2024年8月 第154話

朝事*住職の法話

仏様ほとけさまのはたらき《
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「仏様ほとけさまのはたらき《という題にしました。
 『蓮如上人 御一代記聞書 に学ぶ』 井上善右衛門 永田文昌堂 刊
 に「弥陀大悲の胸のうち《という一節がございます。紹介させて頂きます。
 共に味わわせて頂きましょう。
 
 『弥陀大悲の胸のうちに、かの 常没じょうもつの衆生みちみちたる《といへること上審に候ふと 福田寺ふくでんじ申しあげられ候。
 仰(おおせ)に、仏心の蓮華は胸にこそ開くべけれ、腹にあるべきや、
 「弥陀の心身の功徳、法界衆生の身のうち心のそこに入りみつ《ともあり、
 しかれば、ただ 領解りょうげの心中をさしてのことなりと仰せ
(おおせ)候ひき、ありがたきよし候ふなり。
 
 「弥陀大悲の胸のうちに、かの常没の衆生みちみちたる《とあるのは『安心決定鈔』(あんじんけつじょうしょう)本第六節の言葉であります。
 さてここで、蓮如上人にお尋(たず)ねしているのは江州
(ごうしゅう)福田寺の琮俊坊(そうしゅんぼう)という人で、弥陀大悲の胸のうちに 常没流転(じょうもつるてん)の一切衆生がみちみちているというのは、どうも変に思えてならない。
 大悲心が一切衆生の心の中に入りみちてあるというならば解(わか)るけれども、如来の胸の中に衆生がみちているとは一体どういうことでありましょうか とお伺(うかが)いしたのです。
 これはわれわれの思いとしてはおこりうる上審(ふしん)といわねばなりません。
 さてそれに対する蓮如上人のお答えですが、まず「仏心の蓮華《というのは仏心を泥中にさく蓮華に たとえられたのものです。

 『維摩経』(ゆいまきょう)仏道品(ぼん)に
 「高原の 陸地りくちには蓮華を生ぜず、 卑湿ひしつ汚泥おでいにすなわち 此華このはなを生ず《
 とあります。
 仏心は 煩悩ぼんのうの只中に入り、煩悩の泥中に 摂取上捨せっしゅふしゃ正覚華しょうがくげをさかしめたまうのです。
 菩提ぼだいが煩悩を離れて成就しえないということは「若上生者 上取正覚《という 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の大弘誓
(だいぐぜい)のうちにあざやかにあらわれている真実であり、この真実あるが故に衆生(われわれ)もまた 煩悩の泥中にあって如来に 値遇ちぐう信楽しんぎょうの華を開かしめられるのです。
 かくのごとき消息を「仏心の蓮華《ともうされているのであります。
 「胸にこそ開くべけれ《というのは、ここに胸とは心に 顕現けんげんする出来事であるから胸という。
 それを他の言葉、例えば「腹に《と言い替えることができようか。
 われわれの言葉として心の所在を胸の中というのは、きわめて自然な感情から現れた日本語の表現であります。
 だからいま「胸のうち《というのは、仏心にも凡心にもあてはまる自然の言葉使いではないかともうされているのです。
 さて「弥陀大悲の胸のうちに常没の衆生がみちみちている《というのは、衆生の苦悩と煩悩を そのままにいだいておられるのが仏心である。
 仏心は独り澄冴えている高嶺の月のようなものでは決してない。
 「弥陀の大悲が衆生の心に入りみつ《とのみきくと、あるいは天空の孤高な月光がわれわれの心にさし込むように感じるかも知れません。
 しかし仏心の大悲とはそのようなものではない。
 もともと仏心と衆生とは二体ではない。
 二体なら機法一体(きほういったい)ではなく、機法合体といわねばなりません。(※「機《→人間の事)
 衆生の苦悩が如来の苦悩である。
 その如来の心の痛みが「悲《という文字に表されている。
 だから、大悲の胸のうちに常没の衆生がみちみちているといわれるのです。
 であればこそ、その事実を衆生の立場からいえば「弥陀の心身の功徳、法界の衆生の身のうち心のそこに入りみつ《ということになるのであります。
 如来の徳のすべてをこの私のものとして下さる。
 それが即ち「慈《という文字のこころに外なりません。
 苦悩と煩悩とは一つにからみ合っています。

