平成25年10月 第24話

朝事*住職の法話

「凡夫の救い」

先日、踏切の中にいる人を助けて、自分は亡くなられたという事件がございました。その無我の態度に心打たれるものがあります。

人間は色々な善い行為をしますが、あるお経に、「一番善い行為は、何も考えないで無心でする行為が一番善い行為である。」 と、説かれているそうです。

たとえば「困っている人がいたら何も考えずにただ助ける。」という行為が一番善い行為ということになるのでしょう。

考えてみると、日々の生活では、無心な行為は中々出来ないことが多いような気がします。

仏様のことを「無碍むげ光」と言います。 「なにものにもさえぎられることのない光」という意味です。
凡夫ぼんぶである私は、 「有碍うげ」で、「ひっかかり、ばっかり」、
さわりだらけ」、ということになるのでしょうか?

何か善いこと一つするにしても、無心ですればいいのですが、計算が入っていたり、見返りを要求するようなところが あったり、善いことをしているのか、他人に負担をかけているのか迷惑をかけているのか分からないようなところがあります。

吉兵衛という信者の言葉に、「人というものは、まことのないものヤ、 人の世話をして、おんを思わそうと思うている。これは あてが違うワヤ。ならぬ時はセンド(長らく)人の世話になっておいて、 後は不足がれいじゃデ」という言葉があります。

又、「弥陀みだ本願ほんがんは、このようなあさましい、 つみの深いもの 御目おめあてヤ。それに違いないが、この つみの深い あさましいものを 御目おめあてやと、こちらから 持ちつけたり、このようなつみの深いものあればこそと、 引っ張り込むのヤない。自分の悪いことやら、あさましいことが見えると恥ずかしいよりあるまい。」と言われています。

全く、凡夫ぼんぶの心の微細な動きを、実に鋭く見抜き指摘しています。

ここまで、指摘され、突き詰められると、私という人間は、全く「有碍うげ」そのもの以外のなにものでもない、 と気づかされるばかりであります。

阿弥陀さまの「無碍光」は、「有碍のさわり」を離れてあるのではなく、「有碍のたどん玉」に「無碍光」の火をつけて、 凡夫の「有碍のたどん玉」に「無碍光」の火をつけて、「無碍光」の火にせずにはおかないと、働いていて下さるのでした。

如来にょらいを離れた私なし、私を離れた 如来にょらいなし、 摂取光中せっしゅこうちゅう 弥陀みだのふところ」

という法語を深く味わいたいものです。
 
「如来さんは、どう思っておられるかなあ。」という一言で大いなる示唆を受けたと味わわれた僧侶もおられました。
 
又、『「如来様は生きてござるか、死んでござるか問うてみるがよい。生きてござったら、本願も生きてござる。」
 
「心配するな」の「よびごえ」も生きてござる。「如来様は生きてござる。」という此の一事のうちに、私の生死の問題は解決する。

「心配するな」の「よびごえ」が、私にせまって来る。本願力は消しても消しても消されない。底の底からむくむくと湧いてくる。』と 味わわれた先徳もおられます。   

私は、いたずらに、自分の、「有碍のさわりだらけの心」 ばかりに囚われ、 如来様の光を見失っているのかも知れません。     

『弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり』(「正像末和讃」親鸞聖人)

最後に 「信者 吉兵衛」さんの言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『和泉の吉兵衛』藤並 天香著 百華苑より】 
                             
「信者 吉兵衛さんの言葉(一)」
つよい時ばかり
よろこぶのなら、
誰れでも
よろこぶ。
ホンマの仏法は
どのような難儀に
会うても、
その難儀の底に
横たわってある
仏法ヤ。
いかほどつらいと
申しても、
尻すえて居られず、
一日一日
片ずいていくノヤ。
気色のよい話ヤ。
油断だらけのものに、
ご油断のない法が
あらわれて、
育てて下さるから、
油断ということが
ないノヤ。
私はもっと迷いたいのに
迷われぬ目にあう。
ほんとうに
死ぬことが知れたら、
毎日勇んで
日を送れるノヤ。
金というものは
結構なものヤ。
そんな結構な金を、わが身の
責め道具にする人もある。
生きているつもりで、

生き生き、
死んでいるノヤ。


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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