朝事・住職の法話
平成23年12月 「愚痴が感謝に変わる智慧」
今年も終わりに近づいています。人生も日々終わりに近づいています。一瞬一瞬死へ向かっているわけです。
昔読んだ詩に病気になった詩人が『君たちは あの死への足音が聞こえないのか』という詩を書いていたのを思い出します。
「当来」ということは「未来」とは違うということを聞きました。「未来」とは、「未だ来たらず」という意味だが、「当来」とは、「まさに来る」という意味である。「確実に自己にやってくる」という意味です。
「もし後三日で地震が来たらどうですか、安閑としておれますか。」これは、まさに我が身に迫ってくる言い方だと感じます。
最近はエンディングノートというものが流行っているのだそうです。自分がどのように老い病み、死んでいくのかということを、自分なりに考え計画していくことらしいのですが、自分の計画通りにいけば苦労はありませんよね。
しかし、自分がどのように老い病み死んでいくのか、そういうことを考えることはとても意味のあることであると言われています。
私は「忙しくてそんなこと考える暇なんかない。」と言うと、先輩から、「そんなことはない、あなただって一瞬一瞬死に向かっているのだ。つまり『エンディング』という言葉は、『ING』というのは進行形だろう。つまり誰れだって、若くとも年取っていようとも、誰れでも死に向かいつつある進行形であると自覚するところからエンディングノートというものを書く意味があるのだ。」と言われました。
知らず知らず、無常を他人事にして済ませている自分に気づかされた先輩の言葉でした。
仏教では
「諸行無常」
といいますが、全ては、一瞬たりとも同じではない。全てのものは変化している、だから執着すべきものはない、自我というものは本当はないと、教えているのでしょう。執着が自分を苦しめるのだと教えているのでしょう。
病気と言えば、ある奥さんから聞いた話ですが、その奥さんの友達の主人は腎臓が悪くて、奥さんが看病をしていたそうです。そんな時に、看病していた奥さんが病気になり、医師から、「手術をしなければ余命一年です。」と宣告されたそうです。
医師から「一時間あげるからどうするか考えなさい。」と言われ、息子と相談した奥さんは、「主人をきちんと見送ってから死にたい、その為には手術を受けたい。」と決断されました。
奥さんが手術する為に、病気の主人は、一時的にでも施設に入りました。奥さんは無事に手術を終えて、一人自宅療養しているのですが、まだ主人の看病するのは無理です。月に一度主人が施設から自宅に帰り、奥さんと共に過ごすのだそうです。そして次の日には、再び、施設に帰らなければならない、施設から迎えの車が来るのだそうです。
その時に、『主人は「自分はどこに帰るのか。」と少し痴呆みたいなことを言った。』と、奥さんは泣きながら、友達に電話されたそうです。
しかし、その奥さんの素晴らしいところは、主人も自分も病気で苦悩の真っ直中にいるのにも拘わらず、「息子や嫁がみんな自分に良くしてくれる。自分は幸せ者だ。」と感謝の言葉を電話で言われたところです。
「感謝は免疫力を高めるので、きっとその奥さんの病気は治っていくでしょう。」と私にこの話を話して下さった方は、しみじみ言われていました。
ある医師も、「治らないような難しい病気の患者でも、よく笑う人は長生きする。」とテレビで言われていました。
しかし、人生の苦悩が自分を襲ってきた時に、急に感謝の日暮らしをしようと思っても、なかなかうまくいかないのではないでしょうか。日頃の積み重ねが大切ではないでしょうか。日々の生活の中で感謝することが出来ていなければ、いざとなっても、なかなか感謝出来ないような気がします。
昔の法話で聞いた法語に、
『貰うた 貰うた 何貰うた 南無阿弥陀仏の宝 貰うた グチが感謝に変わる知恵』
という言葉があります。
「日頃」の積み重ね、「普段」というか、
「平生」
をこそ大切にしていきたいものです。
愚痴が感謝に変わる智慧と言いましたが、最近は愚痴どころか、すぐキレる人が多くなりました。おかしな事件が多くおこります。
先般もプラットホームで駅員が、ホームに駆け付けた人に向かって、「最終列車はもう出ましたよ。」と言うと、怒った客が駅員を殴った、ということがあったそうです。
感謝の日暮しどころか、現代はすぐ切れる人が多くなっているそうです。
ある方の説明では、『職場でも家庭でもバカにされて威張れない人間が、唯一威張れるところは客として扱われるところなのだそうです。そこでバカにされたような態度をされると、私はここでもバカにされるのかと、切れてしまう。』と言うのです。何か考えさせられる話です。
人間はどこかで自己実現したいと願うものなのだと思いますが、こういう自己実現の仕方は、どこか、自分の心を見るようなところもあり、何か虚しく悲しい気持ちにさせられます。
ある方は『「終わりなき成長」をとげる人生こそ人間としての真の生き方と思うのです。そんな生き方で人生を終え、命終わって後は仏として永遠の命をいただいてこの世での活動をし続けていく利益を恵まれたい、と思うのです。それこそ命花咲く人生でありましょう。
「昔は良かった。」と過去の自慢話や、グチ話は、他人は一応はうなずいても、内心は共感していないはずです。今現在の生き方が評価されるのです。今の後ろ姿を見て、後輩たちは人生の先輩に頭を下げ素直に学んでくれるのです。
しわが増え、腰が曲がってきても、なお成長し続けている生き方をしてこそ、人から評価され一目おかれる人生となるのです。』というような意味のことを言われています。
心は死ぬまで成長し続けるそうです。
『法句経』に、
「聞くこと少なき人は その肉は肥ゆれども その智慧は増すことなからん」
と説かれています。
何か耳に痛い言葉ですが、お釈迦さまは、聞くことの大切さを説いておられます。
我々は共に、仏様の教えを、お聴聞をさせて頂く中に、自己を見つめる智慧の目を頂き感謝とザンギのお念仏生活を送らせて頂けることを大切にさせて頂きたいものです。
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩
のままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
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