2024年12月 第158話

朝事*住職の法話

煩悩ぼんのうあるままの救い」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「煩悩ぼんのうあるままの救い」という題にしました。
 
 煩悩について「親鸞辞典」(菊村紀彦)東京堂出版 に次のように説かれています。
 
 『心を悩まし乱す精神的作用。迷いの心。
 このうち
 @貪(とん)むさぼりの心
 A瞋(じん)いかりの心
 B痴(ち)真理を知らないこと。無明の三つを 三毒さんどくの煩悩(ぼんのう)といい、これに
 C慢(まん)うぬぼれ
 D疑(ぎ)うたがいの心
 E悪見 誤った見解 
を加えた六種を根本煩悩といい、 その他の諸の煩悩を枝末煩悩、隋煩悩という。
 真宗では、自己を煩悩具足の凡夫ととらえ、自らの力によってこれを除滅することはできないとしながらも、この凡夫を浄土に迎えて無上の悟りを得さしめようとするのが阿弥陀仏の本願であるから、 煩悩こそ如来の救済の目あてであるとする。』(「親鸞辞典」より抜粋)
 煩悩具足の凡夫というのは、ここにいる、切れば血が出る私の問題であります。
 煩悩という言葉についつい馴れてしまい、この煩悩が自分を迷いの世界に落とす恐ろしいものであることを忘れがちになることを自戒したいです。
 同じく「親鸞辞典」に「三毒」について、次のように説かれている。
 『三毒(さんどく)悟りを求める心に害毒となる三種の煩悩。貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)の三っつ。
 一切煩悩の根本。
 貪欲(とんよく)とは、欲望、むさぼりの心、
瞋恚とは怒り、腹立ち、
愚痴とは道理を知らず無明(むみょう)
であること、をいう。
 親鸞は「末灯鈔」の中で、
 「もとは無明の酒によいて貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしおうてそうらいつるに、仏の誓いを聞きはじめしより、無明のよいもようようすこしずつさめ、三毒をもすこしずつ好まずして、 阿弥陀仏の薬を常に好みめす身となりておわしましおうてそうろうぞかし」と述べ、煩悩の三毒に対して阿弥陀仏の救済を薬にたとえている。』(「親鸞辞典」より抜粋)
酒飲んだばっかりに、暴言を吐いて、窃盗して、女性に乱暴して、殺人して、酒から色々な罪を犯してしまう話が経典にもありました。
 ここに「無明の酒に酔う」という表現がありますが、何かとてつもない真実味を感じる表現ですね。
 実際、酒というものは、酔わせますし、あまり深く考えてこなかったけれど、酒というものは、体にとっても、我々が普通思っている以上に良くないものなんでしょうね。
 
 むさぼりの心とは、自分の意の如くなるようにしていこうと、どこまでも執着していく心でしょう。
 日々の私の心の中は、まさにひたすら貪り続け、際限を知らない欲望であります。
 そして、自分の意の如くならないことに対して、とことん腹を立て、怒るこころであります。
 仏法では、「無我」「無常」を説いているのに、自我を中心として、貪り怒る心が果てしなく湧いてくることが、道理を知らない愚痴の心でしょう。
  
 「わかっちゃいるけど やめられない」と植木等さんの歌にもありますように、ただただ煩悩に苛まれる自分の姿を恥じるのみであります。

 そんな自分の煩悩丸出しの姿に情けなくなる時、いつも思い出す和讃があります。
 『正像末和讃』の中の一つの和讃である、次の和讃です。

 「願力無窮(がんりきむぐう)にましませば
  罪業深重(ざいごうじんじゅう)もおもからず
 仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば
 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず」  
 

 【意訳】 
 「阿弥陀仏の本願のはたらきはきわまりないので、
  深く重い罪が重くても、救われていく。
  阿弥陀仏の智慧のはたらきは広大無辺であるから、
  散り乱れた心であっても見捨てられることはない。」
 
 この和讃は、実に日々の私自身の煩悩の心に対する救済の働きが、はっきり説かれています。
 
「願力無窮」(がんりきむぐう) 
「仏智無辺」(ぶっちむへん)
 について昧わわせて頂きましょう。
「願力」とは本願力。
 本願力とは、「阿弥陀さまが全ての人を必ず救うと願いはたらいて下さっている、その働きのこと」です。
「無窮」とは、「極まり(窮まり)が無い」ということです。
 『罪業深重もおもからず』とは、「深く重い罪だから、救われないということはない」という意味です。
 阿弥陀さまのはたらきに比べたら、私の罪など全然重くない。
 自分の都合のいいように解釈してはいけませんが、
『私の作る罪は重いには違いないが、本願の前では、溶鉱炉上の一片の雪である。』
 と説かれた先徳がおられました。
 どんな重い罪が重くても、阿弥陀さまのはたらきは、それを救いとって下さる力があるというのです。
「仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」の「仏智」とは、阿弥陀さまの智慧のはたらきのこと、
「無辺」とは、無辺際(際、辺が無い)、限定が無い(無限)という意味です。
 阿弥陀さまの救いのはたらきは広大無辺で、あらゆる所に行き渡るというのです。
「無辺」には、辺見(偏見)が無いという意味もあるそうです。
 それは分け隔てをしないということでもあります。
 どんな人間であろうと、分け隔てなく平等に救って下さるのです。
 阿弥陀さまは智慧の眼で私たちを見て下さり、善悪・賢愚などの分け隔てをされません。
 それを仏智無辺と言われているのです。

