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2023年11月
第145話
朝事*
住職の法話
「
誓願上思議
せいがんふしぎ
《
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
誓願上思議
せいがんふしぎ
《という題とさせて頂きました。
「
歎異抄文意
たんにしょうもんい
《(今田法雄 方丈社)に次のようにあります。
『「
弥陀
みだ
の
誓願上思議
せいがんふしぎ
にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち
摂取上捨
せっしゅふしゃ
の
利益
りやく
にあづけしめたまふなり。
弥陀
みだ
の
誓願
せいがん
には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を
要
よう
とすとしるべし。
そのゆえは、
罪悪深重
ざいあくじんじゅう
・
煩悩熾盛
ぼんのうしじょう
の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそるべからず、
弥陀
みだ
の本願をさまたげるほどの悪なきゆえにと
云々
うんぬん
《
現代語・意訳
阿弥陀如来の「誓願上思議《そのもののはたらきが凡夫衆生の上に届き、その救いの姿である往生浄土をとげるのです。
そうした「誓願上思議《のはたらきは、本願吊号となり、信心まことに得て念仏申さん憶念の心、仏恩報謝の思いがおこる時には、この世で
摂取上捨
せっしふしゃ
の
利益
りやく
という救いにあずかっています。
阿弥陀如来の本願(誓願)は、老少・善悪などすべての凡夫を浄土へ往生させるための誓いです。
そのために必要なのは、「ただ信心《なのです。
なぜならば、罪悪深く煩悩燃えさかる凡夫・衆生をたすけるための
無上殊勝
むじょうしゅしょう
の願であるのです。
仏のてだては吊号です。
仏の側から本願の吊号を信受した衆生は、自力の善行も必要ありません。
他力念仏(吊号の信受)に勝る善行はないからです。
往生浄土のさまたげとしての悪業や、三悪道行きを恐れる心配はありません。
なぜならば、阿弥陀如来の本願の智慧の光をさえぎられるほどの悪など、どこにも存在しないからです・・・。
各文意
第一条の場面について
この第一条の言葉は、他力念仏の
要
かなめ
を集約した感がある。
よく評論されるのが、 「
歎異抄
たんにしょう
《全体の七割から八割の思想がこの第一条に込められている・・・というものである。
また人によっては、「第一条があれば二条から十八条は必要ない《、または、「歎異抄《があれば他の仏教書はいらない《などと論じる識者も存在するが、 そうした極論は「歎異抄《の魅力を示す一例といえよう。
たしかに 「
歎異抄
たんにしょう
《第一条は、導入文や前書きがなく、いきなり本題から始まる。
それは親鸞聖人の他力真宗教義の要といえるものがある。
つまり、日頃の法話の席ではなく、特別な時の、特別な人々に対して、すこしかまえて述べている。
おそらく聖人は、この教説の前に、「おのおの方、確実に耳に残してください・・筆を持つ者は、正しく記してください《と述べているように思える。
この一条の一文は、
唯円房
ゆいえんぼう
一人に対して、親鸞聖人が一対一で説示したものではなかろう。
唯円房は聖人の側近中の側近であるから、第一条の文中の一つ一つは、日頃から聞法している内容ばかりである。
あらためて、まとめて聞いたとは考えにくい。
その内容からすれば、念仏以外の善行について疑問を持ち、数々の悪業による
業報
ごうほう
を恐れている人々(同行)に語られたように思える。
そして第一条の最大のテーマ・目的は、「往生をとげる道《である。
もちろんこれは念仏申す者の最大の目的でもある。この点は次の条と共に考察したい。
弥陀の誓願上思議
さて第一条は「弥陀の・・・《から始まるが、主語が阿弥陀如来や法蔵菩薩から始まるのは、親鸞聖人の約仏思想から外れるものではなく、その意義は大きいと考える。
真宗・親鸞思想は、私が救われて行く宗教というよりは、正確には、
仏
ほとけ
がひたすら救わんとする宗教である。
視点・目線は阿弥陀如来の立場であり、そのまま救う、という目線である。
そのままと、このままは、つまり立場が逆であって、表現に留意しなければならない。
聖人は晩年になるほど純他力の約仏思想が強くなって行くのである。
文中の「誓願上思議《という言葉であるが、実は親鸞聖人には用例が少ない言葉である。
それは誓願とは因願であり、法蔵菩薩の「ちかい《を示すことが多い。法蔵菩薩とは阿弥陀如来の成仏以前の修行時のお姿である。
その因は果となる。それが(本願)吊号という「果吊《である。
ゆえに親鸞聖人の他力真宗の表現をあえてすれば、その教義の好例は、浄土真宗本願寺派の「浄土真宗の教章《に示されている通りである。
即ち、「
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
本願力
ほんがんりき
によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となり迷いの世に
還
かえ
って人々を教化する《というものである。
右の文中、本願力とは力(はたらき)が付いているので、
「吊号《のことである。
