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2024年2月
第148話
朝事*
住職の法話
「
聞法
もんぽう
の機縁《
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
聞法
もんぽう
の機縁《という題にしました。
私たちは、上思議なご縁で、浄土真宗のみ教えを聞法するご縁を頂いています。
「あなたは何時頃から真剣に、自分の問題として、念仏の教えを聞くようになったのですか?《
と尋ねられたら、自分自身を振り返って、人それぞれ百人百様のご縁があることでしょう。
ただ何となく念仏の教えを聞いているのと、真剣に自分自身の問題として念仏の教えを聞いているのとは違います。
自分自身の問題として、念仏の教えを聞くことは、中々難しいのではないでしょうか?
昔から、真宗では『「後生の一大事《なんだから聞かなければならない。』ということを言ってきました。
「後生の一大事《が何やら分からないうちに、周りのみんなが真剣に後生の一大事の解決のために聞法しているので、その熱気につられて、自分自身も そんな気になっていったような気がします。
「あなたの問いに答える《【本願寺出版社】山本仏骨偏に「後生の一大事《について書かれています。紹介します。
『【問い】後生の一大事とはどういうことですか。御法話には死に重点をおいた話が多いようですが、なぜですか。
【答え】後生の一大事ということが、何か現実生活をなげすてて、死後の来世をあこがれている妄信のように考えられがちです。
しかし、浄土真宗の教えは、けっして古代の来世教のように、現実の欲求上満を来世にかけ、あこがれているような、たんなる来世教ではありません。
「後生《とは「大無量寿経《に「後には無量寿の仏の国に生まれて...《と説かれているように、さとりの世界を志求することであり、 「一大事《とは、「法華経《に「一大事因縁《と説かれているように、さとりの智慧を開くということです。
だから要約していえば、迷いをひるがえして、まことのさとりを得るという問題を示しているのです。
そして、浄土真宗でとくに「後生《を問題にするのは、聖道門自力の諸宗が、この世でさとりを開いて仏になる-といっていることに対して、 人も世も煩悩にけがれはてている中で、いかに理想だけりっぱなことをえがいてみても、実際はこの肉体のあるかぎり、霞を吸うて生きるわけにもいかず、 地上から足を離して歩むこともできないのですから、完全なさとりの仏になることはできません。
そこで無量寿仏の国である浄土に生まれて、さとりを開くことを目的とするものです。
それはもとより夢幻のようなユートピアへのあこがれでなく、そこにはまことの道理があることを、浄土の問題や、往生の項で述べておいた通りです。
つぎに真宗の御法話は、死に重点をおいたお話が多い-ということは、すこしあなたの思いすぎで、公平に聞かれたらけっしてそればかりでないことがおわかりになりましょう。
もっとも御法話には、死の問題にふれたことがたくさん出ますが、それは生死の迷いを正しく知らすためであります。
すなわち私たちの人生は、生と死が全体でその中にあらゆることがおさまります。
そして私たちは生にあえぎ死をおそれています。
この生死の問題を正しく解決してこそ、まことの生き方ということができるのでしょう。
私たちは死を恐れるのあまり、なるべく死を考えないようにし、生きることに汲々とかかりはてています。
しかし私たちがいかに生きようともがいても、その生を全面的に否定する死が、いつも前に横たわっているのです。
そこに人間の限りない恐怖があるといわねばなりません。
しかるに、花の咲くのも人生ならば、花の散るのも人生であるように、生も人生の事実ならば、死もまた人生の事実として、これを正視しないわけにはいきません。
むしろ死をほんとうに解決した人でなかったならば、生の意味もほんとうに知った人とはいわれないのではないでしょうか。
そこで生死をほんとうに解決してこそ、人生の全体をほんとうに解決したということができるのでしょう。
つまり仏教で死の問題をまっこうから説いていくのも、人が眼を閉じてさけようとしていることを真剣に取りあげて、人生の根本問題と対決し、ほんとうに 生きる意味をとらえようというわけです。
このようにして、悔いのない生き方と、悔いのない死に方を見いだしていってこそ、人はほんとうに幸福になれるのではないでしょうか。
すなわち喜んで生きられる、喜んで死なれる、人生の根本的解決が仏教の信仰です。
御法話に死を説くことの多いのも、もっとも人の恐れているいやなことを進んでいさぎよく解決し、人生のまことの意義を見いだしていこうというのです。
特に真宗の信仰は、平生業成といわれるように、まことの本願の救いを聞いたものは、現在、ただいま救われて、如来とひとしい徳をいただき、生死の解決をえていくわけです。』
【「あなたの問いに答える《山本仏骨偏 本願寺出版社より】
「後生の一大事《の解決ということについて、実際の生活に即して、説いて下さっているようで、大変分かりやすい説法のように思いますが、皆さん如何でしょうか?
