平成24年12月
朝事*
住職の法話
「無常に学ぶ」
今年も12月になりました。今年も知った方が何人も亡くなられました。
身近な方々の無常というものは、厳しいご縁ではありますが、
私たちに何か大切なことを教えて下さっているのでしょう。
『亡き方をご縁として、残されたこの私が仏縁に遇うということが大切で、
それが、故人の死を永久に活かすことになる、無駄にしないことになる』と、
教えられたことがあります。
ある仏法の学者の方が、あるお寺の住職を尋ねて、教えを乞うたそうです。
その時に、その寺の住職は、
「あなたのような学者の方に、私から教えることは何もありません。」
と言われ、その後で、「あなたは、『今死ぬる』ということを知っていますか?
『今死ぬる』ということが分からなければ、仏法はわかりませんよ。」
と、答えられたそうです。
その時、その学者は、「そりゃそうだ。」と思って、帰ったそうです。
その後に、その学者は大病をされ、その時に、初めて、住職の言ったことがわかったそうです。
変なことを言うようですが、私は、先日、門徒の葬儀に行きました。
その次の夜に、夢を見ました。それは、自分が死ぬ夢でした。
夢が、覚めて、夜中に、「今のは、夢だった」と分かっていても、しばらく、動揺が消えませんでした。
夢の中で、私の聴聞の姿勢を戒められるような感じがしました。
仏教では、『
有間心
うけんしん
』という言葉があります。
「まだ、まだ後がある、時間に余裕がある。」と、のんびりしている心を
『
有間心
うけんしん
』と言います。
それと、反対に、『
無後心
むごしん
』という言葉があります。
これは、「もう、後がない。」という、せっぱつまった心です。
聴聞は、この
無後心
むごしん
で、聞かなければならないと言われています。
蓮如上人は、
「仏法には明日と申すことあるまじく候う。 仏法の事はいそげいそげと仰せられ候なり。」
と、諭されています。
事実、蓮如上人は、身近に、無常を味わうことの多い方でした。
蓮如上人は、三度目の妻の如勝が、亡くなった翌月、御文章を書いて、彼女の死を
悼
いた
んでいます。
如勝は応仁の乱で家族離散して、老母とただ二人の身となったのを、蓮如上人に救われたのでした。 妻として、蓮如上人に仕え、三十一歳の短い命を終えたそうです。
その御文章に、
『
夫
それ
人間を観ずるに、
有為無常
ういむじょう
はたれの人かのがるべき。 ただ一生は
夢幻
ゆめまぼろし
のごとし。 まことに人間の寿命は
老
お
いたるはまづ死しわかきはのちに死せば順次の道理にあひかなふべきに、
老少不定
ろうしょうふじょう
のさかひなれば、 ただあだなるは人間の生なり。・・・・』というように始まっている。
そして、『・・・されば、これにつけても女人の身は、いまこのあへなさ、あはれさを まことに
善知識
ぜんちしき
とおもひなして、 不信心の人はすみやかに
無上菩提
むじょうぼだい
の信心をとりて、 一仏浄土の来縁をむすばんとおもはん人々は、 今世・後世の往生極楽の
得分
とくぶん
ともなりはんべるべきものなり。あなかしこ・・・』
と結ばれています。
この如勝という人は、いつも蓮如上人より先に死にたいと言っていたそうです。
もし、蓮如上人に遅れたら、今のこの安らかな信心の境地を忘れてしまうかも知れない。
その時後悔しても間に合わぬから、ただ願わくは、蓮如上人より先に死なせて欲しいと願っていたそうです。
彼女は、誰れに対しても、ただ同じ
柔和・忍辱
にゅうわ・にんにく
の 姿であったそうです。
その死はあまりにも
唐突
とうとつ
だったので、人びとは
茫然
ぼうぜん
となった。
そして、『これにつけても女人の身は、いまこのあへなさ、あはれさをまことに
善知識
ぜんちしき
とおもひなして』という。
このあへなさ、あはれさ、この悲しみは、しずかに、しみじみと、防ぎようがない。 割り切ることも、忘れることもできない悲しみである。
