2026年2月 第172話

朝事*住職の法話

くこと、自分を変えること、次元を超える視点」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。

 今月は「くこと、自分を変えること、次元を超える視点」という題にしました。
 テレビで、あるベテラン俳優さんが、こんなことを言ってたんですよ。
 「演技で一番大切なのは、相手のセリフをよく聞くことだって。」
 なるほど、最初に聞いた時には、「そりゃそうだろうなあ。」くらいにしか思わなかったけれど、しかし、よくよく考えると、これ舞台の上だけの話じゃない、ということに気づいたんです。
 私たちの日常とか、仕事とか、家族との対話とか、一番出来ていない事なんではないかと思ったんです。
 毎日言葉を交わしているのに、相手の言葉の奥にあるものを、本当に聞けているかと言われると、ちょっと自信ないですよね。
 相手が話している最中に、次に自分が何を話そうかな?と考えてたりしますから。まさにそれです。
 浄土真宗の教えに深く根差した、聞くことの本質から始まる日々の暮らしの知恵を、探っていきたいんです。
 人間関係の悩みから、自分との向き合い方、さらには、苦しみをどう乗り越えるか?
 キィーワードは大きく三つですかね?
 「聞くこと」「自分を変えること」「次元を超える視点」
 一見すると、バラバラのテーマのようですけれど、しかし読み解いていくと、これらが深く見事につながっていることが分かるんです。
 言葉とコミュニケーション、その核心にある聞くということ。
 繰り返し、よく忠告されることは、相手の話をよく聞くことの重要性でした。
 コミュニケーションの基本中の基本ですけれど。一番難しいことでもありますよね。
 ある大物政治家は、小学校しか出ていなかった。その彼が他人を判断する基準にしていたことが、すごく本質的で、相手の眼を見ないで話す人とか、他人が褒められている時に、 ずっと嫌な顔をする人、そういう人は絶対に信用しなかったと。
 これって、相手が口にする内容だけを聞いているんじゃないってことですよね。

 その人の表情とか、視線、声のトーン、醸し出す雰囲気、その全部から発せられるメッセージを、全身で受け止めている。
 言葉はいくらでも取り繕えますけれど、無意識の態度って嘘つけませんからねえ。
 本当の意味での聞くっていうのは、相手の存在そのものを丸ごと受け止める行為なんだなって。
 ただその聞くっていうことがいかに難しい事か!特に自分に知識とか経験があると思っている人ほど、陥りやすい罠があるのかも知れませんね。
 ある研修会で、講師はある分野の専門家で、実によく勉強されていることは、話を聞いていて、感じました。
 勿論専門家ですから、知識は豊富で、話内容も学術的な価値はあったのだと思います。
 しかし、結果として、その講演の聞き手に響かなかったように感じました。
 何故なら、聴衆が理解しているか、どんな反応をしているか?それらを一切見ずに、ただ用意して来た原稿を、一方的に、早口にまくしたてたから。
 話は話し手と聞き手との共同作業で成り立つ、ごく当たり前のことが理解されていないって感じさせられました。
 これはかなり手厳しい、耳が痛い話ですよね。
 何かを教える立場にある人間。教師、上司、親も含めて、誰もが陥る可能性がある罠です。
 法話でも、僧侶である私自身が、上から目線で、「教えてやる」という態度になっていないか?

