平成25年11月
第25話
朝事*
住職の法話
「救いの証拠」
親鸞聖人は 「心を
弘誓
(
ぐぜい
)
の
仏地
(
ぶっち
)
に
樹
(
た
)
て、 念を
難思
(
なんじ
)
の
法海
(
ほうかい
)
に流す」 と
仰
(
おお
)
せられています。
「心を仏さまの大地に樹立する」とは、なんと雄大なお言葉でしょうか? 仏さまの真実心が凡夫のこころに徹すると自然と、仏さまの大地に心が流れていく ということでしょうか。
凡夫ながらも、広い世界に心を遊ばせることが出来る、本当に不思議な世界でありますね。
また、親鸞聖人の言葉に 「
信楽
(
しんぎょう
)
を
願力
(
がんりき
)
に
彰
(
あらわ
)
し、
妙果
(
みょうか
)
を
安養
(
あんにょう
)
に
顕
(
あら
)
はさん」とございます。
信心を
何処
(
いずこ
)
にあらわさんとするか!?
自分の心の中にか?親鸞聖人は、
如来
(
にょらい
)
の
願力
(
がんりき
)
のうちに見出された。
わが信心、わが
往生
(
おうじょう
)
を、 仏さまの
大悲
(
だいひ
)
の
願力
(
がんりき
)
のうちに見出された。
願力
(
がんりき
)
とは
本願力
(
ほんがんりき
)
の
名号法
(
みょうごうほう
)
のことです。
本願
(
ほんがん
)
とは、「以前からの願い」という意。
菩薩
(
ぼさつ
)
が
因位
(
いんに
)
のときにおこした
衆生救済
(
しゅじょうきゅうさい
)
の誓いをいう。
衆生救済
(
しゅじょうきゅうさい
)
のためのまさしく根本となる願。 アミダ仏の四十八願中、とくに第十八願を本願と称する。
本願力
(
ほんがんりき
)
とは、
因位
(
いんに
)
の
本願
(
ほんがん
)
にかなって成就された
衆生救済
(
しゅじょうきゅうさい
)
のはたらき。
名号
(
みょうごう
)
とは、浄土真宗では、 阿弥陀仏の名を指していう。南無阿弥陀仏を六字の名号といい、その徳義をあらわした 「
南無不可思議光仏
(
なもふかしぎこうぶつ
)
」を 八字の名号、
「
帰命尽十方無碍光如来
(
きみょうじんじっぽうむげこうにょらい
)
」を 十字の名号という。
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
は 「
帰命尽十方無碍光如来
(
きみょうじんじっぽうむげこうにょらい
)
」には、
衆生
(
しゅじょう
)
の
無明
(
むみょう
)
を破し、
往生成仏
(
おうじょうじょうぶつ
)
の 志願を満たす徳があるといい、
善導大師
(
ぜんどうだいし
)
は、 南無阿弥陀仏には、願と行とが
具足
(
ぐそく
)
しているから、よく
往生
(
おうじょう
)
の行となるといい、 法然上人は、
名号
(
みょうごう
)
には、阿弥陀仏のもつ無量の 徳がそなわっているといわれる。
親鸞聖人は仏の
衆生救済
(
しゅじょうきゅうさい
)
の願いが、
名号
(
みょうごう
)
となってあらわれているのであり、
摂取
(
せっしゅ
)
して捨てないという
仏意
(
ぶつい
)
をあらわす、
本願招喚
(
ほんがんしょうかん
)
の
勅命
(
ちょくめい
)
であるといわれた。
難しい言葉が並びましたが、それだけ、仏さまの世界というものは、はかり知れない、深い広い世界なのでしょう。
そのお心は、『この私をどうしても助けたい、という願いが、 南無阿弥陀仏の名号となって、常に、いつでも、どこでも、この私に呼びかけている。』 と味わうことができるでしょう。
仏さまの世界は凡夫には、とてもわからない、深い広い世界ですが、何処から来て何処へ往くのか全くわからない、 迷いの真っただ中にいる、この私の道しるべとして、常に、南無阿弥陀仏という呼び声となって、 いつでも、どこでも、誰れにでも、呼びかけて下さっているのでした。
この愚かで、罪深い私の救いの証拠が、南無阿弥陀仏の中に成就されていることに深い感動を覚えざるを得ません。
この仏さまの光に照らされると、自分のこころの醜さ、恐ろしさが見えてきます。
しかし、こういう恐ろしい心を持っている私のために、「かかるいたずらものを」救おうと、かかりはてて下さった。
「ご本願なればこそ、阿弥陀さまなればこそ、親さまなればこそ」「かかるいたずらものを如来さまなればこそ、 ようこそ、そのまま救うと呼び続けて下さいますことよ、もったいないことです。」
仏さまに常に呼ばれている日暮は、いつでも、どこでも如来さまと一緒の心にぎやかな、仏さまをたのもしく仰ぐ 日々です。
親鸞聖人の 「心を
弘誓
(
ぐぜい
)
の
仏地
(
ぶっち
)
に
樹
(
た
)
て、 念を
難思
(
なんじ
)
の
法海
(
ほうかい
)
に流す」
「
信楽
(
しんぎょう
)
を
願力
(
がんりき
)
に
彰
(
あらわ
)
し、
妙果
(
みょうか
)
を
安養
(
あんにょう
)
に
顕
(
あら
)
はさん」 というお言葉を噛みしめ噛みしめ歩ませていただきたいと 念じています。 合掌
最後に 「浅田 正作」さんの言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『一本道』1989.7.15より】
「五濁悪世」
ものがあふれ情報が氾濫し
そのなかにおぼれ
押し流されながら
救いを求めるひとの
なんと稀有なことか
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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