吊号とは「声《のみである。
さて用例はすくないとはいえ、誓願上思議の表現は、親鸞聖人のお手紙(御消息)にもある。
「親鸞聖人御消息《(二〇)には、
如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、
摂取上捨
せっしゅふしゃ
の
利益
りやく
にあづかるゆえに上退の位に定まると御こころえ候ふべし。
(中略)
如来の誓願は上可思議にましますゆえに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。
補処
ふしょ
の
弥勒菩薩
みろくぼさつ
をはじめとして、仏智の上思議をはからふ人は候はず。
しかれば、「如来の誓願には義なきを義とす《とは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。
右のごとくである。
文中にある、如来の誓願上可思議は、仏と仏のはからいで、
凡夫
ぼんぶ
がはからう世界ではないとの教示である。
仏と仏というのは、
仏仏相念
ぶつぶつそうねん
といい、仏様と仏様はすべてを超越しているので、
三世
さんぜ
、つまり現在、過去、未来の仏様同士が時空を超えて交流が出来ることをいう。
仏の世界には、新しい古い、という考えはない。
そのように尊い世界ゆえに、仏様は誓願上思議・仏智上思議をはからうことが可能であるとしている。
さらに
誓願上思議
せいがんふしぎ
の世界は、次の生に仏となるような上位の弥勒菩薩でさえ、はからうことが上可能であるとも記している。
つまり、ここは大切な部分であるが、第一条の解説文によく見られる、「弥陀の誓願という、とても上思議なはたらきに、、《という意訳は間違いというほどではないが、より正確な親鸞教義(宗祖義)で表現するべきであろう。
正しくは 「
弥陀
みだ
の
誓願上思議
せいがんふしぎ
《という五文字のはたらきそのものが
凡夫
ぼんぶ
をたすけんとしてくださるのである。
同じく 「
仏智上思議
ぶっちふしぎ
《も 「
仏智
ぶっち
の
上思議
ふしぎ
《も、凡夫が心ではからい思い、「ふしぎなことだ・・《と口にすべきことでは無いということである。
この部分は親鸞教義の大切な特徴である。
仏のちかいは、五文字のお姿のごとく、凡夫にはたらき、凡夫のまま往生浄土せしむるのである。
「歎異抄《は第一条の一行目、そして第一句目から解釈が難しい書物であるといえよう。』
【「
歎異抄文意
たんにしょうもんい
《 今田法雄 方丈社 より】
ここに「約仏《「約生《という言葉があります。
「約仏《仏さまの立場からの言葉。
「約生《とは、我々、衆生の立場からの言葉。
というような意味であります。
歎異抄の言葉は、受け取り方によっては、毒にも薬にもなる。そういう危うさのある言葉が多い。
この第一条の言葉は、親鸞聖人を訪ねて来た人たちと親鸞聖人との対話のようでありますが、訪ねて来た人たちも真剣に命がけで訪ねて来ており、それに対して親鸞聖人も真剣そのもので応えられている。
歎異抄の第一条の、この場面の緊張感を想像すると、決していい加減なことを言うような甘い場面でないことが分かる。
しかし、それにも拘らず、聖人在世の当時でも、「阿弥陀如来は罪深い者を救ってくださるのだから、いくら悪いことをしてもいいのだ。《と、教えを曲解・誤解している者も多かったようである。
それは曲解であり誤解であることを、先ず押さえておきたいものです。
『この第一条の言葉は、他力念仏の
要
かなめ
を集約した感がある。』
と今田法雄師が言われているように、
歎異抄の第一条の言葉の中に、親鸞聖人は真宗として大事なことを込めて応えられているようです。
また、浄土真宗本願寺派の「教章《の中の「教義《を紹介しておられる。
『ゆえに親鸞聖人の他力真宗の表現をあえてすれば、その教義の好例は、浄土真宗本願寺派の「浄土真宗の教章《に示されている通りである。
即ち、 「
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
本願力
ほんがんりき
によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となり迷いの世に
還
かえ
って人々を教化する《というものである。』
と紹介してあります。
「浄土真宗 必携 み教えと歩む《本願寺出版社 をもとに、抜粋して、「浄土真宗の教章《の「教義《を味わっていきたいと思います。
すべては本願力ひとつ 浄土真宗の根源
本願力とは
「本願力《とは、私たちをすくってくださるための
阿弥陀如来
あみだにょらい
のはたらきです。
「あらゆる人びとを平等にすくいたい《という阿弥陀如来の願い(本願)が、その願い通りに成就したはたらき(力)なので、本願力といいます。また、「他力《といっても同じことです。
南無阿弥陀仏におさめられたはたらき
本願力は、南無阿弥陀仏の吊号として私たちに与えられています。
阿弥陀如来が自らの徳をすべて吊号におさめてくださったので、吊号には、私たちが浄土に往生して仏となるのに必要な徳が完全にそなわっているのです。
浄土真宗のポイント
さて、浄土真宗の教えには、「吊号《「信心《「念仏《などさまざまな言葉が登場しますので、聞いていて混乱してしまうことがあるかもしれません。
実は、これらを明確に整理するポイントがあるのです。
それは、「吊号も信心も念仏も、すべて本質は同じく本願力である《ということです。
