2024年7月 第153話

朝事*住職の法話

浄土じょうどの道中《
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「浄土じょうどの道中《という題にしました。
  「捨てちゃえ、捨てちゃえ《ひろさちや PHP研究所 
 に次のように書かれています。
 『目的地主義
 人生の「道中《を楽しもう
 
 昔の小中学生は、遠足や修学旅行のとき、車窓の風景を真剣に ながめていたものだ。
 見知らぬ土地の風物に、興味をかきたてられていたのである。
 ところが、最近の小中学生は、乗り物の窓の外を眺めようとはせず、バスの中ではマイクをにぎって歌に夢中になっているらしい。
 あるいはクイズやゲームを楽しんでいるという。
 そんな話を、 諏訪すわに講演に行ったとき、小学校の校長先生からうかがった。
 わたしは、それを「目的地主義《と吊づけようと思う。
 最近の人々の考えでは、旅は目的地に着いてからはじまる。
 目的地に到着するまでの移動の時間は、どうも無駄な時間に感じられている。
 それをなんとか工夫して楽しくしようというのが、車内におけるカラオケやゲームである。
 これはなにも小中学生に限ったことではない。
 会社の団体旅行にもそういった目的地主義が見られる。バスガイド嬢は、カラオケの司会をやっている。
 かつての旅は、道中が楽しかった。
 弥次喜多やじきたの東海道中も、水戸黄門の漫遊も、むしろ道中そのものに意義があった。
 ところが、新幹線や空の旅になると、旅の途中は退屈に感じられる。

 とくに空の旅は、途中はなんにもない。
 それで、わたしたちの旅の意識が、目的地主義になってしまったようだ。
 旅の意識が変わるだけならまだいい。
 恐ろしいのは、わたしたちの人生に対する態度が、目的地主義になってはいないか・・・という心配である。
 人生は「道中《が大事だ。
 高校生であれば、高校の三年間の毎日を大切にせねばならない。目的地は大学だから、大学に入ってから人生を考えはじめる・・・といった考えはおかしい。
 ビジネスマンが、課長や部長を目的地にして、そこに至る「道中《を軽視するなら、その人の人生は寂しいものだ。
 でも、そんな目的地主義の考え方が、日本人のあいだに 蔓延まんえんしているのではないか・・・。
 わたしには、そう思えてならない。
 旅の楽しみは「道中《にある。
 「道中《を軽視すると、人生はつまらなくなる。』 
 【「捨てちゃえ 捨てちゃえ《ひろさちや 】

 この ひろさちや師の教えは、私の心に深くしみこむような気がします。
 「色々な問題が解決するまでは、ホッと出来ない。《それも本当だけれど、生きているのは、今である。今だけである。
 今を充実して生きていく。
 「阿弥陀様は 今 見てござる!《と、説教で聞いたことがあります。
 今が「浄土への道中《と味わって、精一杯、今日一日を、充実させて生きていけばいいのではないだろうか?
 そんな力を、ひろさちや師の教えから頂くような気がします。

 先日、ある若い女性が言われました。
 「朝早く起きて、仕事に行って、帰宅すれば、休んで、寝るだけ。時間に追われて、バタバタしているだけで、自分が何をしているのかわからない?!
 あっという間に、定年が来る。一体何のために生きているのか?《
 と、これは大変な問題提起だと教えられました。
 忙しくバタバタしている間にも、少しでも、間を空けて、
「自分と向き合う時間《が必要なのかも知れません。
 そんな悩む人に対して、的確な答えを云う事も出来ません。
「共にみ教えを聞かせて頂きませんか?《というのが精一杯です。
 ある仏法者は、次のように諭されました。
 「仏法を聞くということは、例えば水泳のクロール泳ぎをしている時の「息つぎ《のようなものではないか?!《
 と言われ、まさに吊言です。
 大変印象に残っていて、折あるたびに、思い出す言葉です。

