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2022年12月
第134話
朝事*
住職の法話
「光と
闇
やみ
《
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称吊
今月は「光と
闇
やみ
《という題とさせて頂きました。
親鸞聖人の書かれたご和讃に、次のようなご和讃がございます。
『聖典セミナー 三帖和讃 正像末和讃 浅井 成海』【本願寺出版社】より引用させて頂きます。
『【本文】
無明長夜
むみょうじょうや
の
灯炬
とうこ
なり
智眼
ちげん
くらしとかなしむな
生死大海
しょうじだいかい
の
船筏
せんばつ
なり
罪障
ざいしょう
おもしとなげかざれ
【現代語訳】
阿弥陀如来の誓願は、煩悩に迷う衆生の心を照らす大きな
灯火
ともしび
であるから、智慧の眼が暗いと悲しむことはないのです。
阿弥陀如来の本願は迷いの大海での救いの船、
筏
いかだ
です。
だから罪深いと決して嘆くことはないのです。
【語釈】
無明長夜→無明について、親鸞聖人は「煩悩の王を無明といふなり《と示されている。「浄土和讃』には「無明の大夜《とある。
灯炬→大きな灯火。
智眼→智慧の眼。
生死大海の船筏→生死の大海に浮かぶ衆生を救うための弥陀の願船。
罪障→罪や障り【さわり】
【講読】
前の和讃で、如来の仏心をいただくゆえに信心を智慧のこころとあらわし、
涅槃
ねはん
への道が開かれることを示されました。
しかし、如来の誓いを受け入れれば悩みもなくなり、強くたくましい毎日がすごせると思いがちですが実際は、病気をすれば死ぬのではないかと恐れ、なかなか浄土を願う身とは なりません。
念仏を申し、誓いを受け入れる毎日は、喜びの連続で苦しみからほど遠い生活のように思いますが、悲しみや苦しみの中で立ち止まり、立ち止まりの生活です。
自分中心の思いばかりで、
罪業
ざいごう
の身が、いよいよ知らされます。
「
智眼
ちげん
くらしとかなしむな《 「
罪障
ざいしょう
おもしとなげかざれ《とありますので、事実は、智慧のこころが得られない、煩悩の身を歎く、私の姿が知らされます。
しかし、親鸞聖人は、少しも悲しむことはない、歎くことはないと説かれて、本願の大いなるはたらきをいよいよ明らかにされます。
「文明本《には、初めの一句 「
無明長夜
むみょうじょうや
の
灯炬
とうこ
なり《に「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。
常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ《と、また「顕智本《には 「
船筏
せんばつ
《に「弥陀の願をふね、いかだにたとへたるなり《と左訓【さくん】があります。
どんなに無明の闇が深く長くとも、生死の大海が無限にひろがっていても、弥陀の本願は大いなる灯であり、
船筏
せんばつ
であり、本願のはたらきは無限であると讃えられます。
み教えのご縁をいただくまでは当然のことと考えていたことが、あたり前ではないと知らされます。
大事な方との別れを体験し、無常の道理をお教えいただきながら悲しみを忘れることができず、苦しみつづける愚かな身であることも知らされます。
動物や椊物の命を頂戴することが当たり前と考えてきたことがそうではなく、それぞれのかけがえのない命をいただき私の命が保たれていることもお教えいただきます。
なんと罪の深い私であったかが知らされます。
しかし、その私が見抜かれて弥陀の本願は成就されているのです。
いかに無限のはたらきの中にこの私が生かされているかが知らされます。
私を浄め、高め、み仏に近づいていくのではなく、この身のままが救われていくお誓いなのです。
本当にこの私の愚かさを知り、罪業の深さを知るがゆえに、ますます本願の大悲が仰がれます。
本願の大悲が仰がれればこそ、私の本当の姿も知らされます。
そこに智慧の念仏を聞きつづけていく私の姿があるのです。
この身のままが救われていくということは、よろこびであると同時に、そこに痛みと悲しみがあります。
決して自分の愚かさや罪の深さをよしとする甘えではなく、念仏に聞く厳しい生活でもあります。』
この和讃は簡潔な言葉ですが、圧倒的な迫力をもって、無明煩悩の私に救いのはたらきが、あなたに働いているのですよ!と、伝えて下さいます。
引き続き、『聖典セミナー 三帖和讃 正像末和讃 浅井 成海』【本願寺出版社】より引用させてい頂きます。
『【本文】
願力無窮
がんりきむぐう
にましませば
罪業深重
ざいごうじんじゅう
もおもからず
仏智無辺
ぶっちむへん
にましませば
散乱放逸
さんらんほういつ
もすてられず
【現代語訳】
阿弥陀如来の本願力は無限ですから、
罪業
ざいごう
が深く重いことも
障
さわ
りとなりません。
仏の智慧は無限に広いのですから、散り乱れた悪い私の心をも嫌わず、浄土に参らせていただけるのです。
