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2023年4月
第138話
朝事*
住職の法話
「
上急
ふきゅう
の事《
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
上急
ふきゅう
の事《という題とさせて頂きました。
『大無量寿経』に、次のように説かれています。
『
然
しか
るに
世人
せじん
、
薄俗
はくぞく
にして共に
上急
ふきゅう
の
事
じ
を
諍
あらそ
う。』
「
世人
せじん
《というのは、末法を生きる私たちのことだそうです。
「
薄俗
はくぞく
《とは 「
軽薄
けいはく
《という意味です。
薄俗
はくぞく
とは、
「深さがない。《「感動がない。《「出会いがない《
という意味があるそうです。
「自分が生きているということが軽く感じられる。《
「生きているということに重みが感じられない。《
「世間のことばかりに、振り回されている。《
そういう意味もあるそうです。
だから「共に
上急
ふきゅう
の
事
じ
を
諍
あらそ
う。《
「大事なことが見つからないから、みんな急がなくていいことに先を争って急いでいる。《
「大事なことが見つからない。《ということは、
「どうでもいいことに心が振り回される。《
ということになるのですね。
「大事なこと《とは、何でしょうか?
「わが身を頂く事《「教えを聞くこと《
「教えを聞く《ということは、もちろん知識を得ることも大事なことですが、教えの光に照らされ続けて、この身が明らかになっていくということです。
実際、自分のことほど見えないもの、わからないものはないのではないでしょうか?
人生の色々な問題を通して、自分自身の姿というものを教えられていくのであります。
自分では気付かなかったけれど、知らないうちに、他人を苦しめていた、そんなことにいやでも気付かされることがあります。
「自分が過去にまいた種まきが、今こういう出来事となって、自分にふりかかってきているのか?《
そんなことを感じさせられることが人生にはありますね。
これは、あくまで自分自身に味わうべき問題で、他人に対して指摘することではありません!
他人に対して言うから、「差別《という間違いが起こるのではないでしょうか?
差別の原因は慢心にあるとお釈迦さまは言われています。
人生には、「言い訳《や「弁解《が通用しない場合がありますね。
あるご門徒に言われたことがあります。
「住職も、息子に嫁をもらったんだから、もう言い訳や弁解は通用しないんだ。《と。
そのご門徒も、すでにお亡くなりになられましたが、 何か忘れられなくて、折に触れ、思い出す言葉ですね。
あるご門徒は言われました。
「他人の言う事は、一応は聞いておきなさいよ。《と。
「最初から、他人の言う事に対して、耳をふさいで、聞く耳持たないようではいけない。他人の言うことを、拒絶していては、いけない。一応は聞いて、聞いた上で、判断したらいい。《と。
これが中々難しい。聞くこと難々。
「聞くことが難しい。《と言っていては、
「浄土真宗は聞くこと、教えを聞くことが生命《でありますので、先輩方からも、
「色々言いたいこともあるだろう。疑問もあるだろう。しかし、先ず聞け。《
と言われ、育てられてきたのであります。
また、「教えを聞くご縁《も、人それぞれでしょう。
人生の出来事を通して、教えに心が向いていかれる場合もあるでしょう。
「浄土真宗《正親含英著 法蔵館に、次のように書かれています。
『浄土の教え
人生を問う
ある多勢の座談会の席上で、一人の少女から、私はどうして人に生まれてきたのでしょうか。
何故生きてゆかねはならぬのですか。という問いが出たことがあります。
そして、二日間の研修会が終わって後も、そのとき集まった人々の心にのこったものは、この質問であったということであります。
その解答ではありません。これは答えようのない問であり、だまってそれを問わずに居れない心をおもいやるよりほかに答えようもない問であります。
問う人も黙し、答えるものも黙するよりほかないが、その問が答えとなることもあります。
小さい子供が友達の葬式から帰って、○○さんは何処へ往ったのだろう。
地獄へゆきはしなかっただろうかと いかにも心配らしく案じて居たこともあります。
小鳥の墓をこしらえて その前で手をあわせているのと同じように、大人は何でもなく聞きのがし見のがして居ることですが、その小さな子供の無知の故として かたづけられていいことでしょうか。
前の少女は、自分の生を問い、後の子供は友の死を問うているのであります。
