平成25年6月
朝事*
住職の法話
「聴聞」
ある先生は「教えという鏡に照らされ、仏さまの言葉に出遇うということがないと、一番近くに存在する我が 見えてこない。この身を知らされ、この身をいただいていく世界を忘れていく人生というのは、一番貧しく、空しい人生ではないか。」 と私どもに呼びかけて下さっています。
又、『「親鸞聖人のお言葉の中に無眼人、無耳人という言葉があります。眼無き人、耳無き人、これは私たちのことをいっておられるのですけれど、 親鸞聖人は私たちに向かって、皆さんは眼の無い人、耳の無い人だぞと言っておられるのではないのです。親鸞聖人が言葉となった 真実の教えに出遇うてはじめて、この身が照らされたときはじめて、親鸞聖人はそこに自分の眼は何でもよく見える眼だと思っていた、 自分の耳は何よりも確かなことを聞いている耳だと思っていたけれども、真実の教えをこの身に蒙ってみたときに、実はこの人間の眼は、 肝心のことは何ひとつ聞けなかった耳であったという、その驚きというものを親鸞聖人は、「無眼人、無耳人」と、こうおっしゃっているのだと 思います。
私たちはこういう仏法を聞くというご縁がなければ、人間の眼で見たものが一番間違いのないものであり、人間の耳で聞いたものが 一番確かなものだと疑いもなく信じていくわけです。しかし、この人間の眼や耳からは本当に一番肝心のもの、一番大事なものは見ることも 聞くこともできないのです。』とも言われています。
また、聴聞ということについて、 『「聴聞」という字は、「聴」という字も、「聞」という字も、どちらも「きく」と読みます。ところが、やはり経典、お経、お経では、 同じ「きく」でありますが、ちゃんと使い分けがしてございます。
意味が違うんだということを教えられるわけです。そのことはとても大切なことではないかと思います。今ここに、皆さんが足を 運んで座っておられる。もちろん、これが聴聞ということでありますが、これは伝統的な解釈でありましょう。
ある本からいただいた言葉でありますけれども、「聴」というのは、「耳、声を待つを聴という」と。この二つの耳が仏さまの声を 待っている。声というのは仏さまの声です。教えということのもっとも具体的な働きは声なんですね、声となって呼びかけてくる。 声となって聞こえてくる。それが教えというもののもっとも具体的なはたらき、形であろうかと思います。・・・・・・・・・
それに対して聴聞の「聞」ということでありますけれども、お経のはじめは、みなさん御存知のように「如是我聞」という言葉で 始まっております。・・・・・・・・・「如是我聞」と言えば、「私はこのように聞きました」ということです。 つまり、「聞」が成就したと言いますか、本願が成就した、これから聴くというのではなくて、「聞」が成就したところからお経は 始まっているわけであります。・・・・・
仏法とか、信心という世界は、「おっしゃるとおりだなあ」という世界が、親鸞聖人や蓮如上人の仰せをとおしていただかれた世界であり、 それがそのまま信成就の世界であろうかと思います。
「おっしゃるとおり」ということは、自分にうなずけた世界でありますけれども、自分の知恵がうなずいたわけじゃないんですね。 「おっしゃるとおり」というときは、真実の教えの回向によって、教えられれば教えられるとおりの自分だなあと、全身がうなずくわけです。 それを「聞」という。
さきほどの言葉に対比して言えば、「聞」ということは、「声、耳に入るを聞という」という言葉で教えられております。 仏さまの声が、親鸞さまのこえが耳に入ってくると言うんですね。つまり、入ってくるということはどういうことかというと、 こちらの力じゃないんです。
自分の力じゃなくて、向こうから入ってくる。これを私たちがよく使う言葉でいえば、向こうから聞こえてくる。聞こえてくる というのは、私の知恵や私の賢さで仏法というのは聞くものでは絶対にないということですね。