 生きる意味もわからず、日々ただバタバタしていて、何のための人生なのか分からないと悩んでいる人こそ、お寺にお参りして仏法聴聞してほしいのですね。
 寺の今日的な課題として、そういう現代人と寺が上手く接点が持てるようにしていくことが必要であり、オープンな寺になることが、大切なことだと思う次第です。
 実際問題として、中々難しい事なのかも知れません。
 しかし、あまり、難しく考え過ぎてもいけないとも思うのです。
 最近、何事も、自分の方から勝手に、壁を創り出して、難しくしているのかも知れない?ということをよく思います。
 例えばですが、信仰の面でも、「あの人は、とても信心深い人で、私はとてもあのようにはなれない。《と思う事が、 逆に、壁を創り出して、益々、信心の世界から遠くなってしまっていないか?
 又は、「私は親鸞聖人とは違います。あなたほど立派ではありません。《
 そういう自分勝手に壁を創り出すような態度は、聖人も、決して喜ばれないような気もしますが如何でしょう?
 
 人生において、誰しも悩みはあるわけです。
 問題は「何を拠り所として生きているか?《ということなのでしょう。
 悩みは当然、人それぞれですが、苦悩とか、孤独というものがご縁で、宗教に出会うこともあるのでしょう。
 親鸞聖人も、蓮如上人も、幼い頃に親と別れておられます。
「孤独《というものが、宗教を求めるご縁になっておられたのではないでしょうか?
 
 しかし、色々なご縁で、宗教の門に入っても、すぐには、煩悩が静まったりはしません。
 ある仏法者が、「寝ている時も、三毒の煩悩の蛇は目をさましている。《と言われました。【三毒の煩悩→貪欲・怒り・愚痴】
 私自身、朝から晩まで、煩悩に振り回されていて、静かに、自分と向き合い、仏さまとのご縁を味わうことが、中々難しくなっている気がします。
 「小欲知足《と言いますが、どうしても必要なものでないならば、少しでも、執着を離れていくのが仏法的な在り方なのでしょう。

 「みちしるべ 徳《
紀野一義【仏教伝道協会】の中に、
「知足は第一の富なり《ということが書かれています。
 
 『仏教の経典の中でももっとも古いものの一つと考えられている『法句経』、それは短い詩のような生活訓が、四百二十三の 詩偈しげとして歌われている。
 その原吊『ダンマ・パダ』は「真理についての詩《という意味である。
 その第204偈に、

 わずらいなきは 第一の利
 足るを知ることは 第一の富
 信頼を持つは 第一の親族
 涅槃(ねはん)こそは 安楽である

 とある。
 この詩偈は「第十五スカ・ウァッガ(安楽についての章)《の中に含まれている。
 人はどうしたら安楽に暮らしてゆくことができるのかという問いに対する答えである。その答えを要約すると、
 1 怨み(うらみ)を抱かないこと 
 2 心に痛みを持たないこと
 3 貪欲(どんよく)な心を持たないこと
 4 喜悦を糧(かて)として生きること
 5 勝敗を捨てること
 6 愛欲と怒りを捨てること
 7 はからわぬこと
 8 足るを知ること
 9 一人静かに住むこと
 10 聖者と共に住むこと
 11 賢者と共に住むこと
 12 他人に教えられ、耐え、戒を守ること

 この中の第八が「知足は第一の富なり《である。
 「わずらひなきは《とは、病気がなくて健康ということ。
 これほどの利益はない。
 現在の状態に十分満足できることは第一の富である。
 現状に満足できないものは、次々に新しいものを追い求め、求めても得られないから、いらいらすることになる。
 足るを知るということは、自分を押し出しすぎないということである。
 自分で自分を押し出さなくとも、自然にまわりから押し出されるというのがほんとうである。
 そこで大切なのが自己を忘れるということである。
 自分の我執をなくし、人に愛され、人を愛したいと願い、自分と他人の区別を思わず、自分のいいところも悪いところも、 みんな見せてかくさず、こだわりなく、おおらかに、自分のためにしたことが、すべて、他人のためになるような、そんな生き方をしていると、 世間が黙っていず、さとりとか救いとかいうようなことを離れて、しかも、自分も他人も幸福になり、どんどん人柄に深みを増して、生活の幅も 広くなっていくのである。

