平成24年11月

朝事*住職の法話

「月愛三昧」


『教行信証』には、いくつもの物語が記してあります。アジャセの物語、二河白道、法蔵菩薩、など、

その中で、アジャセの物語は大量のページ数をさいて、『教行信証』に引用されています。

そこに親鸞聖人の思い入れを感じ取ることができるでしょう。

親鸞聖人はアジャセの救いに自分自身を重ねていたと述べておられます。

親鸞聖人は、自分自身とアジャセを切り離して考えられなかった、 その姿勢に大事なことを教えられます。

アジャセの物語でありながら、彼一人の個人的な物語ではないようです。

このアジャセの物語は普遍的な人間というものの物語ではないか?

仏教では、よく譬え話、比喩ひゆ というものがございます。

「仏法の話を比喩と思っているようでは駄目だ。比喩以上のものだ。」 と諭されたことがあります。

比喩と、呑気のんきに見ているようでは駄目で、まさに自分自身のことと味わわなければならないと 教えられました。

お釈迦さまが在世の頃、インドのマガダ国の王舎城おうしゃじょう

その王国一家のアジャセはマガダ国の王子。

このアジャセの父であるビンバシャラ王は敬虔な仏法者でもありました。 釈尊の外護者げごしゃ でもありました。

釈尊のいとこでもあり、彼になりかわって仏教の指導者たろうとたくらむダイバダッタは、 アジャセに近づき取り入ります。

アジャセをそそのかして父ビンバシャラ王を殺させようとしていたのです。

代わりに王になったアジャセの外護げごを受けることで、 自分が第一の指導者になるという野心があったのです。

ダイバダッタはアジャセの出生の秘密をかぎつけ、それを彼に教えて、 自分の野望を果たそうとしました。


それは、ビンバシャラ王、イダイケ夫人の夫婦が、生まれたばかりのアジャセを 殺そうとした過去があるということです。

ビンバシャラ王、イダイケ夫人の夫婦は長いこと子供が出来ませんでした。

ある占い師に占ってもらうと、占い師は、

「一人の仙人が、今、山中で修行しておりますが、 三年後にその仙人が死に、イダイケの母胎に宿って、あなたがたの息子として生まれかわるでしょう。」

その三年が待てない王は、仙人に早く生まれかわってくれと頼みます。断られた王は、 使者をつかわして、ついに仙人を殺害してしまいました。

「わしを殺すよう命じた人間を、わしも必ず殺すよう命じてみせる。」

仙人の死とともに妻のイダイケが懐妊します。そこで占い師に占なってもらったところ、

その子は父に対して恨みを抱いており、将来はかならず父を殺すであろうと予言したのです。

この予言に恐れを抱いたイダイケ夫人は、出産に際して高い塔の上から赤子を生み落しました。

つまり愛しいわが子を亡きものにしようとしたのです。

しかし、その子は奇跡的に、指一本だけ折るという軽傷ですみ、無事に生まれました。

その産声を聞いた夫婦は、今までの恐れも不安も忘れ去り、その子をアジャセと名づけ、 大切に大切に育てました。

この出生の秘密をダイバダッタはアジャセにささやきます。

この話を聞き、アジャセは、父ビンバシャラを幽閉ゆうへいし、 一切の食を断たせます。

その父を助けようとした母イダイケを殺しかけるのですが、 ギバ大臣、月光がっこう大臣にいさめられ、やむなく、 母も幽閉してしまいます。

この反逆罪によって、王となったアジャセでしたが、父ビンバシャラの死の知らせを聞き、 猛烈もうれつな後悔の念に さいなまれることになります。

その後悔の思いは、ただ彼の心中にとどまるものではなく、後悔から湧き出る 悔熱けねつへと姿をかえて、 その悔熱けねつは彼の身体中に かさ(できもの)をひきおこします。

この全身のかさは、なんともいえない悪臭を放ち、 誰れも近寄ることが出来ないほどであったと 記されています。

誰れも近寄らない病床びょうしょうの中で、アジャセは、

「この身体にむくいを受けた。その結果として地獄は遠くない。」と、

孤独の中でもがき苦しんでおりました。

その誰れも寄りつかないアジャセに、ただ一人薬を持って看病にやってきたのは、母イダイケでした。

誰も自分を認めてくれない、すべてから拒絶きょぜつされている、孤独な姿が罪の姿です。

罪の姿は『孤独』ということです。ひとりぼっちです。

このアジャセの身体中にできたかさは、何を意味しているのでしょうか?