 どんなに素晴らしい内容でも、話し手の根っこに、「教えてやる」みたいな傲慢さがあると、聞き手の心は閉じちゃうんですよ。
 身につまされますね。話していると、つい聴衆のことは忘れて、自分のペースで話してしまいがちですよね。自戒する次第です。
 話は双方で作るものだと。ではどうすればいいんだ。
 話で気を付けたいことは、「言っていい事と、悪い事がある。何でも正直に言えばいいというものではない。」当たり前のようですけれどねえ。
 でも感情的になっている時は、これ完全に見失っちゃいますよねえ。感情的にならないように要注意ですね。
 大人とは、自分を客観的に見ることが出来る人。
 また、相手が絶対に触れてほしくない部分、その人の心の曲線に触れない慎重さが要る。これって、テクニックとかじゃなくて、思いやりというか?
 言葉を発する前に、一瞬立ちどまって、この言葉は相手の心をどう揺さぶるかな?と想像する。そのわずかな間が、人間関係を大きく変えるのかも知れません。
 そういうコミュニケーションの問題を、さらに掘り下げて行くと、すべて人間関係の根源に、たった一つ「思い込み」に集約してみてはどうでしょう。
 「他人をコントロールできる」という幻想。これこそがあらゆる苦しみの出発点かも知れないですね。
 親子、夫婦、上司と部下、どんな関係でも、私たちは無意識に相手を自分の思い通りに変えようとしてしまう。
 ある先生は「他人を変えようと願うのではなく、自分が変わらなければならない。」と言われた。うーん深いですねえ。
 他人は自分と違う考え方を持っている。それが大前提。それを無理矢理ねじ伏せようとするから苦しくなる。
 これは苦しみから抜け出す唯一の出口なんだと。  

 ある議員さんが、役所の職員に挨拶しても、誰も挨拶を返してくれないと、腹を立てていました。ありがちな話ですよね。
 こっちは挨拶しているのに、何だ!あいつらの態度は。ところがある時に、気づいたというのですね。
 挨拶が返ってこないのは、職員の態度が悪いからじゃない、彼自身の挨拶に「お前ら、ちゃんと仕事しとるんか?」みたいな。
 そう、他人を見下した空気がにじみ出ていたからだと、気づいたというのですね。
 それに気づいて、心から頭を下げて挨拶するようにしたら、周りの反応が劇的に変わったそうです。
 なるほど。偉いなこの人!
 自分のことは棚に上げて、相手のことばっかり責めちゃう。
 これ、誰にでも心当たりがあるんじゃないですか。ほんとに。
 自分が変われば、世界の見え方が変わる。すごくシンプルですけれど、だからこそ、力強い実例ですね。
 この視点の転換について、「思考の次元」という比喩で言えば、数学で言う一次元、二次元、という、次元ですか。その通りです。
 私たちの日常的な思考。例えば「善いか、悪いか?」「得か損か?」みたいな二者択一で、物事を判断するあり方は、二次元的思考だと。
 まるで、一枚の紙の上に、「白か黒か?」と、決めるような、平面的で、対立構造から、抜け出せない世界なのです。
 私たちは、その二次元の平面上で、右往左往しているかも知れません。
 これに対して、仏教でいう「無分別智」つまり、仏の智慧は、その二元的な対立を超える。
 三次元的な発想なのだと。二次元の平面から、起き上がっ、対立している両方を上から見るような。
 「とらわれから解放された視点」です。
 でも、その三次元的視点に切り替えるのって、言うは易いけれど、苦しみの中にいる時って、どうしても、「あいつが悪い!」「自分は損した」という二次元的な思考に、とわれちゃいますよね。
 その切り替える具体的に実践方法というようなものは、何かあるのでしょうか?
 それこそが念仏の心なんだと。念仏の心?ここで、念仏って、ただ仏の名前を称える、という事だけじゃないんです。
 自我の小さな分別の殻(から)を出て、大きな仏の世界を生きよ、という仏からの呼びかけそのものです。
 「呼びかけ」ですか。「ハイ」つまり、苦しい状況に陥った時、二次元的な思考で、犯人探しをするんじゃなくて、一歩引いて、この現実は、この苦しみは一体私に何を教えようとしているんだろう?
 そういう、より大きな視点から、問い直してみる。その問い直しこそが、三次元的視点への扉を開く鍵になると。
 なるほど、その視点を持つことが、他人との関係だけじゃなく、自分自身のどうしようもない苦しみと向き合う時にも、決定的な鍵になって来るわけですね。
 苦しみの向き合い方について考えてみましょう。人生には、どうしようもない困難とか、理不尽な悲しみがつきものですからね。
 ありふれた言葉ですけれど、改めて、その重さを感じさせられる言葉がありました。

