平成25年8月
第22話
朝事*
住職の法話
「自己をみつめる」
ある女性プロゴルファーが、インタビューで、「自己をみつめていきたい」と求道者のような言い方をされていたのが印象に残りました。
厳しいプロゴルフの世界で、自己をみつめ、整え、孤独な闘いをしている姿が想像されます。
ブッダの言葉に、「修行者たちよ、それゆえに、自らの心をしばしば観察しなければならない。
この心は、長いあいだに、貪【とん・貪り】・瞋【じん・怒り】・痴【ち・愚か】に汚染されている、と。
修行者たちよ、心が汚染されることによって、諸衆生は汚染され、心が清められることによって、 諸衆生は清められる。」【『相応部経典』】
「ものごとは意【こころ】に支配され、意【こころ】を主とし、意【こころ】より成り立っている。
人がもし汚れた意【こころ】をもって語り、あるいは行うならば、あたかも車を引く牛馬の足に車輪が従うように、 かれには苦が従う。
ものごとは意【こころ】に支配され、意【こころ】を主とし、意【こころ】より成り立っている。
人がもし清い意【こころ】をもって語り、あるいは行うならば、あたかも影が【形に従って】離れないように、 かれには楽が従う」【『法句経』「対句」】
人間の心の染と浄、迷いとさとりの区別は、その人の心が汚れているか清いかということによるということです。
その心の染と浄を決定するのは、無始よりの煩悩と、その煩悩によっておこる「われ」「わがもの」という 邪見に対して、その人が自覚したかどうかということです。
人は自分の心を観察して、あらゆるものごとについて、「われ」【我】とか「わがもの」【我所】という執着を 断ち切ることによって、はじめて心は清浄となるというのです。
心の本性ということについて仏教では、「心そのものは本来的に汚染【おせん】・迷妄【めいもう】をはなれたもの である」と説いています。
私たちの心自体は、もともと何の汚れもない明浄なものなのですが、本来的ではない
煩悩
(
ぼんのう
)
によって、心の汚染が生じている、というのです。
しかし、現実には、
煩悩
(
ぼんのう
)
が私たちの中で強くさかんに 活動していることは事実であり、理屈をいくら聞いても、
煩悩
(
ぼんのう
)
の 支配から脱することはできません。
そこで、「心を実修すること」が大事になってきます。
自分自身の心をありのままに観察し、自分自身で心を清めていくこと、それが「心の実修」とよばれるのです。
ブッダの言葉に「心というものは軽はずみなもので、本当にとめどないものである。ただわが思いにしたがって勝手気ままに ふるまうだけのものである。
そんな心をよくとりおさえるのはよほどのことで、まことにめでたい。自分でわが心がおさめられるようであれば、 其の人の日暮は平安である。」【『法句経』】とあります。
「
意馬心猿
(
いばしんえん
)
」という言葉のように、
煩悩
(
ぼんのう
)
や情欲で私たちの心が七転八倒する有様を、 馬があばれたり、猿が飛び回ることにたとえたものです。たとえ以上の事実であり、まことに情けないことであります。
それほど私たちの心は整え難いものでありますが、それだけ心の整った人はには平安がいつもあるのでしょう。
ブッダの言葉に「心というものはかすかな働きをするもので、外部からは中々見にくい。
そしてわがほしいままな思いにしたがって行動する。
しかるに智慧ある人はいつも自分でその心をまもっている。
そのようにわが心がわれとまもれる人には生活が平安である。」【『法句経』】とあります。
まことに見つけにくい、まことに知らぬままに働くわが心は、絶えず油断せず見張る必要があります。
智者は、護り難い心を、それと十分に知りながら、二六時中見守りますから、間違いがないといわれます。
私たちの心の正しい保ち方がいかに難しいかということと、又、いたずらに他人の心を問題にしているあいだは 本当の仏道ではないということなのでしょう。
いつも他人のことばかり問題にして、肝心の自分自身が抜けているとは、まことに恥しいことです。
油断してはならないのは、私たちの心の動きでありました。そして心の乱れは正法【仏さまの教え】を見失うところから生じます。
それゆえ、たえず、正しい教えを見つづけておりますならば、大きな心の拠り所となりましょう。
桐谷和上は
『私は以前から、さかんに念仏とは今は称名【しょうみょう】のことだと言われていますが、もとは 「仏を念ずる」という意味であり、その阿弥陀如来は寿命無量であり、光明無量であるから、いつでも、どこにでも 活動してくださる方であり、いつでも私と一緒にいてくださるのであります。
念仏者はいつも如来と一緒にいるのだから、浄土往生には、何の不安もなく安心なのだが、如来はダマッテは いなさるが、「見てござる、聞いてござる、知ってござる」のであると申して来たのであります。
どんな時でも親鸞さまは一緒にいて下さるのであります。
そのことにきづかせて戴き、そうした人生観をもっている人こそ念仏者といわれる人でありましょう。
こうしたことも、念仏者は毎日やらなければならないことだが、人間というものは「なれると手ですることを足で するようになり」易いものですから、せめて朝夕お仏壇にお参りするときに如来はいつも一緒にいて下さるのだと、心を 新たに念仏生活をすべきでありましょう』
と言われています。
ある信者は「阿弥陀さまの光明は、よう光ってござる。」と味わわれました。
自分から離れた遠くの方に光っているという意味ではありません。煩悩を煩悩と気づく私ではないのに、仏さまの光が 私の煩悩の心の隅々まで行き渡り、光ってござるので、「仏さまの光明はよう光ってござる。」と味わわれたのです。
自分の煩悩の心、「自分はいたらない、欠点だらけの凡夫だなあ。」と知らされるのも仏さまのお照らしのおかげという意味です。
ついつい油断して、おろそかにしがちな、わが心身の整えを、阿弥陀さまのお照らしの中で、慎まして頂きたいものです。
こういう愚かな私を、仏さまの力で、仏さまの救いの働きを信じる身に育てて下さる。
阿弥陀様のお働きのおかげと感謝申し上げます。
【『釈迦の言葉』 菅沼晃 著 雄山閣。『法句経に聞く』橋本芳契 著 教育新潮社 から、学ばせて頂き、引用させて頂きました。 有難うございました。 合掌】
最後に 中井善作さまの句集「西近江」から、一部、紹介させて頂きます。 【『本願寺新報』2000年4月20日】
「西近江」
生き死には
現世のさだめ
春浅し
露の世に
置きし吾が身を
振り返る
夕蝉の
今日の命を
鳴きしぼる
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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