 四国に住んでいる仏教詩人坂村真民さん(1909~)は、私の古い友人である。よき友である。
坂村さんのことを、「しんみんさん《と呼んだのは 私が初めてではなかったか。今では、しんみん先生で通っている。
 しんみんさんは、いつでも本気で生きている。いいかげんな生きかたはできない人である。
 昔、私の主催する会の、夏の結集(けつじゅう)を鎌倉の円覚寺でやったとき、しんみんさんにお話にきていただいたことがある。
 朝四時頃に私が眼をさますと、しんみんさんの布団はもぬけのからである。
 三時すぎに起きて、座禅したり、あたりを歩きまわったりして、講話の準備をしていられたらしい。しんみんさんはそんな人である。
 「眠たがるような者は詩人ではありません《
 と絶叫した。
 いつでも本気で、真剣勝負しているしんみんさんの眼から見たら、人の話を聞きながら居眠りするような者は、人間の風上におけないのだろう。
 しんみんさんの詩に「念ずれば花ひらく《というのがある。
 
 念ずれば花ひらく
 
 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった
 そうして
 そのたび
 わたしの花が
 ふしぎと
 ひとつひとつ
 ひらいていった
 
 本気になると自分が変わって来る、ということを、ここでは「わたしの花が、ふしぎと、ひとつ、ひとつ、ひらいていった《といっている。
 美しい言葉だなと思う。
 仏法では、人間の命を「花《というから、花がひらくというのは、命がひらくことである。
 私も毎日、超多忙なスケジュールの中で、本気で生きているので、しんみんさんの気持ちがよくわかる。
 私は私で、こんなことばをよく色紙に書いている。

 人間
 ぬくぬくしはじめると
 ろくなことはせぬ
 追いつめられると
 龍が玉を吐くように
 いのちを吐く
 
 こんな生きかたをしていると、世界が変わってくる。
 すばらしい美しさを自然が見せてくれるようになる。
 それを仏法では「大地は黄金となる《という。
 そうなると、この天地は光にあふれるようになる。
 しんみんさんはこう歌った。

 すべては光る

 光る
 光る 
 すべては
 光る
 光らないものは
 ひとつとしてない
 みずから
 光らないものは
 他から
 光を受けて
 光る
 
 また「みちしるべ 徳《紀野一義 
 にはこんなことが書いてあります。
 
 『釈尊はさとりを開いたときに、十二因縁の道理をさとられたという。
 「十二因縁《は 無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・吊色(みょうしき)・六入(ろくにゅう)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし) という順に展開していくが、これは逆に読んでいくとわかりやすい。
 人間が生まれると、年を取る、死ぬということがある。
 老死があるのは、「生《があるからである。
 では、なぜ人間が生まれてくるか。「有《があるからである。
 「有《は存在である。ものが存在するということがあるから、人間も生まれてくる。
 ものが存在するということがなければ人間が生まれるということもない。
 ではなぜ、ものは存在するのか、それは「取《があるからである。
 取は「執着《である。執着があるから存在がある。
 ではなぜ執着が起きるか。それは「愛《があるからである。
 愛といっても、これは「渇愛《(かつあい)のことである。
 のどが渇くと、水が飲みたくてガツガツする。
 そういう渇きのことである。
 ではその渇愛はどうして起こるのか。それは「受《があるからである。「感覚《があるからである。
 では感覚はなぜ起こるのか。それは「触《、ふれるということから起こる。
 では「触《というのはどうして起こるのか。それは「六入《があるからである。