ある奥さんを亡くされた主人が言われました。
『妻が亡くなったということについて、自分はずっと考え続けてきている。
その妻の死を、どのように受け止め、考え、理解したらいいのだろうか?と。
先日、テレビの宗教の時間を観ていたら、妻を急に亡くされた主人が、 「妻が
急逝
きゅうせい
して、
茫然自失
ぼうぜんじしつ
となった。 しかし、妻は、短い人生の中で、精一杯生き切ったんだ。と思っています。」 と言われていた。
このような偉い人でさえ、妻が急に亡くなると、動揺して、茫然自失となるのか、
「妻は、短い人生の中で、精一杯生き切ったんだ。と思っています。」と言われていたが、 その言葉を聞いて、 少し心が楽になった。』としみじみ、私に言われました。
東井義雄先生の言葉に「あやまちは 人間をきめない あやまちのあとが 人間をきめる(東井義雄)」という 言葉がありますが、何か心に響く深い言葉だと思います。
我々は、無常に直面すると、ただ、うろうろするだけかも知れません。
しかし、蓮如上人は、
『これにつけても女人の身は、いまこのあへなさ、あはれさをまことに
善知識
ぜんちしき
とおもひなして』という。
「
善知識
ぜんちしき
」とは、人間に真の生き甲斐を教えてくれる人のことだそうです。
かなしみ多いこの人生において人はいかに生きるべきかをはっきりと指し示してくれる人のことだそうです。
「かなしさ、あはれさ、それを
善知識
ぜんちしき
となして、信心を
決定
けつじょう
せよ。」と諭されています。
蓮如上人の語録には、教えられますが、次のような言葉もあります。
『蓮如上人、
法敬
ほうきょう
に対して仰せられ候、
「まきたてといふもの知りたるか」と仰せられ候処に、
法敬
ほうきょう
申され候。
「まきたてと申して、一度(種を)まきて、手をささぬものに候」と申され候。
「それよ、まきたてがわろきなり、人になおされまじきと思ふ心なり。
心中
しんちゅう
を申出して人になおされ候はでは、 心得のなおるといふことあるべからず。 まきたては信をとることあるべからず」 と仰せられ候。』とあります。
人に直されたいと思うのなら、自分の心を同行の中へうち出して置かねばならない。
黙り込んでいたのでは、他の人はその人間の
心中
しんちゅう
を 知る由がない。
故に、蓮如上人は、
『蓮如上人仰せられ候、「同行寄合ひ候ときは、たがいに物をいへいへ」と
仰せられ候。「物を申さぬ者はおそろしき」と仰せられ候。
「信不信ともに物をいへ」と仰せられ候。
「物を申せば、
心中
しんちゅう
もきこえ、又、人にもなほさるるなり、 ただ物をいへ」と仰せられ候。
何としても人になほされ候ように
心中
しんちゅう
をたもつべし。 わが
心中
しんちゅう
を同行の中にうち出しておくべし。
下としたる人のいふことをば心(信)用せず立腹するなり、あさましきことなり、ただ人にいはるるやうに
心中
しんちゅう
をたもつべきよしに候。』と言われています。
自分のことを忠告されたら、なかなか素直に聞けるものではありません。
むしゃくしゃすることが多いです。当たっているから、なおさら素直に聞けないのでしょう。
酒飲みに「酒は体に悪いし、あなたは酒癖も悪いから酒を飲まない方がいい。」なんて言おうものなら大反発があるでしょう。
しかし、蓮如さまは、「陰口でもいいから自分の欠点を言ってほしい。聞いて直したい。」と言われています。
なかなか実行できなくても、
指針
ししん
・わが身を映す鏡とさせて頂きたいものです。
(紀野一義師の『名僧列伝(四)』講談社、から、蓮如上人について、学ばせて頂きました。有難うございました。 合掌)
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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