だから、仏法を聞くのには頭をはたらかす必要はまったくない。わかるとか、理解するとか、おぼえるとか、そういうことは仏法 ではない。そういう、わかる、わからないとか、おぼえる、おぼえられないという世界を越えて、真実の教えといいますか、 如来のまことといいますか、それはこちらのちっぽけなはからいを破って、向こうから聞こえてくる。
もっと強い言葉で言えば、「超貫」、「超える」という字と「貫く」という字を書きます。こういう言葉があるかどうか 知りませんけれども、「超えて貫く」、人間の自我やはからいを越えて、この我が身を貫いて聞こえてくる。それが真実の教え というものの具体性、はたらきではないでしょうか。だから仏法を聞く時に、我が身をあてにするといいますか、こちらを 問題にしなくていいんです。ここを問題にしようがしまいが、真実の教えは向こうから響いてくる、聞こえてくる。 それが「聞」という世界だと思います。そして、その「聞」という世界が、そのまま信心、聞こえたままが信心ですね。』 と、長い引用になりましたが、このように、示して下さっておられます。
確かに、人間とは、「自分の眼で見たから間違いない、自分の耳で聞いたから確かである。」と、自分自身は絶対的に正しい、 間違っていない、という立場に立っているのかも知れません。自分自身というものを証明しようと努力しているのかも知れません。
しかし、それでは、真実は聞こえてこない、ということが、ここで教えられていると思います。自分は正しい、絶対に間違っていない、 という立場そのものを、根本的に壊して下さるはたらきというものが、如来さまのはたらきというものでしょう。
自分で、願ったこともない、たのんだおぼえもない、それなのに、如来さまは、私に対して、「かならず救う」と絶間なく、 よび続けていて下さるのでした。
仏法を聴聞すると、色々なもの・色々な事象を通して、私に呼びかけている働きを感じることが出来る ようになるのではないでしょうか。
たとえば、草が枯れているのを見ても、「ああ、草が枯れている」と、向こうに眺めるのではなく、「私も、人間も、あの草と 同じように枯れるもんだなあ」と味わう。この私も、実に、あの草と同じだなあということは、草からの呼びかけを聞いていることになりましょう。
草からの、草を通して、ご回向の世界をいだいてる。そういう事実を「聞く」ということでしょう。私に、そう教えて下さった先生がいました。
人間の知恵は、私が向こうを知る知恵、わかっているとか、知っているとか、おぼえるというのが知識、知恵。それに対して、 仏さまの智慧は、向こうから光となって、教えの鏡となって照らして下さる、これが、さきほど味わった、「ご回向の世界」ですね。
私たちが、仏法を聴聞する中で、日常生活のどこからでも、どんな事象からも、自分に呼びかけられている何かを感じ、 教えられていく世界を頂く、聴聞し、仏さまの世界に親しむ中で、そういう心にぎやかな世界をめぐまれる、常に仏さまのまなざしを 感じ、常に、仏さまに導かれている自己を感じていくことが、仏法を聴聞する中から恵まれていくのではないでしょうか。
仏法は、常に、私に向かって働いています。それを私はすぐに忘れて、「あの人は教えを聞かない、なんとかしなければ」と 思ったりして、すぐに、自分がお留守になってしまいがちになります。親鸞聖人も「親鸞一人がためなりけり」と自己一人の上にみ教えを 受けとめ、報恩感謝の念仏生活を送られました。
他人が、仏法を聞かないではない、私自身が、「私抜きの聴聞」をしているのではないかと、反省させられる日々です。 合掌
【『聞くことの大切さ』松本梶丸 著 から、色々と、学ばせて頂き、引用させて頂きました。有難うございました。】
最後に 宮崎丈二さんの言葉を紹介させて頂きます。
「
宮崎 丈二
」
一度ほんとうだと 感じたことは消えない
きっと自分のうちの どこかで生きている
見えないところで自分を 生かしている
感じることが根本だ
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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