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2023年8月
第142話
朝事*
住職の法話
「阿弥陀さまがご
一緒
いっしょ
です《
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「阿弥陀さまがご
一緒
いっしょ
です《という題とさせて頂きました。
「阿弥陀さまがごいっしょです《(藤岡道夫 探究社)という本に、次のように書かれています。
「はじめに《のところに
「ただ、西念寺深川倫雄和上の『この身の助かりぶりではない、阿弥陀さまの お助けぶりを告げる』との かつての仰せに順うよう心掛けました。
『阿弥陀さまが ご一緒して下さる』のであって『私が阿弥陀さまと、ご一緒している』のではありません。
私のことでなく、阿弥陀さまのお話です。《
と書かれています。
*『この身の助かりぶりではない、阿弥陀さまの お助けぶりを告げる』
*『阿弥陀さまが ご一緒して下さる』のであって『私が阿弥陀さまと、ご一緒している』のではありません。
*「私のことでなく、阿弥陀さまのお話です。《
私は、つい「私の助かりぶり《を言いたくなったり、「私が阿弥陀さまとご一緒している《と言いたくなったり、「阿弥陀さまのお話を私の手柄のように語りたくなるものである《と反省させられます。
さすが和上。鋭いご指摘だと、ただその通りですと言うしかありません。
「阿弥陀さまがご一緒です《16頁に次のような話が書かれています。
「またとは会い得難い友人
広兼至道
ひろかねしどう
君。
あと一と月の命と
骨髄末期
こつずいまっき
ガンの
宣告
せんこく
を受けた去年の五月から 九月三十日の命の
際
きわ
まで
貴方
あなた
の
仏恩報謝
ぶっとんほうしゃ
の営みは
深厚
じんこう
の
極
きわ
みでした
『今日が目的です』と何度も語りました。
今息絶える 極限の命を見込み 取り込んで
掛
かか
られた
御本願
ごほんがん
です。
救いの相手に レベルを定められません。
規準
きじゅん
もありません。
規準レベルに達したら救う とあれば
稽古
けいこ
も訓練も必要。
しかし、
大信大慶喜心
だいしんだいきょうきしん
のお
法
みのり
は
非行非善
ひぎょうひぜん
私の手出しすることでないと
親鸞聖人
しんらんしょうにん
の
仰
おお
せを よくよく味わいました。
十方衆生
じっぽうしゅじょう
のその中で 命の
際
きわ
の者をこそ とりわけ急がねばならぬと 見込まれた親さまです。
その親さまが ナンマンダ仏と もう今現に この命に来て満ちて離れず ご一緒なのですから。
お説教聞くのは 如来さまに会う準備運動ではありません。
お念仏もご信心も お助けに
逢
あ
う
段取
だんど
りではありませんもの。
ナマンダ仏 お称吊のまま 只今が
弥陀願力
みだがんりき
の
摂取
せっしゅ
の事実。
今日が目的です と貴方が語るのは お助けに会うた
謝念
しゃねん
のことば。
去年 五月二十四日 西念寺の深川 倫雄和上さまが 黒衣五条に
威儀
いぎ
を正して 大竹国立病院の病室に臨まれました。
今生最後のお説教をしますと
御讃題・ご法話・聖人一流章のご拝読まで
まこと お浄土の
仏事
ぶつじ
と
仰
あお
がるる
稀有
けう
のご法縁。
その折、貴方は言いました。
全身の骨がうづき
咳
せき
の為
呼吸困難
こきゅうこんなん
ともあいなって 声に出してお念仏申されないその時は
『如来さまに甘えさせて頂きます』そうつぶやきました。
仏恩報謝
ぶっとんほうしゃ
は他でもない わが
裡
うち
なる親さまとの 親密な いとなみなのですから
『甘えさせて頂きます』。
まことにこれは
殊勝至極
ししゅうくどく
の
御報謝
ごほうしゃ
なるかなと
ほれぼれと
仰
あお
ぎ聞くことです。《
【「阿弥陀さまがご一緒です《16頁より】
『
十方衆生
じっぽうしゅじょう
のその中で 命の
際
きわ
の者をこそ とりわけ急がねばならぬと 見込まれた親さまです。
その親さまが ナンマンダ仏と もう今現に この命に来て満ちて離れず ご一緒なのですから。
お説教聞くのは 如来さまに会う準備運動ではありません。
お念仏もご信心も お助けに
逢
あ
う
段取
だんど
りではありませんもの。
ナマンダ仏 お称吊のまま 只今が
弥陀願力
みだがんりき
の
摂取
せっしゅ
の事実。
今日が目的です と貴方が語るのは お助けに会うた
謝念
しゃねん
のことば。』
と書かれています。
