平成25年3月

朝事*住職の法話

「親鸞さまの姿勢」

ようこそお参り下さいました。

イプセンの劇の中に、死に直面している青年の苦悩を書いたものがあります。それは、ある青年がひとり 散歩していると、太鼓を叩きながら来る異様な風をした者に出会った。 お前は誰れかと聞くと、死の使いであるといい、一切の者は死ななければならぬと聞かされた。

そこへおじの死によって何百万円かの遺産が自分のものになるという知らせがくる。 提出中の学位論文が通ったといってくる。長い間の恋人が、とうとう両親の許しを得て、結婚できると甘いささやきを もってくる。だがその青年は決して楽しまない。お前たちにはあの太鼓の音が聞こえないのか、と苦悶に苦悶を重ねている 筋書きです。

一度、そこに思い達すると浮き世の楽しみなどは何の役に立ちません。そこにはどうしても死の解決がなくてはこの世を 救うことも不可能なのであります。

今まで、私は、この話はイプセンの創作劇ですから、彼の感性というものは鋭いものだと感心していました。しかし、 別の面から考えてみますと、彼がこのように感じるのは、浮き世ならぬ世界からの声なき声というものを彼が聞いたからでは ないかと思うのです。

人間は何十年も生きていくうちには、色々な経験をしますね。連れ合いが亡くなったり、色々なことを経験して、この世は娑婆だ、 忍耐しなければ生きていけないところだと感じさせられます。

この世が何一つ確かなものなんかない。それは他人だけのことを言うのではなく、自己の考えも、自己の身体も、何一つ確かでない、 ということでもあります。

そういう何一つ確かでない中に、念仏というものを私たちは与えられました。このことに驚きたいのです。 このことは親鸞さま等の祖師方のご苦労のお蔭であります。 親鸞さまが、出会い、仰がれた、高僧方の教え、それを仰いでおられる親鸞さまの姿そのものが我々を導いていて下さっている気がします。

正信偈しょうしんげ」の最後に、 「唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ」「唯だ斯の高僧の説を信ずべし」と 親鸞さまは、無我に高僧の説を仰いでおられます。

この正信偈の言葉は、ここまでは七高僧のこころによって教義を讃嘆さんだんしてきたが、 ここでは、その結びとして、一切の人々に、七高僧しちこうそうの説を信ぜよとおすすめになったのであります。

インドの龍樹りゅうじゅ天親てんじんの二菩薩、 中国・日本の曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう源信げんしん源空げんくうの祖師があいついで、この世にあらわれて、数限りない、 極重ごくじゅうの悪人を救うために、釈尊の出世しゅっせの 本意である阿弥陀如来あみだにょらい本願ほんがんの こころをお説きになりました。僧侶も一般大衆も、この時代の一切の衆生しゅじょうは 心を同じくして、これらの七高僧のお説を信じなくてはなりませんというのであります。

この結文は、あきらかに七高僧の説の結びであります。だから、いちおうは七高僧と見るのは当然でありますが、 しかし、一切の衆生に七高僧の説を信ぜよとすすめられておるのは、正信しょうしんを すすめられるものであるから、全体の結文の意味もふくんでいるといわれております。

また、この信心をすすめられておるのは、道俗時衆どうぞくじしゅうとあるから、 他の人にすすめられるものではありますが、親鸞聖人のこころでは、他にすすめると同時に、自分自身に言い聞かせになる場合が 多いのであります。ここでもその意味を味わうべきでしょう。

つまり、そこには、「わしは、こう信じた。お前たちも、わしが信じたようにしろ。」等というような、傲慢な、自惚れ、高上りの 姿勢はみじんもありません。又、そこには自分の考えを一切、差し挟んではおられません。

親鸞さまほど、仏教の勉学を長年にわたって研鑽された方はおられません。大学者なのです。しかし、親鸞さまは、 「自分は愚かな凡夫である。」と、仏さまのお照らしの前に、ひれ伏し切っておられます。 

古来から、「真宗の信心は二種深信にしゅじんしんである。」と言われています。
二種深信にしゅじんしんとはなんでしょうか?二種深信の意義について考えてみましょう。
少し硬い文章ですが、信心の指針となる金字塔のような言葉だと思い、あえて載せたいと思った次第です。 理解するだけでなく、何よりも私自身がこの通りになることが大切だと感じています。


『第十八願の信心のすがたを明らかにしたものに二種深信がある。これは善導大師ぜんどうだいしの 「散善義さんぜんぎ」に、
一つには、決定けつじょうして深く、自身はげんにこれ 罪悪生死ざいあくしょうじ凡夫ぼんぶ曠劫こうごうよりこのかたつねにもっし、つねに 流転るてんして、出離しゅっりの縁あることなしと信ず。

二つには、決定けつじょうして深く、かの阿弥陀仏あみだぶつの 四十八願は衆生しゅじょう摂受しょうじゅして、 疑いなくおもんばかりなくかの願力に乗じて、さだめて往生をと 信ず。』(信文類 引用)

(一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからあとも生死を出る 手がかりがない、と決定けつじょうして深く信ずる。