「散乱放逸」とは、散り乱れた心で勝手気ままな行いをすることです。
 親鸞聖人は、「散乱放逸」の左側に小さい字で註釈を加えてくださっています。
 それを左訓(さくん)と呼んでいます。、

「散り乱る、ほしきまゝのこゝろといふ」
「我らがこゝろの散り乱れて悪きを嫌はず、浄土に参るべしと知るべしとなり」

 散乱放逸とは、「散り乱れ、勝手きままな心」のことです。
 散り乱れた悪い私の心を嫌わず、浄土に参らせていただけると言われるのです。
 それが「散乱放逸もすてられず」ということです。。
「散乱放逸」とは、真実に背き、自己中心の心に振り回されて、自分勝手に生きている私のことです。
 散乱放逸こそ、正しく、日々の私の姿を言い当てた言葉であると、しみじみ思います。
 そんな私に、阿弥陀さまの本願力が「我にまかせよ。必ず救う。」と南無阿弥陀仏のお念仏となって呼びかけてくださっているのです。
 それに全託(ぜんたく)する、任せ切る。
 不可思議な本願の働きの前に、ただ頭を垂れて、お任せするのみであります。  

「罪悪深重もおもからず」「散乱放逸もすてられず」
 偽らざる私の現実の姿に対してのお言葉であります。
 「願力無窮」「仏智無辺」に出遇った時、「罪悪深重」「散乱放逸」の私が見えてくる。
 そんな私を抱いて下さる大悲の心に出遇った時、少しでも仏さまを悲しませない生き方をしたいものです。
 それが「末灯鈔」の
 「もとは無明の酒によいて貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしおうてそうらいつるに、仏の誓いを聞きはじめしより、無明のよいもようようすこしずつさめ、三毒をもすこしずつ好まずして、 阿弥陀仏の薬を常に好みめす身となりておわしましおうてそうろうぞかし」と、親鸞さまが述べられたお心でしょう。
 「阿弥陀仏の薬を常に好むようになる」と説かれています。
 阿弥陀仏が「薬」なら、この私は煩悩にふりまわされている「大病人」ということです。
 口で言うほど、簡単なことではありませんが、少しでも正しい方向に導かれ、お育て頂きたいものです。
 私がどんな状態にあろうとも、阿弥陀さまに抱かれているのです。
 阿弥陀仏の本願は、煩悩に振り回され、真実が見えず迷っている。そんな私たちの闇を照らす大きな灯火であります。
 阿弥陀仏の本願は、迷いの大海を渡す乗物であります。
 それが阿弥陀仏の薬であります。

 高松悟峰和上の言葉を紹介させていただきます。
                                          
 「声にすがたはなけれども 
  声のまんまが仏なり
  仏は声のお六字に
  すがたをかへて 我に来る
  声のうちなる極楽を
  遠しと人や思うらん
  念々称名する人は
  念々ごとに往生す
  浮世の嵐 吹けば吹け
  まだある筈だやって来い
  朝な夕な声に来る 
  南無阿弥陀仏にゃ叶うまい」
  
 (高松悟峰和上)

 ある伝道法語に、次のように記されていました。
                                          
 「南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の代表であり、 
  また 実に阿弥陀如来様である。
  私の死の解決をしてくださったすがたである。
  南無阿弥陀仏は、無量光 無料寿の姿である。
  声のうちなる極楽を 遠しと人は思うらん。
  南無阿弥陀仏のうちには生のみあって死がない。
  今日只今より、如来の寿命と一つにして下さっている。
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*娑婆の浮世で極楽もろうて 
           
これがたのしみ なむあみだぶつ。 
           
わしや浄土を先に見て  
娑婆で申すなむあみだぶつ。 
往生は今のこと  
なむあみだぶつにて往生すること 
なむあみだぶつ。 
極楽は 遠い遠いと思えども
なむあみだぶつが弥陀の極楽。   
*先の楽しみ 極楽さまで 
今の楽しみ なむあみだぶつ。 
*衆生済度は 今とはちがう 
今は凡夫で 娑婆世界 
衆生済度は 弥陀の浄土でするぞ  
うれしや なむあみだぶつ。 
『妙好人 浅原才市の詩』 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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