『その親さまが ナンマンダ仏と もう今現に この命に来て満ちて離れず ご一緒なのですから。』
『もうすでに この命に来て満ちて離れず ご一緒。』と言われています。
勿体ない事です。
ここに深川 倫雄和上のことが出てきます。
「如来を聞く《探究社 と言う本に、深川 倫雄和上が、
広兼至道
ひろかねしどう
氏について書かれているところがございますので、ご紹介します。
『私が近頃、喩ておるんです。
牡丹
ぼたん
とか
芍薬
しゃくやく
の花がわかり易いからね。
鉢に牡丹を椊えてやると、春になったら柔らかい芽が出まして、真ん丸な牡丹のつぼみができますね。
鉢からありとあらゆる栄養を吸って、もう咲かんばかり、はち切れんばかりのつぼみになる。
「この花なかなか咲かんねぇ。《
「ここ四~五日、極端に寒いから咲かんのや。《
「あぁそうか。《
「それならあそこのビニールハウスに持って行ったら、その日のうちにひらく。《
私どもにも、仏になるべき功徳が満ち満ちておる。
どうも仏様の様じゃないね、酒はうまいし姉ちゃんはきれい。
なぜかって、ここが寒いからや。まもなく温室に行くんです。温室に入れて、牡丹が新たな栄養を受けるんじゃない。
もう外で、一切の栄養は受けておって、温室がぬくいから花が開いたんだ。
お浄土に行って、何か貰うんじやないんだ。もう目的は達したんだ、死なんでもええんだ、もう。
だけど大方死ぬだろうな。
だから信心の初一念に平生業成(へいぜいごうじょう)ということは、往生が定まるだけでなくて、成仏の功徳が満ち満ちるということでもあるんだから、それを大きに喜ばねばならんのです。
もう念仏が目的なんです。念仏は目的だから、その先のことはすべてプログラムが出来上がっている。
死んでみりゃ分かる。いま功徳がいっぱいあるんだ。
おそらく、重病の寝床に伏せっておる私、考えて見れば曠劫己来(こうごういらい)の迷いの歴史を引きずって、いま受けた人間界の命の終わりに休んでおると、ビニール程の生死の境がね、静かに私の体の上を過ぎて行くであろう。
そうしたら、正覚(しょうがく)の華より化生(けしょう)して、悟りの華が開く。
念仏は、まことにお浄土に行く種か、地獄の種か、存じませんと、御開山がおっしゃたちゅうんです。
それを証明するのが、
「念仏は手段ではないぞ、念仏は目的だぞ。《
ちゅうことだ。念仏が手段で往生成仏が目的ならば、
「念仏は地獄の種か、わしゃ知らん。《
なんて、そんなこと言えるもんじやないんだ。念仏は目的だから、だから、それから先のことはどうでもよろしい。
今、さとりの功徳が満ち満ちている。身は汚いけれども、これ時々、やるがええですよ、着物の中に住んでおる私の裸の体の中に、仏の功徳がみな満ち満ちておる。
死なんでもええんだ。貰うものはみな貰ろうたんだ。
生死の境は、コンクリートや鉄の扉の様な、大仕掛けなものではないんだ。
蚊帳の様なものが、私の身の上を過ぎて行ったとき、世界が変わる。
広兼至道というね、若い四十五歳の男が、癌になって死にました。
四年前の五月十九日に癌だと知らされた。それから二日経って妻に言ったそうな。
「一昨日お医者様の結果が出ただろう、如是我聞というんだからな、お前の思いは加えずお医者様の言葉を減らさず、聞いた通りを言いなさい。《
ちゅうて言ったげな。そうしたら、奥さんが全部言ったて。
「もうボロボロで、手当の仕様がない。《
って言ったげな。奥さんの話ですが、目をパッチリ開けて聞いていた主人が、
「そうだったか、あんたはつらかったね。《
って言ったそうな。偉いねぇ、えぇ、他力のお育てをいただいていますと、私に問題になるのは、私の他である仏様です。
自分が問題なんじゃなくて仏様、仏様・仏様と自分を無にして、仏様を喜ぶ癖がつくと、人間のお付き合いにおいても、癌を告げられた自分の思いよりも、それを今告げた妻の思いに先に気を掛ける様になるんだ。ねぇ。
「お医者様からそれを告げられてから、二日間、言おうか言うまいかと考えた時、あんたはどれ程辛かったろうか。《
と言うことです。ねぇ、そして最後、九月三十日の夜中に死にました。
もう手は冷たくなって、酸素テントの中、
「広兼さんよ、私は俵山の深川や。あんた、私と会ってよかったか、私もあんたと友達になってよかった。おおきに有難う。お勤めの中にあんたがおると思うよ。今あんたお念仏称えておるか。《
ものが言えなくなったら、心持で称えますと、かねて言うておった。
自分の死を、ジロジロ見て、いま私は目的を果たしておるんだ、この中に仏様がおるんだと、四ケ月のねぇ、病床を病んだ男でありました。
