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2024年10月
第156話
朝事*
住職の法話
「
慚愧歓喜
ざんぎかんぎ
のお念仏」
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
慚愧歓喜
ざんぎかんぎ
のお念仏」という題にしました。
「妙好人の詩」菊藤明道 (法蔵館) に、次のように書かれています。
「
慚愧歓喜
ざんぎかんぎ
の南無阿弥陀仏
才市さんの数多くの詩は、突然詠まれたものではありません。長年聴聞をかさねて
獲得
ぎゃくとく
した他力のご信心から
紡
つむ
ぎだされたものです。その
機縁
きえん
になったのは、親の才市さんにかけた深い思いでした。」
「妙好人の詩」には、次の詩が紹介されています。
「才市は今日をよろこべ 今日をよろこべ
今をよろこべ 今をよろこべ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ」
「才市や何がおもしろい
迷いの浮世がおもしろい
法をよろこぶ種となる
なむあみだぶつの花ざかり」
「ええな
世界 虚空が皆ほとけ
わしもそのなか なむあみだぶつ」
菊藤明道師は、次のように説かれています。
「
泥凡夫
どろぼんぶ
のあさましい
罪業深重
ざいごうじんじゅう
のわが身が、如来さまのお慈悲のなかでいま生かされている 「いのち」の喜びが歌われています。
「往生」というのは、 「
捨此往彼蓮華化生
しゃしおうひれんげけしょう
」といわれます。
この世は苦しみ迷いの
娑婆世界
しゃばせかい
であり、苦しみ迷いの世を捨てて、
臨終一念
りんじゅういちねん
の夕べに
彼土
ひど
・極楽浄土の蓮華の中に往生することと説かれています。
真宗の教えでも、この世で、如来さまからさし回される他力のご信心をいただいて、まさしく往生成仏することに定まった身 となり、死後、浄土に往生して即座にさとりを得る、と説かれます。
「歎異抄」には、 「
娑婆
しゃば
の
縁
えん
尽
つき
て、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり」と説かれています。」
【「妙好人の詩」菊藤明道 法蔵館】
才市さんの実母は死の床についたとき、「お寺参りして仏法を聴聞し、お念仏をよろこぶ人になっておくれ」と、才市さんに言い残されたそうです。
才市さんは「親の遺言 南無阿弥陀仏」と言っています。
自分のことを心底思って下さっている方のお言葉は、人間の心の深いところに徹して、その人にいつまでも、よびかける力を持っているのでしょう。
才市さんは仏法聴聞の一生を送られました。
沢山の信心の詩は、他人に見せるためではなく、自分自身の信心を練っていたといわれます。
才市さんの詩に「今日をよろこべ」「今をよろこべ」と詠われています。
「迷いの浮世が法を味わう縁となる」と言われています。
才市さんは、人生の苦悩の中で、その苦悩をご縁に仏法聴聞された。
その血のにじむような聞法生活を思わずにおれません。
これは現代の寺参りされている聴聞者も同じことだと思います。
皆、一人一人、他人にはわからない、計り知れない苦悩を抱いて、仏法聴聞されているのではないでしょうか?
この世は、酔いしれておれない娑婆だと気づかれた方々が仏法聴聞されているのでしょうか?
その苦悩の只中で、仏さまの深いお心に出会わせていただくのでしょう。
才市さんは、 「世界虚空が皆ほとけ」と言われています。
一人一人にかけられている、虚空のごとき計り知れない深く広いお心が、阿弥陀さまの知恵と慈悲のお心と仰ぐ次第です。
南無阿弥陀仏
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』
☆☆法語☆☆
*きいてみなんせ まことの道を
無理な教じゃ なひはいな
*真きくのが おまへはいやか
なにが のぞみであるぞいな
*思案めされや 命のうちに
いのちをはれば あとじあん
*只でゆかるる 身を持ちながら
おのが分別 いろいろに
*わしがこころは 荒木の松よ
つやのないのを 御目当てよ
*きのふきくのも 今日またきくも
是非にこいとの 御よび声
*おも荷背負ふて 山坂すれど
御恩おもへば 苦にならず
【お軽同行の歌】
『妙好人の詩』菊藤明道
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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