【語釈】
願力無窮【がんりきむぐう】→弥陀の願力のきわまりないこと。
散乱放逸【さんらんほういつ】もすてられず→親鸞聖人は「我らが心の散り乱れて悪きを嫌わず浄土に参るべしと知るべしとなり《と示されている。
【講読】
親鸞聖人が尊敬しておられた
聖覚法印
せいかくほういん
の 『
唯信鈔
ゆいしんしょう
』の中に、仏力は
無窮
むぐう
であるから
罪業深重
ざいごうじんじゅう
の身も救われ、
仏智無辺
ぶっちむへん
であるから
散乱放逸
さんらんほういつ
もおさめとられると述べていますが、この和讃はその文を依りどころとしています。
散乱放逸
さんらんほういつ
という難しい語句が使われていますが、こころが散り乱れ、こころのおもむくままに悪をなすという意味です。
自分のこころをおさえることができない人であっても救われるということを明らかにされます。
ところで第一句の本願力が
無窮
むぐう
であるということは、そのはたらきがきわまりなく無限であることをあらわします。
必ずお救いくださるはたらきをいいます。
それゆえに、どのような
罪業深重
ざいごうじんじゅう
の身であっても無限のはたらきにより救われるのです。
罪業深重
ざいごうじんじゅう
とは、どうしても自分中心の思いをすてきることができず、他の命の犠牲の上に生活している私のことです。
教えに
遇
あ
う前は、自分が
罪業深重
ざいごうじんじゅう
であるということなど思いもよらぬことでしたが、教えに遇う機会をかさねる中で、いかに自己中心的であるかが知らされます。
自己中心であることが知らされると同時に、本願力の無限のはたらきも知らされます。
親鸞聖人は、徹底して人間の
罪業深重
ざいごうじんじゅう
であること、それが 「親鸞一人(いちにん)においてより明らかになる《ということを告白されます。
同時に本願のはたらきのただ中にあることも喜ばれます。
この和讃は、言葉の説明ではなく、聖人ご自身が念仏に聞き、念仏申す身の喜びを語っておられるのです。
仏智無辺
ぶっちむへん
は如来のはたらきです。
広大無辺のはたらきの中で、いよいよ知らされてくるのは、
我執
がしゅう
を断ち切れない悪なるこころのはたらきです。
しかし、
散乱放逸
さんらんほういつ
の身のままが、
仏智
ぶっち
の
無辺
むへん
におさめとられるのです。
この和讃は、
願力無窮
がんりきむぐう
と
仏智無辺
ぶっちむへん
が如来のはたらきをあらわし、
罪業深重
ざいごうじんじゅう
と
散乱放逸
さんらんほういつ
が人間の闇の深さを示しています。
しかもその
闇
やみ
の深き身も
本願力
ほんがんりき
のはたらきによって救われる身であることを喜ばれます。
罪業深重
ざいごうじんじゅう
も
散乱放逸
さんらんほういつ
も、本来、仏道修行においては認められません。
親鸞一人を「我ら《とあらわします。
自らの力を磨いて浄らかな身となるようにつとめなければなりません。
どこまでも善い行いをなし、自己中心の
煩悩
(
ぼんのう
)
を断ち切らなければなりません。
しかし、その道はなんと遠く厳しいことでしょう。
これは人生の歩みをかさねる中で、いよいよ知らされます。
あるいは大きな苦しみや悲しみに直面する時に、私の深い闇、さらには人間の闇が知らされます。
しかし、
本願力
ほんがんりき
のはたらきにたち帰るとき、この身のままで大いなるはたらきに はからわれることも ますます知らされます。
むしろ
罪業
(
ざいごう
)
の身であることの中に、
放逸
(
ほういつ
)
なる身の中に、如来のはたらきが知らされます。』
これらの二つの和讃は、特に私の心に響いてくるような気がします。
『
願力無窮
がんりきむぐう
と
仏智無辺
ぶっちむへん
が如来のはたらきをあらわし、
罪業深重
ざいごうじんじゅう
と
散乱放逸
さんらんほういつ
が人間の闇の深さを示しています。』
この短い法語の中に、無限の味わいがあるような気がします。
無辺
(
むへん
)
とか、
無窮
(
むぐう
)
とかいう言葉は、無限の世界を表しています。
ただ
仰
(
あお
)
ぐしかない、 ただ
伏
ふ
すしかない、頭が下がるしかない世界でしょう。
以前、ある信者の方の年賀状に次のような言葉が書かれていました。
『
闇
やみ
の
虚空
こくう
は
無辺際
むへんざい
荒野
こうや
をさまよい
無量劫
むりょうこう
やれ うれし
本願
ほんがん
の月
希望を 乗せて さし招く』
このような言葉だったように覚えています。
味のある字で、毛筆で書かれてありました。
「
荒野
こうや
をさまよい
無量劫
むりょうこう
《
とありますが、私にははっきり思い出すことは出来ませんが、
無辺際
むへんざい
な
闇
やみ
の
虚空
こくう
。 そんな
荒野
こうや
を
無量劫
むりょうこう
もさまよってきた。
そんな気の遠くなるような、迷いに流転してきた歴史が、私にはあるのでしょうか?