西方の紅い夕日を見たならば、あの向こうに行くんだぞ、死んだ爺ちゃんも待ってるんだ、死んだ父も母も待ってるんだ。
「まことに愚か者の立場になりきって、阿弥陀様の御法義を喜んで行こうよ《と、御開山が呼びかけて下さるのが、「義なきを義とす《と言うおいわれであります。
ナマンダブ・ナマンダブ・ナマンダブ・・・・
「御文章《拝読
「信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆへに南無と帰命する一念の処に発願廻向のこころあるべし。
これすなはち弥陀如来の凡夫に廻向しましますこころなり。
これを「大経《には「令諸衆生功徳成就《ととけり。
されば無始己来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力上思議をもて消滅するいはれあるがゆへに、正定聚上退のくらいに住すとなり。
これによりて煩悩を断ぜずして涅槃をうとはいへるはこのこころなり。あなかしこ あなかしこ。《
【「如来を聞く《より】
最近も、私が子供の頃から知っている先輩が亡くなりました。
一年前は全く普通の日常生活を送っておられましたが、病気が見つかり、一年後には、お亡くなりになられました。
「白骨の御文章《に、「あわれというも中々おろかなり。《とございます。
「哀れという言葉では、到底言い尽くせない。《という意味でしょうか?
ただ可哀想と言うのとも違う。ただ悲しいだけでもない。「あわれ《という日本語の深さを感じさせられます。
遺族の想いと、私の想いとは、天と地ほど違うとは思いますが、私なりにではありますが、先輩の死を無駄にしないためにも、仏法に心を寄せて、「仏法聴聞《に精進したいものです。
普通の日常生活は、「吊声《【吊誉心】、「勝ち負け《【「私の方が上だ!《】「財欲《「権力欲《等々、「世俗的な欲望《に振り回されている体たらくの私です。
しかし、そういう欲望にとらわれていることが、生の人生を取り逃がし、台無しにしているんだよ、と仏陀は説かれているようです。
皆様の身近にも、色々な無常の出来事がおありのことと思います。
そういう無常な中にも、「仏様の言葉《【仏語】「仏様の願い《【仏願】が、煩悩渦巻く火宅無常の世界を照らし、導く灯として、我々迷いの凡夫を導いて下さいます。
そういう仏の世界、真理の世界に対しての渇きというものを大切にして、真理への渇きが満たされるまで、仏陀に、親鸞聖人に導かれていきたいものです。
具体的に言えば、仏陀の言葉を聞くこと。親鸞聖人の御聖教、例えば、「正真偈《「和讃《の一句を大切に、重く頂き、仏様の世界への灯として仰ぐこと。
あるご説法で、「仏様の言葉は、自分の心の中に入ると、私の心の中で、活動し始めるんだ。《と、言われていたのを思い出します。
確かに、「仏陀の言葉《、「親鸞聖人の言葉《は、聞きっぱなしにしておかないで、「念々相続《と言いますか、それを、ある同行は、「聞いた教えを練りなさいよ。《と教えて下さいました。
聞いた仏語を練って練って味が出るまで、練っていくということでしょうか?
「世間の欲心《は考えなくても、私の心を常に占領し、悩ませ続けます。
そういう世間的な世俗の欲心だらけの私の心に、上思議と仏法を求める心が起こってくるのは、まさにそれこそが仏さまの働きでありましょうか。
*『この身の助かりぶりではない、阿弥陀さまの お助けぶりを告げる』
*『阿弥陀さまが ご一緒して下さる』のであって『私が阿弥陀さまと、ご一緒している』のではありません。
*「私のことでなく、阿弥陀さまのお話です。《
という深川倫雄和上の言葉を仰ぐ次第です。
阿弥陀さまのお助けぶりを告げる。阿弥陀様がご一緒下さる。阿弥陀様のお話です。
南無阿弥陀仏
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
*人の生命は何と短いことか。百才に
ならないのに死なねばならぬ。
たといこれ以上ながく生きても、
結局老衰のために死んでしまう。
【仏陀の言葉】
*それでは修行者たちよ、別れを告げ
よう。すべて存在するものは変化し
てゆくものである。
汝らは怠ることなく努力せよ。
*自分は豊かでありながら、老い衰え
た母や父を扶養しない人、彼を誤っ
た人と知れ。【仏陀の言葉】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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