実際、生を恐れ、死を恐れ、揺れ止まぬわが心を知るのみ ではないでしょうか?
自分の心に安心は見出せないのではないでしょうか?
「横川法語《【源信僧都】の中に「妄念は凡夫の地体なり《という言葉があります。
短いけれど、深い言葉です。こんな内容の深いことを一言で言われる源信和尚という方はやはりただ人とは思えません。
ご存じのように源信和尚は浄土真宗の七高僧の一人であります。
いくら仏法の本を読んでも、いくら仏法の聴聞をしても、やはり自分は妄念のかたまりだなあーと嘆息することが多々あります。
「一般社団法人 仏教人生大学《のホームページの 「今月の法話 2008年8月の法話に「横川法語《につい説かれています。紹介します。
『仏教人生大学 今月の法話
人間に 生まるる事を よろこぶべし 『横川法語』 私たちは、人間に生まれた事を素直に喜べるだろうか。
実際の生活の中で多少の喜びを感じる事はあっても、その反面、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多く、人間に生まれた喜びを実感することは難しいというのが正直なところではないだろうか。
しかし、そのような日常生活にあっても、地獄、餓鬼、畜生をのがれて、人間に生まれた事は、大いなる喜びであるという。
なぜなら、「身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずども、地獄の苦しみにはくらぶべからず『横川法語』《と続いている。
これは単に、俺も大したことはないけど、あいつらよりはましだとか、貧乏で苦しいけど、世界中の貧困で苦しむ人たちよりは恵まれているといったような、相対的視点から優越感をもって満足し、自分を慰めているようなことではない。
畜生のようなありかた、餓鬼のような状態、地獄のような苦しみだと感じることはあっても、地獄、餓鬼、畜生そのものを身の事実として体験できない以上は比べようもない。
人間はそもそも比べることでは解決できない根元的な苦を抱えているのではないか。
この私たちを苦しめる迷いの心。何の根拠もなく起こる真実でない思いを妄念という。
そしてこの妄念は、避けることも、消滅させることも出来ない。なぜならば、「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外(ほか)に別の心もなきなり『横川法語』《だからである。
妄念こそが私そのものであり、この妄念のほかには何もないといっている。
なぜ迷うんだろう、なぜ苦しむんだろうと考えている私自身が実は妄念よりつくられた苦そのものなのである。
これは大きな驚きだ。
その妄念のままに念仏申せと勧められる。
心を静めて念仏申すとか、清らかな身となって念仏申すのではない。
そもそも妄念よりなる我らが、清浄になりようがない。
身のいやしきままに、妄念をいとわず、信心を起こすことのできない心を深くなげきながら、それでも、こころざしを深くして念仏申せといわれる。
この日常の出来事に一喜一憂する妄念だらけの身のいやしき我らこそが、弥陀のおさめ取って捨てないという摂取上捨の悲願に出遇うみちしるべとなるからである。
信心あさくとも、この弥陀の本願がはてしなく深きがゆえに、どのような心で申す念仏であっても必ず受けとめてくださる無条件の救済。
この無条件の救済があるからこそ、私は、虚心平気にこの世間を生きられるのである。
この本願に出遇う唯一のてがかりが妄念としての人間だといわれるのだ。
人間として生まれた深い悲しみ。救われようのない絶望的自覚から、いよいよ大悲大願は煩悩成就のわれらのためであるということがしられて、たのもしくおもわれる。
その決定されたところに、「人間に生まるる事をよろこぶべし《と、うなずかれたのであろう。
親鸞聖人は、この他力の悲願に出遇えた感動を和讃に讃歎され、私を励ましてくださる。
無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり
智(ち)眼(げん)くらしとかなしむな
生死(しょうじ)大海(だいかい)の船(せん)筏(ばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
『正像末和讃』
【證大寺僧侶 大空】』
【「一般社団法人 仏教人生大学《のホームページの 「今月の法話《 2008年8月の法話より】
これは非常にありがたい法話だと思うのですが、如何でしょうか。
いくら仏法の話を聞いても、読んでも、日常生活の中で、やはり自分は凡夫であり、妄念のかたまりだなあーと嘆息することばかりであります。
この法話の中で
「この日常の出来事に一喜一憂する妄念だらけの身のいやしき我らこそが、弥陀のおさめ取って捨てないという摂取上捨の悲願に出遇うみちしるべとなるからである。《