 「明日は我が身」という言葉です。本当にそうですよね。どこかで、「自分だけは大丈夫。」と思っちゃいますけれど。
 ある八十代の姉妹がおられます。お姉さんの方は、色々な病気を抱えておられるのですが、肺がんの息子と同居して、二人暮らしです。
 ご自身の体調も悪いのに、それでも気丈に生きている。
 その息子さんも妻子とは仲が悪いみたいで、別居生活しながら、肺がんを抱えながら、毎日仕事に行っておられるのですね。
 その妹さんの方は、車椅子の生活をするようになられ、娘さんが面倒を見られているみたいです。
 その姿に触れると、誰もが、それぞれの場所で、それぞれの苦しみを抱えながら、一生懸命生きてるんだ。と深く実感するんです。
 その実感こそが「傲慢になるな!」「謙虚さを忘れるな!」という教えにつながっていくんですね。
 他者の苦しみを知ることが、自分の中にある「自分だけが大変だ。」という傲慢な心を打ち砕いてくれる。
 さらにもう一歩踏み込んで、その苦しみそのものに、深い意味があるという視点を仏教は提示します。
 横川法語(源信僧都)に「世のすみうきは(住み憂き)は、いとふたよりなり。」という事が説かれています。
 「世のすみうき」この世の生きづらさは、迷いの世界を超えた、本当の世界を求めるための、メッセージとか、招待状のようなものだと。その通りですね。
 苦しみがあるからこそ、私たちは、「このままじゃいけない。」と、願って、より高い次元の教えを求める心が生まれる。
 なるほど、もし人生に苦しみというものが無くて、全部が、順風満帆であったなら、かえって大切なことに気づかず、この世の刹那的な楽しさに、酔いしれたまま、人生を終えちゃうかも知れない。
 苦しみは、私たちを目覚めさせるための、仏からの便り、メッセージ、直接的ですけれど、すごく救いのある視点ですよね。
 その苦しみが単なる苦しみで終わらずに、生きる力とか、創造の源泉にすらなる。そのことを示す話があります。
 テレビで見たのですが、48歳で奥さんを亡くされた男性の話です。二人の子供さんを男手一人で育てる日々を、「砂を噛むような味気無い日々だった。」と言われていました。
 その彼の心を支えたのが、書道と、円空という江戸時代の僧侶が彫った仏像との出会いだったんです。
 円空自身も早くにお母さんを亡くして、その供養の為に、生涯で12万体もの仏像を彫り続けたと言われています。
 「自分が仏像を彫るのではない、僕の中におられる仏様を、ただ彫り出させて頂いているだけだ。」と。素晴らしい言葉ですね。
 そこには、自分の技術を誇示するようなエゴは全く無くて、感じられない。木の中に眠る仏に手を合わせて、祈りを込めて形にしていく。
 その円空の仏像に心を揺さぶられたその男性は、自らも仏像を彫り始めるんです。
 彼がその深い悲しみと苦しみの中から、彫り出した仏像は、決して技巧的に上手いわけじゃないけれど、円空の仏像と同じように、見る者の胸を打つ力があった。
 苦しみが新しい生きる支えになる。創造へと昇華された、これはほんとうに心打たれる人生です。
 苦しみを通してしか、たどり着けない境地、産み出せないものがある。ということですね。
 ここまで見て来た深い仏の教えを学ぶ上で、仏教では、「慢心」というものを警告されています。
 つまり「自分はもうわかっている。」というおごりの心。
 そして、もう一つが嘘や間違いを伝えてしまう恐ろしさです。教えること、伝えることの責任の重さですね、
 私たちは何か知ると、すぐ誰かに教えたくなるものですけれど。そこに大きな落とし穴があると。