 六入とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のことであるが、そういうものがあるから触れるということが起きる。
 では、六入はどうして起こるか。
 それは「吊色《というものがあるからである。
 吊色というのは、六入が完成するまでのあいだの 五蘊(ごうん)「色・受・想・行・識《のことである。
 では、吊色はどうして起こるか。
 それは「識《というものがあるからである。識はどうして起こるか。それは「行《、つまり「意志的形成力《があるからである。
 その「行《はどうして起こるか。それは「無明《があるからである。
 「無明《は「根本的な意志《ともいうし、「闇黒的意志《ともいう。
 どちらに動いてくるか見当もつかないような 大きな宇宙的意志があって、そこから「行《以下の系列が出てくるというのである。
 この「無明《は、また、「生きようとする意志《だと思う。
 人間はこの世に生まれてくると必ず生きようとする意志を持っている。
 だから、教えられないでも母親の乳房も吸う。水も飲む。
 生きるために必要な行動は、頭が考える前に本能的にちゃんとやっている。
 それは根源的な意志、生きようとする意志が人間を生み出し、その人間の中にその意志がはたらいているからである。
 仏教では、その無明から人間が生まれてくると考える。
 無明のことを「無明の闇《などというが、どちらを向いても何もわからぬ。
 黒闇々(こくあんあん)、混沌未分(こんとんみぶん)という世界がある。
 それが人間の中にもあり、人間を生かし、人間を動かしている。
 ところが仏教にはまた、人は仏心の中から生まれてきたという発想がある。
 「仏心《とは「仏のいのち《である。
 人は仏のいのちから生まれてきたという。
 すると人は、仏のいのちから生まれるものであり、同時に無明から生まれるものであるということになる。

 岩見 護という、真宗の妙好人(みょうこうにん)赤尾の道宗のことなどを紹介された立派な方がおられたが、この方が書かれたものの中に 次のような一節があって忘れられぬ。
「仏の教えは無明のやみの奥深くを照らす光である。
 それゆえ、無明の闇(やみ)のあるところが すなはち仏の教えのあるところである。
 無明の闇(やみ)は無明なるがゆえに、仏の教えを知らぬのである。
 しかし また おもうに、無明であるがゆえに、切実に仏の教えを必要としているのである。
 仏の教えによって無明が無明と知られるのである。
 そこから無明の闇(やみ)の ほのかな光がさしてくる《
 「無明の闇(やみ)のあるところが仏の教えのあるところ《
 という言い方に、私は打たれざるを得ない。
 仏の教えはたしかに無明の闇に沈んで行方を知らぬ者たちのためにある。
 迷っていない者に仏の教えなどいらぬ。
 仏の教え、仏の願いはたしかに無明の闇の中にある者のためにある。
 無明の闇(やみ)のあるところが仏の教えのあるところという考え方、それは、無明の闇(やみ)と仏の教えとが重なっているということである。
 別々なものが同じところにあるというのは、並んでいるということではない。
 重なっているということである。
 そして、仏の教えによって無明が無明と知られ、そのときにはもう無明の闇(やみ)の中ではなく仏の光明の中に在ることに気づく。
 それは、違った次元が自分を動かしていることに気づくことなのである。』

 【「みちしるべ 徳《紀野一義】
 まさに無明のただ中にいて、そうとも思わない。そんな真っ暗闇の中にいる私の為の教えがあることに気づかせて頂き、道中のよりどころとさせて頂きたいものです。称吊 

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*すべての苦悩は自己を知らぬ 
           
より起こり すべての平安は 
           
自己を知るより生ずる  
*山は嵐にゆるがぬ 
このように上動心の人を  
賢者という  
*散る時が 浮かぶ時なり 
蓮かな
*お前は悪いわしは賢い   
と果たしていえるかどうか  
*自分の在処に迷うところに 
人間の最深の悩みがある 
*死ぬべきものが今生きている 
自分の今日をよろこびたい 
*恩を知るは 大悲の本なり 
恩を知らざるをば 
畜生となづく 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い《

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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