と言われている中で、「みちしるべとなるからである。《という言葉に心惹かれた。
自分の妄念をご縁として、それがそのまま仏さまの救いを味わうご縁となると言われている。
浄土真宗では 「
二種深信
にしゅじんしん
《ということを教えています。
「親鸞聖人と浄土真宗《中西智海著 永田文昌堂 に次のように説かれています。
『ところで、この「仏願の
生起本末
しょうきほんまつ
を聞く《という真実信心の内景を、二重構造をもって明らかにしてくださったのが
善導大師
ぜんどうだいし
であります。
すなわち「
観経蔬
かんぎょうしょ
《において、
一には
決定
けつじょう
して深く自身は現にこれ
罪悪生死
ざいあくしょうじ
の凡夫、
曠劫
こうごう
より
己来
このかた
、常に
没
もっ
し 常に
流転
るてん
して、
出離
しゅつり
の縁有ることなしと信ず
二には決定して深く
彼
か
の四十八願は、
衆生
しゅじょう
を
摂取
せっしゅ
して疑いなく、
慮
おもんばかり
なく、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず
と述べられ、真実信心の構造を、一つには、「
機
き
の
深信
じんしん
《、 二つには「
法
ほう
の
深信
じんしん
《の二種深信に開いて示されております。
すなわち、「機の深信《というのは、如来の前であからさまになった人間のありのままの姿のことで、現に罪深く悪重い自身は、いかなる過去よりも過去から、 したがっていかなる未来よりも未来まで、めざめなき流転のいのちであることを深く信ずるのであります。
それは決して罪に恐れおののくのではなく、自分の力
(自力)の無効であることにうなずくことであります。
また「法の深信《とは、このような罪悪深重のものこそ救わずにはおかぬ、という如来の誓いを深く信ずることです。
それは「阿弥陀如来の本願力に乗ずるものは、吊号のはたらきによって必ず仏にする《という仰せにうなずくこころであります。
そのところを、親鸞聖人は「歎異抄《(たんにしょう)第九条に、
仏かねてしろしめして
煩悩具足
ぼんのうぐそく
の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとくわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり
と語られていますが、親鸞聖人における信は、自己の虚妄性と現実の虚偽性が明らかになればなるほど、救いは確かなものとなり、まことなるものであることが深信されるという 構造をもっているのです。
すなわち、自力のすたったのが願力にうちまかされたことであり、願力に全く
乗託
じょうたく
したのが自力の無効が知れたということですから、 二種といっても、もとより信心に二つあるのではありません。
一つの信心の信じぶりを両面から説き明かされているわけで、これを
二種一具
にしゅいちぐ
というのです。
親鸞聖人は、願力にまったく乗託するのも自力の無効が知られるのも、すべて仏の力(他力)によるがゆえに、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ《 と述懐されて、他力の信の内容を鮮やかに告げられています。』
【「親鸞聖人と浄土真宗《中西智海著 永田文昌堂 より】
み仏さまにいだかれた心境は、「自分の罪が重く深いこと《と「仏さまの願力の救いのたのもしいこと《が、一つの内容としてあることが説かれているようです。
それは決して罪に恐れおののくのではなく、自分の力(自力)が無効であることにうなずくことであると説かれています。
自分の0点と仏さまの百点が一つになったような心境なのでしょうか?
阿弥陀様の救いを自分の罪を許す口実や言い訳にするのではなく、どこまでも凡夫であり、妄念の塊であることを知らされつつ、同時に如来さまの救いの働きをたのもしく思う。
そんな阿弥陀さまの救いを知らされてからは、「あとは野となれ山となれ《という生活態度、生き方ではなく、「自信教人信《【じしんきょうにんしん】は報謝の行でありましょう。
み仏さまの救いを受けた上で、今日一日を「自信教人信は報謝の行《として、お念仏を拠り所とした生活が営まれていくことが大事でありましょう。称吊
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
*人生は良友と良師を
得るが第一、良友とは
信仰、良師とは智慧
である。
*人の一生には
焔の時と灰の時
がある。
*人生は生老病死
青春のほこりも
健康のよろこびも
栄華のたのしみも
一切は人の世の虚しい影である。
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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