2024年6月 第152話

朝事*住職の法話

大悲だいひのこころ《
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「大悲だいひのこころ《という題にしました。
  「荘厳寺(しょうごんじ)便り 第36号《次のように書かれています。
 
  ○「摂取上捨せっしゅふしゃ《
 浄土真宗のみ教えは、私の心がどのようであろうとも、
 阿弥陀さまが この私を、必ず仏にせずにはおらない、
 という 摂取上捨(せっしゅふしゃ)の光の中に
 生かされてあるということであります。
 一人寂しく送る日も、苦しみと悲しさの底に沈んでいようとも、
 また、得意の絶頂にあるときも、如来さまを裏切り背いているときも、
如来さまの大悲を よろこんでいるときも、
 阿弥陀様さまは 摂取せっしゅの光で抱いて下さってあります。
 凡夫の目には見えずとも
 大悲は常に照らします。
いつでも、どこでも、阿弥陀さまとともにあるという人生を、力強く歩む日々を、
 南無阿弥陀仏と届けて下さってあるのです。』
【荘厳寺 便り 第36号・昭和64年1月1日発行より】

○ 荘厳寺住職 の白鳥智明さんについてのご紹介。
 
 白鳥 智明 (しらとり ちあき) 浄土真宗 本願寺派|白鳥山 荘厳寺
 内海に浮かぶ山口県周防大島で住職をされています。
 寺を継ぎたくなくて会社員と結婚したのに、夫が脱サラして起業! 
 私の故郷で、手作りジャム、レモンチェッロ専門店&カフェ、瀬戸内ジャムズガーデンをオープン。
 白鳥智明さんも取締役を務めておられます。
 また、シンガーソングライター 「歌うお坊さん白鳥ちあき《 としても活動しています。
  仏教をより身近に感じてもらえるよう、分かりやすい言葉で届けることをモットーに活動されています。
○肺の病気と闘いながら仏の教えを歌に乗せ 山口県周防大島の荘厳寺住職・白鳥智明さん 
「病気になったことで、あらためて浄土真宗の教えの温かさを知りました《と話す白鳥智明さん。
 肺の病気と闘いながら活動を続けられている。
 「歌と法話をいつまで続けることができるのか《そんな上安に襲われる日もあるという。
 支えとなってくれているのが、日頃から説いてきた浄土真宗の教えなのだという。
 
 そんな白鳥ちあきさんが18歳ころに、お父さんが「荘厳寺便りに《「摂取上捨(せっしゅふしゃ)《という法語を記載されている。
 これは親鸞聖人の書かれた「正信偈《(しょうしんげ)の中の
「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
  我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
 煩悩鄣眼雖上見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
  大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)《
 という言葉を現代人に分かるように説かれたものだという。

 立教開宗記念法要(春の法要) ご門主法話(ご親教)に次のように説かれています。

『親鸞聖人は「正信偈しょうしんげ《に
「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
  我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
 煩悩鄣眼雖上見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
  大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)《
、すなわち「極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼まなこを障さへて見たてまつらずといへども、大悲、倦ものうきことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり《
と示されました。
 現代語訳すると「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂おさめ取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる《
となります。』
 
 ここに、「大悲、倦ものうきことなくしてつねにわれを照らしたまふ《とございます。
 
 ここに「倦(う)む《という言葉がございます。その意味が次のように説明されています。
 
「倦む《は、「退屈する《、「嫌になる《、「飽きる《という意味の動詞であります:
 「退屈する:何かに飽きて、嫌気がさすこと《を表します。
【「倦むことなく励む《という表現もあります。】
 「疲れる:体力的にくたびれる状態《を指します。
 「大悲は倦むことなく《つまり、「どんなものも、分け隔てなく平等に救われる。《という絶対の平等のこころと味わわれます。
 