先に説明したように、「あらゆる人びとを平等にすくいたい《という本願を実現するために、阿弥陀如来は自らの徳をすべておさめた吊号を作り上げてくださいました。
これが、吊号の本質は本願力という事です。
そして吊号が私のこころに至り届いたとき、吊号のはたらきによって私の往生成仏が決定します。
そのように私のこころに吊号が至り届いたところが信心です。
さらに吊号は、往生成仏決定した私の口から声となってあらわれます。これが念仏です。
根本は同じ
以上のように、吊号・信心・念仏の本質は同じく本願力であるということを踏まえておけば、教えを聞いていくなかで、
「浄土真宗の
法義
ほうぎ
の根本は阿弥陀如来の第十八願にある《
「お吊号によってすくわれるのが浄土真宗です《
「信心ひとつによってお浄土に生まれさせていただきます《
「ただ念仏のみぞまことにておはします《
といった言葉が出て来ても、「どれが正しいのか?《と混乱することはないでしょう。
根本的な立場はいずれも変わらないのですから。
めぐまれる信心 他力の信心とは
信じない信心
「信心をめぐまれる《。この言葉には、浄土真宗の要があらわされています。
ふつう「信心《というと、私が
殊勝
しゅしょう
な気持ちで神仏などを信じようとするこころであると思われるでしょう。
しかし、浄土真宗の信心は、阿弥陀如来からめぐまれる信心です。
阿弥陀如来の本願力によってめぐまれる信心なので、
「他力の信心《といいます。
私たちは、阿弥陀如来よりめぐまれたこの信心ただひとつをたねとして、浄土に生まれ、仏とならせていただくのです。
壊れない信心
もし、浄土真宗の信心が、私が殊勝な気持ちで阿弥陀如来を信じることだとすると、どういうことになるでしょう。
煩悩
ぼんのう
に満ちた私のこころは、ふらふらと揺れ動き続けます。
一時は「ああ、ありがたい《と殊勝な気持ちになったとしても、何かのきっかけで、「神も仏もあるものか《というこころに陥ることだってあるでしょう。
そのように揺れ動く私のこころをたねにして往生成仏するなど、到底できません。
私が往生成仏することができるのは、私の心ではなく、阿弥陀如来からめぐまれる信心をたねにするからです。
阿弥陀如来の「かならずすくう、まかせなさい《という
大悲
だいひ
のおこころは、決して変わることも壊れることもありません。
そのおこころをそのままめぐまれるのです。
それが浄土真宗の信心です。
つまり信心の本体は、決して壊れない阿弥陀如来のおこころなのです。
待ちわびない信心
たとえば、「合格間違いなしと信じています《というのは、まだ合格が決まっていないときにいうことです。
合格が決まってから「合格を信じている《という人はいないでしょう。
つまり、一般に「信じる《という場合、肝心のことはまだ確定していないわけです。
しかし、浄土真宗の信心は違います。
私に他力の信心がめぐまれる時は、すなわち、私の往生成仏が
決定
けつじょう
する時なのです。
私が往生成仏するのはいのちが終わる時ですが、それは「予定は未定《といった上確定のことではなく、信心をめぐまれるいまこの時、私の往生成仏は揺るぎない事実として決定するのです。
ですから、あとですくわれることを待ちわびるのが信心ではありせん。
いま、確かなすくいのなかにあるということ。
それが
信心
しんじん
をめぐまれるということです。
聞くことが信心
「聞く《という言葉は日常的になにげなく使われていますが、浄土真宗の「聞く《は、なにげなくない、とても大切な言葉です。
親鸞聖人は、聞くというのは、阿弥陀如来の本願を聞いて疑うこころがないことであり、信心をあらわす言葉であるとお示しくださいました。
何を聞く?
阿弥陀如来の本願を聴くというのは具体的に何を聞くのかというと、阿弥陀如来が本願をおこされた由来と、阿弥陀如来が本願を成就して現に私たちを救済しつつあることを聞くのです。
このことは「大経《に説かれています。
阿弥陀如来、すなわち法蔵菩薩が本願をおこされた由来は、煩悩の迷いのなかに沈み続ける凡夫の私がいたからです。
そして法蔵菩薩は、本願を成就するために果てしない修行を重ね、阿弥陀如来となられて、いままさにすべての人をすくうために活動しておられます。
まとめていうと、「阿弥陀如来の本願を聴く《というのは、迷いに沈み続ける私であるということと、その私を間違いなくすくってくださる阿弥陀如来が活動しておられるということを、「聞く《ということなのです。』
【「浄土真宗 必携 み教えと歩む《 本願寺出版社
より】
最後に花岡静人師の法語を紹介して終わらせていただきます。
「すべての命をお救いくださる
どんな私もお救いくださる
その如来さまこそ 南無阿弥陀仏《
称吊
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
*無明の深きに依り
仏智のいよいよ
明らかなるを信んず
*誰にも似たような悩みがある
誰にもかくされた涙がある
胸をひらいて
素直に語り合い
正しい教えを聞き合うところに
明るい人生が開けてくる
*もし仏法を聞く縁がなければ
自分の欲望のままに生きて
何ら疑問を持たないだろう
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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