らいの心を持つ人が出てきたので、親鸞聖人は「
悪人正機
(
あくにんしょうき
)
」というて 「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と申されたのである。
このお言葉にまた拘泥すると、悪いことをさえすれば助かるということになる。
しかし、悪いことということにほんとうに目覚める者は悪いことができなくなるのです。
悪人と気づいた者は、もはや悪人じゃない。ほんとうの悪人は自ら善人と思うております。
自ら善人と思うておる者は悪人なのです。
自ら悪人と気づいたのが善人なのです。
悪人が助かるというのは、悪人と気のついたものが助かるということになります。
その悪人と気のついた人は善人なのです。
だから善人が助かるということにもなります。
これが「
悪人正機
(
あくにんしょうき
)
」ということです。
悪人と気のつかんで、善人と思うておる者がほんとうの悪人で、その無自覚の悪人こそ、 それこそ往生の手掛かりはないのです。
けれども
廻心
(
えしん
)
懺悔をすれば、どんな者でも助かります。
だから「念仏者は
無碍
(
むげ
)
の一道なり、そのいわれいかんとならば、 信心の行者には、
天神地祇
(
てんじんちぎ
)
も
敬伏
(
きょうぶく
)
し、
魔界外道
(
まかいげどう
)
も
障碍
(
しょうげ
)
することなし、
罪悪
(
ざいあく
)
も
業報
(
ごうほう
)
も感ずることあたわず、 諸善もおよぶことなきゆえに」と『
歎異抄
(
たんにしょう
)
』に 記してあります。
「
罪悪
(
ざいあく
)
も
業報
(
ごうほう
)
も感ずることあたわず、諸善も およぶことなし」ということは
善根
(
ぜんごん
)
と
罪悪
(
ざいあく
)
が往生のためにもならず 障りにもならずということである。
善悪の二業を離れるということは、凡夫の計らいが間に合わぬということです。
善も役にたたず、悪も障りにならず、信心がただ一つ光るのです。
仏は苦しみのある者を救いたまうというのは、次のような心持ちであるのである。
仏の慈悲は苦しみある者をば、ことごとく救う。
罪ある者はなおかわい。苦しんでおる者はなおかわい。
苦しんでおる者には仏心が
兆
(
きざ
)
しておるのである。
苦しまぬ者には仏心が
兆
(
きざ
)
しておらぬのである。
苦しむ、たとえば、子供が死んで苦しむということは、永遠の命に対する望みが 激しいからして、それが砕かれることの苦しみが激しい。
だからそこに晴れてゆく道がある。
それが肉体の天地を超えて行く道なのだ。
だから、子供を失うことによって、信心の世界に入ることができるのである。
無常の子供を失うて、永遠の信心を得るようになるのである。』
と、言われておられます。
【『名法話講話選集 第一巻 本願一』
同朋社 より 抜粋】
今、私の傲慢な質問に答えて下さった御講師の
『懺悔なきこころに、仏は宿りたまわぬ』という、 言葉が、しみじみとよみがえる次第です。
人間は誰れしも、自分の姿は見えないもの、わからないもの、気づかないもの。
私たちには、仏さまの智慧と慈悲に導かれて、親鸞聖人に導かれてゆく道が、恵まれてある。
ただ、教えを仰ぎ、正しい道を聞きわけて、まことの道を歩んでまいりたいものです。
決して、自分の欲の延長線上で、仏法は聴聞するものではないし、そういう姿勢では、 仏さまのこころに出遇えるはずもございませんですね。 合掌
最後に 「岩本 月州」さまの言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『一粒抄』より】
「一粒抄」
人を締め出すこともだが
締め込むのもどうかと思う。
門は開いて出入りを自由に
しておくべきで、寛容とは
このことであろう。
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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