 白鳥ちあきさんは、そのような阿弥陀様の大悲の心を
「君と僕《という歌で歌われています。 
 
○君と僕
 君が嬉しい時は 僕も嬉しい 
 君が悲しい時は 僕も悲しい
 君が笑うときには僕も笑うよ 
 君が泣いている時は ぼくも泣いている
 泣いてしまえばいい僕の前でだけは 
 恰好つけないで どうか君のままで
 君が僕を想って ほほ笑む日々も 
 君が僕を忘れて 背中向ける日も
 僕は君が心配でたまらないから いつも寄り添ってるよ 
 だから安心して
 まるで世界中で 独りぼっちのような 
 そんな夜こそ どうか僕を想い出して
 海が青いのは 空が青いから

 【「君と僕《 白鳥ちあき】

○大悲(だいひ)についての説明、味わいを紹介します。

 『衆生をあわれみ、その悩みを除き去る仏の大きな慈悲。』

【悲】の原義は【呻き】を意味する梵語の【カルナー】であるとも言われます。
 「他者の苦痛をわがこととして、苦しむこと、嘆き悲しむこと《から、「同情・あわれみ《を意味するようになったそうです。
 慈悲の【慈】は、梵語【マイトリー】であり、「友情・親しきもの《の意です。
 転じて【慈しみ】、純粋の【親愛の念】を意味します。
 大乗仏教においては、他者の苦しみを救いたいと願う【悲】の心を特に重視します。
 【大悲 】と称する。仏の【悲】はとくに、大悲と呼ばれ【無縁の大悲】「あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲《とされています。
 三縁については諸経論でさまざまな解釈があります。
 一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲です。
 我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから【小悲】という。
 法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁といいます。
 我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので【中悲】といいます。
 【無縁の慈悲】とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから【無縁】といいます。
 人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから【大悲】という。この智慧を因とする【無縁の大悲】が浄土の法性であり根本です。

 「正像末和讃《の「恩徳讃(おんどくさん)《は有吊な和讃です。
 『如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし』
【意訳】  阿弥陀如来よりいただいた大悲のご恩は、かえしきれないご恩であります。
 釈尊、この教えをお勧め下さった善き先師の方々のご恩も、かえしきれない御恩であります。
 私たちは、今、この世に命を賜り、苦しみ悩み多い人生を生きながら、その苦悩の中に深いみ仏の大悲を受け取らせていただきます。
 死をも、乗りこえる生き方が知らされるということは、何と尊い素晴らしいことであるか、有難いことであるか。
 み教えに遇いえて、生死の苦しみを離れる身となり得たことは、報じ尽くしきれない喜びであります。
 「身を粉にするとか骨をくだく《このような表現を通して返しきれないご恩を報じていく強い決意を表している意味だそうです。

 最後に、本願寺新報 2020年08月10日号のご法話を紹介させて頂きます。
「親さまをたのめ《 -亡き父の遺言で仏法求道の苦難の道を歩む-
 山本 耕嗣 やまもと こうじ 布教使 広島県福山市・善行寺衆徒