この度、人間に生まれさせていただき、仏法に出会わせて頂いたことは、
百千万劫
ひゃくせんまんごう
にも
遇
あ
うことが難しいことだったのでしょうか?
そうであれば、今、仏法に出会えた、このチャンスを真剣に考え、聴聞していくことなく、ただぼんやりとしたままで、過ごしてしまうことは、実に惜しいことであり、 また、恐ろしいことでもあるような、そんな気がするわけであります。
ただぼんやりと聞いているだけでは、またもや流転しかないのだと、自分に言い聞かせなければ、誰れも私の身代わりになってくれるわけではないのですから。
とはいえ、
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
することは、中々難しいことですね。
『
散乱放逸
さんらんほういつ
』と言われてあるように、こころが散り乱れ、こころのおもむくままに悪をなす、自分のこころをおさえることができない人 という
凡夫
(
ぼんぶ
)
としての
惰性
(
だせい
)
というような力が、強く働き、理想と現実の板挟みですね。
寸善尺魔
(
すんぜんしゃくま
)
というように、一寸 善をしたとしたら、一尺 悪をするような 自分の気まま、わがままが、身についているから、仏法を身につけるのは、そう簡単ではないですね。
本願寺新報
(
ほんがんじしんぽう
)
「みんなの法話《 【2022年(令和4年)9月10日、花田 照夫 布教使 長明寺住職】に、
「たもつ《という題のご法話が掲載されていました。
大変感銘を受けました。 一部ですが、ご紹介させていただきたいと思います。
『親鸞聖人は、阿弥陀様のお慈悲を「摂取上捨《(せっしゅふしゃ)と喜ばれました。
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の私を見抜き、摂(おさ)め取り抱きしめ、決して捨てることのない、それが阿弥陀さまのお慈悲の世界です。
そして、このお慈悲はどこか遠くにあるのではなく、「今、ここ、私《の上に南無阿弥陀仏となってはたらいてくださっているのです。
この世界を、妙好人(みょうこうにん)の浅原才市(あさはら さいち)さんは、
「目にみえぬ お慈悲が言葉にあらわれて 南無阿弥陀仏と 声でしられる《
と味わっていかれました。
「お念仏《は私がする「行為《というよりも、阿弥陀さまが私を抱きしめてくださっている「すがた《なのです。
この南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのお慈悲そのものです。
ザルで水を「たもつ《ことはできませんが、水の中にザルをつけると、ザルの中にも水がたもたれる姿となってあらわれます。
それは、水によってザルがたもたれるからです。
お慈悲の水にたもたれているザル、それがお念仏を称える私のすがたなのです。
浄土真宗は、自らの口からこぼれる「ナンマンダブツ《に、自らが出遇(あ)わさせていただく、喜びの世界です。
私を「あなたは大事な一人子(ひとりご)です《「そのまま来い、このまま救う《と抱きしめてくださる阿弥陀さまのお慈悲を、自ら称える南無阿弥陀仏のうちに聞き、味わい、 受け取らせていただく。
それが、阿弥陀さまを「親さま《としていただく、浄土真宗の日々の生活です。
「あれごらん 親に抱かれて寝る赤子 落ちる落ちぬの心配はなし 稲垣瑞剱《
(本願寺新報 みんなの法話 2022年9月10日 花田 照夫 長明寺住職)』
母親が笑顔で赤ちゃんを抱いているイラストが描かれてありました。
私自身、 「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
《 「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
が大切なんだ。《と、言い続けて来た気がします。
もちろん、自分自身への掛け声の意味合いが強いのですが、、。
しかしながら、情けないことですが、実際は、いくら真剣に仏法を聞いているようでも、ザルで水を汲むように、「仏法を聞いていく端から、水漏れしている《 そんな仏法聴聞ではなかったでしょうか?
しかし、ザルを水に浸すと、穴だらけのザルにも、水が満たされます。
先ほどの、二つのご和讃にも、
『教えに
遇
あ
う前は、自分が
罪業深重
ざいごうじんじゅう
であるということなど思いもよらぬことでしたが、教えに遇う機会をかさねる中で、いかに自己中心的であるかが知らされます。
自己中心であることが知らされると同時に、本願力の無限のはたらきも知らされます。』
と示されてあるように、ザルのような私と、大海の水のような本願力の働きが同時に表されている二種のご和讃ではなかったでしょうか?
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
蓮如上人
れんにょしょうにん
御一代記聞書
『仏法には、万かなしきにも、
かなわぬにつけても、
何事に付(つ)けても、
後生のたすかるべきことを思えば、
よろこび多きは仏恩なりと云々。
蓮如上人
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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