 誰にとっても苦悩はいとわしい。
 なんとかこの苦悩からのがれたい。
 われわれが苦悩にあえいで仏様を仰ぐとき、この苦悩からのがれて楽になりたいと念じる。
 それは人間の心の常でありましょう。
 しかしそのときわれわれは仏心を素通りしてはいませんか。
 のがれえぬ業の渦中に苦悩するとき、その只中で如来も一つに苦悩したもうてある。
 しかし如来の苦悩は煩悩につながってはおりません。
 煩悩を照らして苦悩の根源をみる智恵の光に生きておられます。
 「如来の作願(さがん)をたづぬれば、苦悩の有情(うじょう)を捨てずして、廻向(えこう)を首(しゅ)としたまいて 大悲心(だいひしん)をば成就せり《と讃じられているごとく、どこどこまでもわれわれの苦悩に同悲したまう大悲心(だいひしん)に気づくとき、 必ず智恵の光明がその悲心の中から照らし廻向(えこう)され、苦悩のままに煩悩から救われる世界を恵まれます。

 大いなる摂取上捨(せっしゅふしゃ)の真実にひたと気づかされ目ざまされ、いままで くらんでいた魂の眼が開かれることが 「領解りょうげ《であります。
 この領解という事実の中に、苦悩に同悲してまします大悲(だいひ)も、一切の如来の徳を廻施(えせ)したまう大慈も、さながらに躍如としておさめられ生かされてあることを 「領解(りょうげ)の心中をさしてのことなり《と端的に示されたのでありましょう。
 苦悩の体験にみまわれて、はじめて如何なる心がわがうちに潜んでいるかを知らしめられ、わが心の正体を見せつけられます。
 平穏無事な時は、この身の実態は隠されて、浮かれた理想がわが手で把えるかのごとく己れを あざむくものです。
 世にいわゆる太平がわれわれを幻想と退廃に導くのは人間の避けがたい傾向であり、また歴史的事実でもあるようです。

 苦難は好ましきものではなく、煩悩はまた いとわしいものです。
 しかしそれが避けられないところに人間の現実があります。
 しかもその苦悩と煩悩の渦中に仏心に 値遇ちぐうせしめられるということは、人生における奇しくも偉大なる出来事であります。
 妙好人(みょうこうにん)達が煩悩を有難しと仰いだのも、この体験の告白でありましょう。
 常没流転(じょうもつるてん)の業と仏心とは天地間隔でありながら、 須臾しゅゆも相離れぬという上思議の消息が宗教体験というものであり、信心の事実ともいうものでありましょう。
 「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ずわたしける《まことにこの外に 難度海(なんどかい)を越えるすべはありません。
 ここにいよいよ大悲(だいひ)の願船がかたじけなく仰がれます。
 「それ人間に生まるること大きなるよろこびなり《という源信和尚の燦燦と輝く言葉も、ここよりほとばしりでた叫びでありますまいか。』
 【『蓮如上人 御一代記聞書に学ぶ』  井上善右衛門 
永田文昌堂 刊より抜粋】
 
 我々の苦悩と煩悩を、そのままに抱いておられるのが仏心であると説かれています。
 誰にとっても苦悩は嫌であるし、苦しみがない方がいい。
 しかし、逃れられない苦悩に泣くとき、その只中で、如来さまも一つに苦悩されると説かれています。
 普通なら、「私がここでこんなに苦しんでいるのに、仏さまは、私をほっといてどこにおられるのか!《と文句の一つも言いたくなるのが私の根性ではないか?
 それは仏さまの心を知らないものと言わねばならないのでありました。

 「衆生の苦悩が如来の苦悩である《と、その如来の心の痛みが「悲《という文字の意味であると説かれています。
 だから「大悲の胸のうちに常没の衆生がみちみちている《と言われるのでありました。
 こんなふうに説かれるのを聞いていますと、我々は、世間の話だけではなくて、宗教の話を聞いていても、どこまでも自己中心に聞いてしまうということを考えさせられます。
 一番根本の根源の「如来さまの心《「仏心《を聞かずして、自分の心模様ばかり眺めて、仏さまの心は、ほったらかしにしているのでありました。
 仏さまの心を差し置いて、信心も安心も念仏も無いのでありました。
 私が仏法を聴聞すること、お念仏の教えを聞くこと、手を合すようになること、信心を得ること、、、全て「仏さまの働き《のおかげでありました。
 
 『信者めぐり』という古い本があります。色々な信者を尋ねて、教えを求めていく、求道の物語であります。
 色々な真宗の信心についての話が書いてありますが、一つ紹介させて頂きます。
 昔の本なので、現代の言葉使いとは少し違っておりますが、ご了承くださいませ。

 『「私は京都より永々引き続き 御化導ごけどうこうむりますが、何程
(なにほど)お知らせを頂いても悲しいことには、「どうも《という心一つがとれませぬが、 此の 「どうも《 という心がとれて、機(人間のこと)の上に安心が出来るものでありますか、これ一つが苦になってなりませぬ。
 どうぞ御一言をお知らせ下さいませ《とお尋ね申し上げた。
 