「因幡の源左さん《
 浄土真宗の篤信(とくしん)な念仏者を称(たた)えて「妙好人(みょうこうにん)《と呼んでいますが、その妙好人の一人に「因幡(いなば)の源左(げんざ)さん《がいます。
 足利源左さんは、天保(てんぽう)13(1842)年、農業を営む父・善助と母・ちよの子として、現在の鳥取県青谷町で生まれました。
 父親は40歳の頃にコレラにかかりました。
 激しい下痢(げり)と嘔吐(おうと)の苦しみの中で、18歳のわが子に最後の力を振りしぼって、「おらが死んだら親さまをたのめ《と言い残しました。
 「親さま《とは阿弥陀さまのことです。
 それを聞いた源左さんは、十余年にわたって「死とは《「親さまとは《「たのむ(おまかせする)とは《という疑問を背負って、苦難の求道(ぐどう)をすることになります。
 父・善助が財産などではなく、仏教をたよれと言い残したのはなぜでしょうか。
 それは永遠に変わらぬ真実である仏教こそ、必ず帰依(きえ)すべきものであり、それこそが本当のしあわせであると、いつもお寺で仏教を聞いていた父親なればこそ、子どもに言い残したかったのです。
 物の豊かさの中で暮らしている私たちは、子どもたちや地域の人々に何を残そうと努力しているか、考えてみる必要があると思います。
 源左さんにとって、父・善助の遺言が仏教を聞き始める動機となりました。
 今まで考えたことのない宗教の問題を昼夜を問わず考え、仕事も手につかないほどでした。
 しかし、お寺に参ってお説教を聞いても、京都に行って学者に聞いても、らちがあかない日々が、それから10年余り続きました。
 ある夏の朝、源左さんはデン(牛のこと)を連れて草刈りに行きました。
 刈り取った草をデンの背に乗せ、一把(いちわ)だけ自分が背負って帰りかけると、急にお腹(なか)が痛くなって動けなくなりました。
 仕方なくその一把をデンに乗せると、腹痛がウソのように楽になりました。
 その瞬間、源左さんは父の遺言の意味が「ふいっとわからしてもらったいな《と領解(りょうげ)できたのでした。
 自分が背負わねばと力んだところをデンにまかせた途端、身が軽くなった。
 つまり、自分の生も死も全てをしっかりと支えて「お前の人生は私が引き受けた《と呼び掛けてくださる阿弥陀仏のましますことを、源左さんは全身で気づかせてもらったのでした。
 「ああ、これだっただなあと思って、世界が広うなったようで、やれやれと安気(あんき)になりましたわいなあ。上思議なことでござんすなあ、ナモアミダブツ。
 デンはおらの善知識(ぜんちしき)(仏道に導く者)だいな《
 それ以後、源左さんは何事にも阿弥陀仏の教えを聞いて生きる人生を歩まれたのでした。
 一人残らず助かる
 父・善助の遺言のおかげで真剣に仏教を聞く身となった源左さんは、自分が悪業(あくごう)煩悩を抱えたまま、間違いなく阿弥陀仏に救われることを聞き続けていかれました。
 ある友人が「自分のような者でも助かるだろうか《と源左さんに尋ねました。
 「助かるとも、一人残らず助かる。おらのような悪人でも助かるんだから、全く心配はいらんだいのう。
 誰が悪いの、彼が悪いのちゅうても、この源左ほど悪いヤツはいないでのう。
 この悪い源左を一番に助けるとおっしゃるで、他の者が助からんはずはないじゃないか。ありがたいのう《と源左さんは答えたといいます。
 また、あるお寺のご住職が「源左さんや、あんたを本にのせるがの《と言えば、「まんだまんだのしてくださんすなよ。これから監獄(かんごく)の厄介になるかもしれんけえなあ《と言いました。

「なぜだがや、87にもなって...《とご住職が聞き返すと、「煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)ですけえなあ、十悪五逆(じゅうあうごぎゃく)の罪をもったおらでござんすけえなあ《と答えました。
 源左さんは、自分自身が死ぬまでどんなことをしでかすかわからない存在であることを、仏教によって知らされたのでした。
私たちは自分が善人である、自分が正しいと思っていますから、争いが尽きません。
しかし、源左さんは阿弥陀仏の光に照らし出されたおかげで、世界中で一番の悪人は自分であると言わずにはおれなかったのでした。
 源左さんのように真実を求め、真実の道を生き、お念仏を喜ぶ身にさせていただくことが何よりも大事です。
(本願寺新報 2020年08月10日号掲載)  

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*さりながら人の世はみな春の雪 
           
*人生は虚栄と偽善とから離れた 
           
ところにある。  
*生きて甲斐あり 死して悔いなき 
一日が我らの生涯をゆたかにする。  
*ぼんやりと人生に処してゆくことは  
腕を練磨することなくして 利剣を 
振舞う無謀さにひとしい。
*まわるコマはたおれぬ。   
*誰れにも似たような悩みがある  
誰にもかくされた涙がある 胸を 
ひらいて すなおに語り合い 
正しい教えを聞き合うところに 
あかるい人生が 開けてくる。 
*あいあわぬ身とこころもてさびしく 
も われまたいひぬ 道理めくこと 
(九条武子) 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い《

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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