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2023年1月
第135話
朝事*
住職の法話
「心を
追
お
うことなかれ《
新年あけましておめでとうございます。皆様には、色々とお世話になり、有難うございました。
仏祖のご照覧、お導きを深く感謝するとともに、仏法に精進することを念じています。
本年もよろしくお願い申し上げます。 称吊
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「心を
追
お
うことなかれ《という題とさせて頂きました。
「心を追うことなかれ《とは、浄土真宗の「安心《(あんじん)「信心《(しんじん)におきましても大切なことと言われます。
「はからい《という言葉がございますが、自分の心の模様を眺めて、「これでいいのだろうか?これが本当の信心だろうか?《と、 いくら心を追うても、いたずらに、「はからい《をつのらせるだけであると言われます。
一番肝心な「仏心《を聞かずして、自分の心ばかり眺めて点数をつけていても、何にもならないのでしょうね。
「一分間 助ける親の 身になって《
自分の心は置いといて、「仏さまは何とおっしゃっておられるか?《「仏心を聞く《それが一番大事なことでありました。
「どうか、私に助けさせておくれ。《と、仏さまは「南無阿弥陀仏《の吊号となって、「今・ここ・私《の上に吊号となって働き続けていて下さるのでした。
赤ちゃんに離乳食(りにゅうしょく)を食べさせる姿を身近に見る機会がございました。
お父さんとお母さんが、互いに、赤ちゃんに声をかけて、口を開けさせて、スプーンで、離乳食を赤ちゃんの口に運ぶ姿は、実に心打たれるものがありますね。
ある高僧は、「南無阿弥陀仏《の「お念仏《を「お粥《(おかゆ)に例えて説かれたそうです。
難しい仏教の真理を説いても、赤子のような凡夫(ぼんぶ)には、強飯(こわめし)は、
硬
かた
過ぎて、口に入りません。
お
粥
かゆ
にして、もらわなければ、赤子のような凡夫には食べることは出来ません。
お父さんとお母さんが、赤ちゃんに向かって、「口開けて《「よく食べたねえ、えらいよ。《と、赤ちゃんに声をかけているのを見ながら、 「凡夫の為にお粥(かゆ)にして、届けて下さった、それがお念仏というものである《ということを、しみじみ味わわせていただいた次第です。
いくら立派な真理がありましても、私と接点がなければ、それこそ「宝の持ち腐れ《ということになります。
凡夫(ぼんぶ)にの為に、硬い強飯(こわめし)を、 お
粥
かゆ
にして頂いた、そのことを深く思い感謝して頂きたいものです。
さて、「心を追うことなかれ《ということをテーマとさせていただきました。
この言葉は、信心のことだけでなく、人間関係におきましても深く味わえることであります。
「あの人の、こんなところが嫌だ。以前もそうだったが、この間、会った時も、又そうだった、腹が立つ・・・・。《等々。
自分の心を追うていては、キリがないことであります。
そうではなく、そういう他人に対する色々な感情的な思いも、追わなければ消えていくものである.....と教えていただきました。
苦しみの原因は、
煩悩
ぼんのう
であると教えられました。
煩悩というものが、苦しみというものになって現われてくるということなのですね。
仏さまのように、「とらわれのない心《であれば、何の苦悩もないのでしょうが、凡夫はそうはいきません。
源信和尚
げんしんかしょう
の書かれた 「
横川法語
よかわほうご
《に
『
妄念
もうねん
は凡夫の
地体
じたい
なり』
という言葉が説かれています。
「
横川法語
よかわほうご
《
『それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。
世のすみうきはいとうたよりなり。
人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。
このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。
信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。
念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。
此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。
妄念の外に別の心もなきなり。
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。
妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に吊号を唱うべし。』(「横川法語《)
妄念
もうねん
なんて、出通し出る。
朝から晩まで、妄念煩悩......。
それも追わなければ消えていくものなのでしょうか?
特に、「これはいけない思いだ。これは酷い煩悩だ!《と、ついつい大げさに感じ、自分から強く注目してしまうものだから、益々、その煩悩にとらわれていく
罠
わな
にはまっていくばかり、ということになるのでしょうか?
煩悩にも、妄念にも、何となく見て、無関心になって、特別な注意を払わなければ、自然と消えていくものなのでしょうか?
日々の生活の中で、 「
横川法語
よかわほうご
《を味わい味わい、理屈に食らいつき、理屈にとらわれ過ぎず、理屈が指し示す、理屈を超えた救いの世界に向かいたいものです。
今年は、「親鸞聖人 御誕生850年・立教開宗800年 慶讃法要《をお迎えする年になりました。
本願寺新報 2023年(令和5年)1月1日版に、次のように書かれています。
『このご法要は文字通り、親鸞聖人がこの世にお生まれになり、浄土真宗のみ教えをお開きになったことを
慶
よろこ
び、 お
讃
たた
えするご法要です。
800年の時を超えて、今、現にこうしてお念仏の声が世に響いていることに、驚きと感動を覚えるばかりです。
こうして私たちが親鸞聖人の、誕生を慶び、お讃えするように、実は親鸞聖人ご自身も、恩師である法然上人(源空聖人)がこの世にお出ましになったことを 『
高僧和讃
こうそうわさん
』に讃えられています。
曠劫多生
こうごうたしょう
のあひだにも
出離
しゅつり
の
強縁
ごうえん
しらざりき
本師源空
ほんしげんくう
いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
果てしなく長い間、生まれ変わり死に変わりし続けてきたものは、迷いの世界を離れさせる本願のすぐれたはたらきを知らなかった。
もし源空聖人がおられなければ、このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう。
(『三帖和讃』現代語訳)
親鸞聖人は感慨をもって恩師である
法然上人
ほうねんしょうにん
との出あいを振り返っておられます。
もし、法然聖人に続いて、親鸞聖人がこの世にお出ましにならなかったならば、私たちは「迷い《を迷いとも知らず、「仏《を仏とも思わない人生を歩んでいたことでしょう。
迷いを迷いと知らされ、仏さまを仏さまとして仰ぐことのできる人生を恵まれたことを、あらためてよろこばせていただくばかりです。
生死流転
しょうじるてん
の迷いを断ち切ってくださる阿弥陀さまの本願力。
その本願他力のお念仏によって今、深い迷いの
境界
きょうがい
から出る道に立たせていただきました。
すべては親鸞聖人のおかげであったのです。』(『本願寺新報 2023.1.1版』)
蓮如上人は、私たちが親鸞聖人と同じ信心の身になることが、親鸞聖人に対する真の御恩報謝であると説かれています。
親鸞聖人は、法然上人という方に出会われました。
法然上人も、親鸞聖人も、生死の問題を解決するのに、仏さまに出会われるまで、大変な苦悶をされた方々です。
つまり、「道を得る《ために、命がけで仏道を歩まれた先達です。
親鸞聖人は、「法然上人の言われることを、そのままに信じるだけである《と断言されるほど、法然上人を師として仰ぎ切られました。
それは、法然上人が道を得た人だと心底から信頼されていたからです。
私たち浄土真宗のご縁をいただいている者として、親鸞聖人を真に「道を得た人《 「
得道
とくどう
の人《として、仰いでいるだろうか?
そんなことが反省されてなりません。
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
蓮如上人
れんにょしょうにん
御一代記聞書
『我が心にまかせずして、
心を責め、
仏法は心のつまる物かとおもへば、
信心に御なぐさみ候と
仰せられ候。
蓮如上人
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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