平成25年4月
朝事*
住職の法話
「仏様には他人がない」
ようこそお参り下さいました。
「仏さまには 他人がない」という法語をお聞きしました。この言葉を聞いたある
同行
どうぎょう
は、 「この言葉を聞いてから、色々と
御聖教
おしょうぎょう
(仏さまの教えが書かれている本)を読んでも、どんなところを読んでも 、全て《仏さまには 他人がない》というように説かれていると感じて、全て今までと違うように、目が覚たようになった。」 と言われたそうです。
たった一言の
仏語
ぶつご
でも、
法語
ほうご
でも、聞く人によって、 浅く聞く人もあれば、深く聞く人もあるということを考えさせられますね。
「仏さまには 他人がない」とは、仏様は自我というものを持たれない。ということは、全てが自己だということです。
だから、「可哀相だから、助けてやらなければいけない、、。」というような、よそよそしい慈悲ではなく、 仏さま自身も知らないうちに、我々凡夫を、無意識的に、助けずにおれない、という
無我心
むがしん
なのです。
仏様は、凡夫の私の救われることに、命を懸けて下さっているのです。人間は自分に命を懸けますが、他人の為に命を懸ける ことはありません。親子の情に少し慈悲らしいものがあるのかも知れませんが、他人の子供までには中々及びません。
人間には持っていない慈悲心ですから、何年、仏さまの教えを聴聞しても、わかったような、分からないような感じになる のでしょう。
悲しいかな、人間には限界がありますね。掛け値のない自分の値打ちを知らなければならないのでしょう。
人間のこころは、自分が本当に凡夫であるとわかれば、かえって安心するものかも知れません。
「仏様は いつも 私と一緒である」と言われます。「いつも 私のそばにおられる」という意味もありましょう。
実際には、「私の人生苦の中に、入り込んで、私の苦悩と同居して下さる」ということです。勿体ないことです。
そのような仏さまの、無我心の自他一体の心は、人間には持ち合わせていませんから、なかなか分かりません。
それでは、所詮、凡夫には仏さまのこころはわからないままなのでしょうか?親鸞さまのご教導がそこにございます。
仏さまの世界は分からなくても、高僧方が仏様の世界を説かれたものを信じることはできます。その信ずる心は、仏さまから恵まれたものでしょう。
「仏法を聞く耳」も、仏法を聞いて、聞いて、聞き抜いているうちに、「仏法を聞く耳」も、恵まれるものです。
自分の力で聞いているのではありません。仏さまは、自分の全てを、おしみなく与え、私たち凡夫を救われるのです。
仏さまは、その限りない智慧と慈悲によって、私のことを、片時も忘れられることはなく、片時も思わないことはなく、 常に私たちを抱いておられるのです。
その限りない智慧と慈悲は、南無阿弥陀仏という名号になって、私のことを不断に呼び続けていて下さるのです。
この世界には、目には見えませんが、電波が飛び交っています。そこにアンテナと受信機を用意して、波長を合わせると、 テレビも観れますし、ラジオも聴くことができます。
私たちも、
仏法聴聞
ぶっぽうちょうもん
ということを通して、仏さまのこころを受信する ことが出来るようにお育てを受けることが出来ます。
受信出来るということは、当然、発信者がいることになります。発信者は、もちろん仏さまです。
蓮如上人の『
御一代記聞書
ごいちだいきききがき
』の七十七条「我をたのめの弥陀」に 次のように記してあります。
『蓮如上人、
法敬
ほうきょう
(人名)に対せられ、仰せられ候う。
「今、此の
弥陀
みだ
をたのめということを、
御
おん
教え 候人をしりたるか」と、仰せられ候う。
順誓
じゅんせい
(人名)、「
存
ぞん
ぜず」と、 申され候う。
「今、
御
おん
教え候う人を云うべし。
・・・・・・略・・・・・・
蓮如上人、仰せられ候う。
「此の事をおしうる人は、
阿弥陀如来
あみだにょらい
にて候う。
阿弥陀如来
あみだにょらい
の、
我
われ
を たのめとの
御
おん
教えにて候う。」由、仰せられ候う。
※現代語訳※
『蓮如上人が、
法敬坊順誓
ほうきょうぼうじゅんせい
(人名)に対して、
「ただ今申したところの、この
弥陀
みだ
をたのめということを
御
おん
教えくだされたお方が誰れであるか、お前は知っているか」とお聞きに なったところ、
順誓
じゅんせい
(人名)は「知りません」とお答えになりました。
「それでは今から、そのことを
御
おん
教えくだされたお方が誰であるか 言って聞かせよう。
・・・・・・略・・・・・・・・
そこで、蓮如上人は、「このことを
御
おん
教えくだされたお方は
阿弥陀如来
あみだにょらい
であらせられる。
阿弥陀如来
あみだにょらい
が、われをたのめよと
御
おん
教えくだされたのである。」と、仰せられました。
(『現代の聖典 蓮如上人御一代記聞書』細川行信 村上宗博 足立幸子 著 法蔵館 出版 より抜粋)
「仏さまには 他人はない」という、凡夫の私のことを、無意識に救わずにおれないと、南無阿弥陀仏と よびごえとなって、呼び続けていて下さる中に、私の信心も往生もあるのです。
「本願海 その水 流れて 浄土真宗」という
法語
ほうご
を 聞いたことがあります。
浄土真宗は、どこまでも、仏さまが出発点です。
「
学仏大悲心
がくぶつだいひしん
」、 どこまでも、仏さまの
大悲心
だいひしん
を、学び続けるほか、
仏法聴聞
ぶっぽうちょうもん
はありません。
その根本に、「仏さまには 他人がない」という、今、仏さまの、私の苦悩の中に入り込んで、 私の人生の苦悩と、同居して下さる、はかり知れない、大慈悲、大智慧のおこころがあるのでございます。
それでは、仏さまのこころが、私の心に頂かれてきたときに、私たちの人生はどのようにならしめられるのでしょう?
「起き上がりこぶし」という玩具があります。起き上がりこぶしは、ひょろひょろしていますね。
私たちも、生きている限り、恥ずかしいこともしますし、不安になることがありますし、 他人に色々な目にあわされ、悩んだり、また、自分も病気になったりすることもあります。 悩み苦しみ、ふらふらするような出来事ばかりですね。
そういう色々な苦しい目に会っても、いつの間にか、最後は、きちっとした安定した位置に立ち戻る。 ふらふらしているようで安定している。 これが仏法者の姿ではないかと教えて下さった念仏者がおられます。
念仏者は、色々な出来事に振り回されながら、ひょろひょろ・ふらふらしながらも、 仏さまの絶対的な力によって、起き上がりこぶしが、ふらふらしながら、最後は、きちっとした位置に安定するように、 ふらふらしながら、仏さまの力により、支えにより、安定せしめられるのが念仏者の生活ではないかと味わう次第です。 合掌
最後に 浅田 正作さんの詩を紹介させて頂きます。
『一本道 NO.53【1988.5.20】』より
「
永遠の凝視
」
苦しいとき
つらいとき
それから逃れようとする
悲しい習性を
仏はひたすらに
見つめつづけてくださる
「
たったひとつ
」
人間の自由意志が
たったひとつ認められている
それは聞くということだ
これが
如来よりたまわった
たったひとつの自由意志
「
光ニアウ
」
光ニアウ 光ニアウ
コノ人ノ世ヲテラス
光ニアウト
ウマクイッテモ オゴラナイ
アテガハズレテモ クジケナイ
ホントノ自分が見エテクル
ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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