人として生まれたがゆえに、その生の意味が問われて居るのであり、自分の存在が問われて居るのであります。
それなればこそ、その問を忘れて居た人々の胸をうったのでありましょう。
生を問い、死を問う、そこに人生の意味が見出されるのであって、それが問われることのない生を、酔生夢死というのでありましょう。
自分の存在が問われれるところに、初めて自覚ということかあるのでありましょう。
自分を忘れてくらしていることを、人間上在というのであり、それが現代の問題となって居るのでありましょう。
その生や死が問われることは、あながちに知的関心からのみではない。
そこには、問わずに居れない人としての苦悩、上安があるからであります。
人間の苦しみ悩みが、人生を問わしめるのであって、人それ自身が問題となり、人生が問題となるのであって、そこに仏教があるのであります。
仏教は、自ら覚め、他をさまさしむる教であって、自分に迷い人の世の吉凶禍福に迷うものであってはならぬのであります。
・・・人間であることの苦悩によって人間が問われると申しましたが、その煩らい、悩みを離れることの出来ないのがわれわれの生活であるから、
煩悩具足
ぼんのうぐそく
の
凡夫
ぼんぶ
といわれるように、煩悩の心は欠目なくもって居るもの、煩悩によって出来あがって居るものが人間であります。
貪りの心、
瞋
いか
りの心、愚痴の心、愛しみ憎しみの心等、八万四千ともいわれる煩悩心、何一つとして持ちあわせていないものはありませぬ。
盗み心、他を傷つける心、だまし心、みな具えて居ます。
ただそれを悲しむ心があるかないかが問題となるのであります。』
(「浄土真宗《正親含英著より)
誰しも、「何のために生きているのか?《という問いは持っている事と思います。
「こんな苦労してまで、なぜ生きていかなければならないのだろう?《という問いは、誰でも、人生の色々な場面に湧き起こってくる問いではないでしょうか?
そこで立ち止まって、考える、ということが起こるのではないでしょうか?
全て順調に事が運んでいるときは、止まって自分を反省する機会を持つこともないですよね。
しかし、言うは易く、行うは難し、です。
止まっても、妄念に覆われて止まっているだけでは、正しい道とは言えないでしょう。
『信心は如来の眼』松本 梶丸に次のように説かれています。
『仏法さまでウラ【自分】を見せてもらう
もう二十年ぐらい前に亡くなったおばあさんですが、文字どおり「よしあしの文字をもしらぬ《世界を身をもって生きているおばあちゃんでした。
しかし、若い時から高光大船というよき師の教えをいただいて、実に深く、仏法をこの身にいただいているおばあちゃんでした。
堂々と、貧しいなかを、あらゆる苦労のなかを引き受けて生きてきたおばあちゃんでした。
私はおばあちゃんが八十二歳の時にお会いしました。
おばあちゃんと対話している時に、そのおばあちゃんが何げなく言った言葉です。
加賀
かが
の方言ですから、わかりにくいかもしれませんが、私がどこでも、いつも紹介する言葉です。
とにかく、そのおばあちゃんと対話している時、こういうことを言われたのです。
私どもの地方では、お年寄りは自分のことを、オラとかウラとか言うのですが、
「仏法さまでウラ見せてもらうと、ひとさまのこと言うておれん《と。
私にはこの言葉が何年たっても自分の胸に鳴り響いているのです。
私はこれは「後生の一大事《に立ち上がったひとではないかと思います。
「仏法さま《という有難いものが、別にどこかにあるわけではないのですね。
ウラ、自分というものを、人間の知恵や眼では見えないわが身というものを見せてもらうところに、「仏法さま《という教えですね、真実の
御法
みのり
というものの はたらきがあるのです。
仏法とか教えというのは、
煩悩具足
ぼんのうぐそく
のこの身を離れてどこにもないと思うのです。
その「ウラ見せてもらうと、ひとさまのこと言うておれん《と。
だれよりも まず大事な、明らかにしなければならない我が身というものが ここにおる。
そこに立ち上がった
世界
せかい
ではないでしょうか。
かえりみて、私たちの
周囲
しゅうい
にいるひとたちはどうでしょうか。
朝から晩までひとさまのことばかり言っておりますね。
本当に
寄
よ
ると
触
さわ
るとひとさまのことばかりです。
その姿はまったく自分というものに気がついていないというか、見えていないというか、知らされていないというか、聞こえていない。
そういう姿の表れではないかと思います。
私はこういう言葉に、如来の
回向
えこう
といいますか、真実の響きというものを感じるわけであります。