 
 百丈懐海禅師が提唱(深い禅の教えを説く説法)をされる時、ひとりの老人が修行僧の後ろに立って聴いていました。
 ある日、提唱が終わり修行僧たちが帰っても、老人だけが残っていたので、思わず百丈禅師は老人に何処から来たか訊ねると老人は自らの話を始めました。
 「私は人間ではありません。大昔にこの寺の住職をしていた時、大修行底の人、還って因果に落つるや也た無しや
 多年に渡り修行した人でも、因果律(必ずある原因によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理)にとらわれるのでしょうかと尋ねられ、
 不落因果
 因果律にとらわれることはない
 と答えたところ、誤った答えであったようで五百回野狐として生死を繰り返しています。
 百丈禅師より一語をお示しいただき、野狐よりお救いください。」
 と老人の姿をした野狐が話したというのですね。
 そこで百丈禅師は、
 「不昧因果」つまり「因果は誤魔化すことは出来ないぞ!」
 因果律を曖昧にしない。と説かれたのですね。
 一語を聞くと即座に老人は悟り、礼を述べて野狐より脱したと報告しました。
 その後、百丈禅師は求めに応じて野狐の葬式を執り行います。
 という逸話です、「悟った者は、因果の道理を無視してもいいか?」という質問に対して「無視していい。」と答えたのですね。
 それが間違っていたというのですね。
 たった一言の間違いが、それほど重い罪になり、嘘を説法する恐ろしさを説く話ですね。
 本質をついていますね。私たちも何か質問されると、つい知ったかぶりして、いい加減なこと答えてしまう。慢心から来る間違いです。
 
 学ぶ姿勢そのものについても、「コップに水がいっぱいに入っていたら、いくら水を注いでも、もう一滴も入らない。」
 これ以上分かりやすい比喩はないですね。
 慢心で心が満たされている状態では、どんなに尊い教えでも、入る余地はないですよね。
 「常に自分を空っぽにしておく謙虚さ」が、学ぶ上での大前提だと。
 仏法は師匠に学ぶことが大事だと、昔から言われていますが、自分だけだと、ついつい自分に都合の良いように解釈してしまいがちですよね。
 その間違いを指摘され、正しい道に直されることが大事ということですよね。
 「自信教人信」という言葉があります。これは「教えてやる。」という上から目線ではいけませんよね。
 先ず、自らが、先ず深く学び信じること、その信じている姿、その生き方そのものが、結果として他者への教えとなって、伝わっていくということなのでしょう。
 つまり、「教えてやる。」という意識を捨てて、ただひたすらに自分が信じる道を歩むその背中こそ、何よりも重大な説法になるんだという事なのでしょう。厳しい話です。
 「教える」んじゃなくて、「伝わる」その違いは天と地ほど大きいですね。
 
 相手の話をよく聞く、というごく日常的な、聞くから、善悪の二元論を超え、次元の違う視点で、ものごとを見る深い智慧まで、全てが一本の線でつながっていました。
 その根底にあるのは、やはり、自分中心の小さな殻から出て、より大きな世界とつながろうという姿勢、ということなんですね。
 そして、何より重要なのは、これらを単なる知識として、頭で理解するだけではない、ということですよね。
 奥さんを亡くされた男性が円空の仏像に出会い、自分で仏像を彫ることで、悲しみを乗り越えるのを実感されたようにね。
 お能の家元が、火事から護ったお能の極意書のようなものを、息子にそれを読ませて、何か実感してほしいと言われていました。
 知識じゃなくて、実感、それが全てを貫くメッセージなんでしょうね。
 人生の苦しみは、仏法への御縁、仏法に触れる大きなご縁でもある、ということですね。
 厳しいし、中々難しいことですけれど、それが真実かも知れません。
 あなたは今、「あなた自身の人生が発している声」「あなたのまわりの人々が発している声」そして、「あなたを包む世界が発している声」に、どれだけ深く、静かに耳を、傾けているでしょうか?

 南無阿弥陀仏   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
              
*光と闇  
           
光だ 
           
光だ 
という人には 
いつか光が射してくるし   
闇だ 
闇だ 
という人には     
いつまでも闇が続く   
*一字一輪 
字は一字でいい   
一字にこもる力を知れ 
花は一輪でいい      
一輪にこもる命を知れ    
【坂村真民】   
    


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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