二つには、かの阿弥陀如来の四十八願は衆生しゅじょうおさめとってお救い下さる。疑いなくためらうことなく、かの願力に 乗託じょうたくして、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる)

と述べられているものである。名号みょうごうのいわれ (仏願ぶつがん生起本末しょうきほんまつ)を 聞いて疑心ぎしんあることなしという本願ほんがんの 信心をほうとの二種に開いて示されるのが 二種深信にしゅじんしんである。

深信じんしんとは、自らが 地獄一定じごくいちじょうの存在であると、機の真実を信知しんち することであり、法の深信じんしんとは、本願ほんがんは そのような機をまちがいなく救う法であると、法の真実を信知しんちすることである。

この二種深信にしゅじんしんは互いに矛盾した事実
(地獄一定じごくいちじょう往生決定おうじょうけつじょう)の 信知しんちと理解されやすい。しかし、 深信じんしんの意味するところは自らの力が 浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知しんちすることである。

すなわち、深信じんしんは自らのはからいを 捨てさる(捨機しゃき)ということであり、また法の深信じんしん は阿弥陀仏の救済にすべてをまかせる(託法たくほう)ということである。

このように二種深信にしゅじんしんは矛盾した信ではない。自らの力がなんの役にも立たないと 知って、はからいを捨てさるということは、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済にまかせきると いうことは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであって、これは別なことではなく、 「高僧和讃こうそうわさん」にも、

煩悩具足ぼんのうぐそく信知しんちして  本願力ほんがんりきじょうずれば

すなはち穢身えしんすてはてて  法性常楽証ほっしょうじょうらくしょうせしむ』

とうたわれている。

二種深信にしゅじんしんの内容はまた、阿弥陀仏の光明とそれによって照らし出された 自らのすがたであるといってよい。煩悩具足ぼんのうぐそくの身、 地獄一定じごくいちじょうの身とは阿弥陀仏の光明によって照らし出された 自らのすがたである。

この光明にうということは、本願力に じょうずるということと同じ意味である。すなわち、阿弥陀仏の光明を 信知しんちするということは、それによって照らし出された自らのすがたを 信知しんちすることと別なことではない。

以上述べたことによって明らかなように二種深信にしゅじんしんは 本願に対して一点の疑いもない信楽しんぎょうの一心のことであって 別々の二心が並び立つことではない。

深信じんしんと 法の深信じんしんとを前後関係でとらえたり、一方を自力、 他方を他力と考えたりすることは、二種深信にしゅじんしんを 別々の二心とみることであり、誤った理解である。

親鸞聖人は自力疑心じりきぎしんをしばしば 信罪福心しんざいふくしんといわれる。 信罪福心しんざいふくしんとは己の罪をおそれ、己の功徳をあてにするこころである。

もし、この信罪福心しんざいふくしんが、単に悪によって罪を得、 善によって福を得ると信ずるこころであるとするならば、これは仏教でいう因果の法則に従った考えであって、 決して間違った考えではない。親鸞聖人は「化身土文類けしんどもんるい」において 因果の法則を無視した宗教を外教邪偽げきょうじゃぎ異執いしゅうとして厳しく批判されている。

浄土真宗の教えは智慧ちえ慈悲の結晶である 名号みょうごう衆生しゅじょうに 至り届いた信心の因によって往生成仏じょうぶつの果を得るというものであって、 決して因果の法則を無視するものでけはない。

この阿弥陀仏の救済の力の前には自らのなすどのような悪も障害とならず、また自らのなす善はなんの役にも立たない。 二種深信にしゅじんしんはこれを信知しんちすることである。

しかし、信罪福心しんざいふくしんはこれと相違し、このような悪を犯したものは 浄土に往生できないと考えたり、またこのような善を積んだからには浄土に往生できるであろうと考える心である。 これは本願を疑う自力心である。それゆえ親鸞聖人は信罪福心しんざいふくしんに とらわれる心を仏智疑惑ぶっちぎわくの罪として厳しく いましめられるのである。

(『真宗の教義と安心』本願寺出版社・より抜粋)



少し硬い文章ですが、自己の信心が正義にかなっているか、反省する指針になる言葉だと思い、あえて載せました。 共々に親鸞さまと一味いちみの信心になるようにこころがけたいものでございます。 信仰と学問とは違いますが、自己の信心の誤りや間違いを気づかされる為に、仏法の学問があるのだと聞いています。 それに、聞いてすぐ忘れてしまうようでは、練ったり、深めたり、念相続することもできません。合掌

最後に 松本 純・小学六年 の詩を紹介させて頂きます。『一本道【昭和54.10.15発行】』より
 人間が生まれて 最初に見るものが光
 光のないところはない 太陽のとどけてくれる光
 闇をてらしてくれる無数の光 光がなければ くらやみになり
 光がなければ自分も見えない 光がなければ だれも
 生きていけない それほど 光は
 たいせつなものだ でも 人間は
 光を忘れている  


松本 純さんは、素直な感性の中に、とても鋭い直観で、大切なことを教えていると思います。合掌


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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