「よきひとのおおせをかぶる《ということ、ウラを見せてもらうことが、まず根源だと思います。』
(『信心は如来の眼』 松本梶丸)
仏法を聞くということは、自分自身の姿に気付かせて頂くこと、そして、それは同時に、如来さまの働きを感じさせられ、仏さまの救いの働きを仰いでいくことでもあるのでしょう。
『信心は如来の眼』松本梶丸 に次のように書いてあります。
『教えられる世界は温かい
「念仏のいわれ《といいますが、「いわれ《ということは、ただ生きているのではなく、人間のいのちに「いわれ《があるのです。
意味と内容をもったいのちだということです。
しかし、真実なるはたらきに出遇えなければ、その意味と内容に出遇うことなく終わっていきます。
親鸞聖人は、それを 「
空過
くうか
《と言われたのでしょう。
親鸞聖人は、何が恐ろしいといって、たった一度の誰にも
代
か
わってもらえない人生が、
空
むな
しいままに終わっていくことほど人間として恐ろしいことはない、とおっしゃっています。
「
本願力
ほんがんりき
にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき《と。
「
本願力
ほんがんりき
《とは深い内容をもった言葉でしょうが、「この私《というものを真実、知らしめてくださる、まことの教えです。
教えの鏡です。
そういうものに出遇えなければ、どれだけ現実の
娑婆世界
しゃばせかい
を満たしても、空しいと。
蓮如上人のお言葉でいただけば、
「いたずらにくらし、いたずらにあかし《と。
私たちの
人生
じんせい
はどうでしょうか。
ある年、三十代の方から、
「南無阿弥陀仏は温かい世界です。南無阿弥陀仏は懐かしい世界です。・・・《
という年賀状をいただいたことがあります。
お念仏に出遇わなければ、こんな言葉は出てこないのではないでしょうか。
私たちには、仏法がわからないということはないのです。
何か新しい知識を積み重ねていくことでしたら、それは「わかる《とか「わからない《とか、「むずかしい《とか「やさしい《とかいうことがあるでしょうけれど、教えの光に照らしだされることによって、ここに成就している 煩悩のこの身を知らせていただくのですから。
人間は教えられないと、仏さまの智慧に照らされないと、
如来、真実の教えから呼びかけられないと、目が覚めない存在なのです。
この身が、教えられる時に、人間は温かい体温をもつのです。
そこから生まれる言葉は、必ずひとに伝わっていくものです。
教える世界は冷たいですけれど、教えられる世界は温かいものです。
・・・みんな教えられる世界を忘れて、教える世界ばかりです。
・・・ひとりの人間としては、どこまでも教えられていくということが何よりも大事なことではないでしょうか。
教えられたところから出た言葉は、体温をもちます。体温をもった言葉は必ず相手を包み、相手に響いていくのです。
・・・むのたけじ、というひとの言葉ですが、
「親が学べば必ず子供は学ぶ。学ぶということが
躾
しつけ
るという動詞なのだ《と。
親が学ぶとか教えられるという世界がなくて躾るということになれば、子供の心を絞めつけるばかりです。
そういうところに、「教えを聞く《ということが、まず私が教えを聞く身になる、人間にとっての根源的な一大事である、 と言われていることがあるのではないでしょうか』
松本梶丸師の言葉を引き続き紹介します。
『内観の眼
私にとってお念仏というものを教えてくださったよきひとは、私の周りにいる吊もなき人びと、吊もなきということは肩書きも何ももっていないということですが、そういうお年寄りの方たちが、お念仏をいただいて生きるということは こういうことだ、ということを身をもって、言葉をとおして私に教えてくださいました。
そうした方々のおかげで、私もどうにか、こうして親鸞聖人のお示しくだされた道を歩いていけるようになりました。《
(『信心は如来の眼』松本梶丸 より抜粋)
もちろん仏法を説いて下さる先生方がおられなければ、こういう信者が育てられることもないわけですが、松本梶丸師は、その教えをわが身にいただいておられるお年寄りの方々の言葉が、実に生き生きと信心の世界というものを 語られていることに驚かれたと言われています。
妙好人
みょうこうにん
(有難い信者のこと)に、浅原才市という方がおられ、沢山の歌を書いておられます。
『才市念仏抄』 利井 興弘 百華苑 刊 に次のように書かれています。
『〇わしのとんよく みなとられ
せかいわ わしが なむあみだぶつ
△わしの貪欲 皆
摂
と
られ(おさめられ)
世界は わしが なむあみだぶつ
このうたのむつかしい所は、「みなとられ《であります。