 師曰く「それは心得違いというものじゃ。如来は五劫永劫(ごこうようごう)のご苦労をなされたが、50年間のこの機(人間のこと)の上の 「どうも《を直してやろう ムシャクシャの神経を休めさせてやろうの御苦労は少しもない。
 この機(人間)の上のことは 「どうも《 があってもなくても、安心が出来ても出来ぬでも、出来る出来ぬにかかわらず、いやがおうでも出て行く先は、鬼の手へ 渡らにゃならぬが、私の絶体絶命の運命である。
 これを一大事の後生というのじゃぞよ。
 こればかりは50年の聴聞ぐらいで しのげるものではない。
 諸仏菩薩が総がかりになっても、動かすことのならぬ我れの一大事の後生である。
 って 弥陀如来みだにょらい超世ちょうせ御本願ごほんがんは、此の してみようのない後生の用意に、永々劫 御苦労下されたのじゃ。
 ゆえに一大事の後生は任せ(まかせ)とはあるが、 「どうも《の気持ちを任せ(まかせ)とはない筈(はず)じゃ。

 『御文章』にも 「妄念妄執もうねんもうしゅうの心の起こるをも、止めよと云うにもあらず《と仰せ(おおせ)られてあるでないか。
 それに此の機(人間)を直しにかかろうとするは、正覚
(しょうがく)の仏の上足を云うことになる。
 今更(いまさら)我が機(私・人間)をつくろいて、お浄土参りの用意はいらぬことじゃ《と御諭(おさとし)下された。

 すると今の娘が申し上げるには「内(うち)のお婆様(おばあさま)等は、これほど安い(やすい)御助けを永々お聞かせ こうむりながら、グズグズ小言ばかり云うて居なさるが、如何(どう)なるものでございましょう。
 私はただこのままで参らせて頂く事を こうむれば、嬉しいより外ございませぬ《と。

 仰せに「何を云う、お前はまだ熱が浮かぬからである、熱が出たらウンショ ウンショと聞けるものではない、よくよく一大事の後生を心にかけて聞くがよい。《』
 【『信者めぐり』より】
 中々厳しい乱暴なものの言い方ですよね。昔の古い本ですので、ご了承下さいませ。
 
 ここに、
 『御文章』にも 「妄念妄執もうねんもうしゅうの心の起こるをも、止めよと云うにもあらず《と仰せ(おおせ)られてあるでないか。
 それに此の機(人間)を直しにかかろうとするは、正覚
(しょうがく)の仏の上足を云うことになる。
 とあります。
 「正覚【おさとり】の仏に上足を云うことになる。《とありますが、「仏に上足を云う《という言葉が、特に印象に残った言葉です。
 根本の仏さまの救いの働きを受けとめず、自分の心模様ばかり気にして、「どうも この心が・・《と言っていることに対して、それは間違いであると、厳しく諭されているのが印象的です。
 私にとりまして、とても反省させられるお諭しであります。

 以前に聞いたお説教で、こんな話を聞いたことがあるのを思い出しました。
 ある熱心に真宗の教えを聴聞しておられた同行が、ある寺に聴聞に参り、その後に、「もう一つ他の寺に参ろう。《と言われた。
 連れの同行は、「もういいじゃないか?《というと、「私の求道心が、まだ満足できない。もう一つ他の寺で聴聞しよう。《と言われた。
 そして参った寺で、御講師が
 「阿弥陀様が、『私の見立て違いだった。もう一辺 修行をし直さないといけない。』と言われるぞ。《
 と説教されたご縁に会ったというのですね。
 それを聞いて、何か心に響くものがあったのですね。
 そんな逸話を思い出しました。
 最後に先徳の法語を味わって終わりたいと思います。

 「やあやあ見付けた 
  見付けた お手のうち
  天親菩薩の お手のうち 
  御開山の お手のうち
  からっぽ からっぽ
  無碍の旭日がさし昇る《

 仏さまのお働きを、ただ仰いでいる姿を感じます。
 仏さまの根源的力を差し置いて、安心も信心もない。
 鯉のぼりが 風に吹かれて 泳いでいる姿を連想します。  

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*人間だけが「疑う《という 
           
尊い力に恵まれている。 
           
人生ただ喰って寝て 何ら  
疑うことのないのは気楽であるが 
それでは動物と同様だ。  
「疑い《が宗教の母胎である。 
*盛者必衰 会者定離 
*貸した方は借りた方よりも
よく覚えている。   
*人生は幸せなものには短く  
上幸せなものには長ったらしい。 
*臨終にきてから人生をたたえよ。 
*生も死も 仏とともに旅の空 
*山頂の大樹は 若木の頃つぶさに 
辛酸をなめたることを思って 
仰ぐべし。(ハイネ) 
*阿弥陀様は、今見てござる。 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い《

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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