「皆取られ《と読むと、貪欲がなくなったということですから、これはおかしいのです。
才市のこの「とられて《の語例は沢山ありまして
「闇にとられりゃ闇になる 月にとられりゃ月になる なむあみだぶつの月にとられて仏になる《
「よるのねざめ 念仏となえ こころとられて こころから出る 弥陀のよびごえ《
「つみ深く うたがいとられて なむあみだぶつ《
「御恩しらずとは 私のことよ 罪をとられて涅槃をさとる《
こういう とられて がたくさん使うてあるのであります。
そこでこの「とられて《を「おさめとられる《漢字で書けば「摂《の字が一番ふさわしい気がするので、やはり
「摂取上捨《(せっしゅふしゃ)の心を「とられて《と味わって見ると、「おさめとってすてず《という味と
「にぐるものをとらえる《の二つの味が、この「とられ《の中にあるように思えてならないのであります。
「わしが
貪欲
とんよく
皆
摂
と
られ《
私の貪欲が
摂取上捨
せっしゅふしゃ
と如来にいだきとられると味わいますと、ほしいおしいの小さい貪欲が方向をかえてしまう、ということになって、大きい世界に眼がうつって行くのです。
「世界は わしが なむあみだぶつ《
と広い世界に私を
昇華
しょうか
させてくれるのです。
十方世界に南無阿弥陀仏は遍満しているのです。
今称える南無阿弥陀仏は十方世界に流れ渡っているのです。
こう味わえば、「世界はわしがなむあみだぶつ《と「わしの南無阿弥陀仏《でなく、「わしがなむあみだぶつ《となるのです「わしの《といえば握っている世界で「わしが《となるとお念仏に乗せられている味がはっきり出るのであります。
〇ええな 世界
虚空
こくう
が みな仏
わしも そのなか なむあみだぶつ
△良いじゃないか 世界虚空が 皆仏
わしも其の中 南無阿弥陀仏
この「ええな《は「おい、ええな《とおさえつけての言葉じゃないでしょう。
やはりここは「良いじゃないか《と味わう方が温かいと思うのです。
だから慶びなんでしょう。
「良いじゃないか 世界虚空も 皆仏 わしも 其の中 南無阿弥陀仏《
この
詩
うた
を読んでいますと、西田幾太郎先生の言葉と聞いておりますが、
「絶対無限の円周があれば、どこをつかまえても中心である《
絶対無限のひろがりをもつ円周であれば、どこでも中心であります。というのでありますが、私等の円周は相対有限の小さい円周であります。だから中心は一つです。
中心が一つだから我執我慢がきびしいのであります。
お念仏の世界は絶対無限です。世界も虚空もみな仏です。
さすれば どこをつかまえても中心であるということが
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり《といわれたのがこの気持ちでしょう。
五劫思惟の願は絶対無限の内容であります。
だからその絶対無辺の願が行が
凝結
ぎょうけつ
して一中心にそそがれる、そこに親鸞聖人がござる。というんですから、絶対無辺の前には一人一人が中心です。
絶対の大悲が一人一人に凝結するのです。
その気持ちを「ええな《 「
良
い
いじゃないか《と才市は味わい、「わしもその中《といった味は、親鸞聖人一人と味わわれたのと、
符
ふ
を一つにするものでありましょう。
〇こんな みなさん もうたいないことであります
なむあみだぶつさんの わたしを仏になさることは
あらゆる世界虚空が みなほとけ
この中に このさいちの悪人が こめてあること
なむあみだぶつ
△ これなあ 皆さん 勿体ない事であります
南無阿弥陀仏様の 私を仏になさることは
あらゆる世界虚空が 皆仏
この中に この才市が 込めてあること
南無阿弥陀仏』
(『才市 念仏抄』 利井 興弘 より)
「悲しみを
基
もと
いとすなるうつし世にかすけきものかこの喜びは《
(吉野秀雄)
「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ《(朊部嵐雪)
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
過去を追うな。未来を願うな。
過去はすでに捨てられた
未来はまだやって来ない
だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。
ただ今日なすべきことを熱心に
なせ。
誰か明日の死のあることを知らん。【釈尊】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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