経の味わい方は、ただ事実だけを理解するのではなく、仏様の説かれた仏説ぶっせつ説話せつわとして、意味しているもの、物語っている真意を うかがう態度・姿勢が大切でしょう。

『言葉によって教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、 指ばかりを見て、月を見ないようなものである。その人は

「わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て 月を見ないのか」というであろう。

これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。 このようなわけで言葉に依ってはならないのである。』

と親鸞聖人は『教行信証』の中で述べておられます。

「あれが月だよ」と指さしたときに、指した指ばかりを見て、肝心かんじんの 月を見ていない。この比喩ひゆにおいて、指は「ことば」を あらわしています。

ことばだけにとらわず(『語に依るべからず』)、物語そのものがいわんとしていること(義) が明らかになったとき、 仏教聖典の物語が現代人にも生き生きと語りかけてくるでしょう。

ギバ大臣が、初めてアジャセの強烈な罪意識と不安を、そのままで認めたのです。 アジャセの現実をそっくりそのままで認めます。

自分をそしって自分の過去を否定しつづけている人間には、自分の罪の現実をしっかりと 見据みすえてくれ、受け入れてくれる存在が如何に大きなものか。

そこに、人間は閉じきっていた心を次第に開いていくことになるのでしょう。

とんでもないことをしてしまったと自分の悪行を悔いながらも、そのむくいが きっと地獄であろうと、おそれおののいているアジャセの「恐怖と不安」です。

「ギバ、わたしの病は重いのだ。父王を殺してしまった。父には何の罪もなかった。どんな名医でも良薬でも、 わたしの病を治すことはできないであろう。そして、その悪行の報いとして、かならず地獄におちるであろう。 どうして安眠などできるであろう。」とアジャセは、胸中を吐露とろしました。

ギバは、「なるほど王は罪を犯されましたが、いま非常に後悔し、慚愧ざんぎの 心をいだいておられます。釈尊だけが王の病を治すことが出来ます。」

ギバは、アジャセの罪意識と後悔の思いを慚愧ざんぎの心の芽生えとして、 とらえ、めました。このことは大切な意味があります。

『教行信証』信巻の中には、

『仏がたはつねに次のように説いておられます。二つの清らかな法(白法びゃくほう)が あって、衆生しゅじょう(人間)を救うことができます。

その法とは、一つには「ざん」であり、二つには「」です。

ざんとは、自分が二度と罪を作らないことであり、とは、 人に罪を作らせないことです。

また、ざんとは、心にみずからの罪をじることであり、

とは、人にみずからの罪を告白して恥じることです。

また、ざんとは、人に対して恥じることであり、とは、 天に対して恥じることです。

これを慚愧ざんぎといいます。
慚愧ざんぎのないものは人とは 呼ばず、畜生ちくしょうと呼ぶのです。』

自分の犯した罪を後悔し、二度と罪を犯すまい。そして、人にも教えて犯さしめない、という後悔と決意。

この天にも人にも恥じ入る気持ちが慚愧ざんぎの意味なのですが、

この慚愧ざんぎが深まっていく過程が信心を得ていく過程と密接に関係します。

天から『大王よ、お前の悪業あくごうはかならずその報いがあるから、

はやく釈尊のもとへ行きなさい。釈尊以外には今のお前を救うことはできないのだ。』という声がしました。

その声は『大王、わたしはお前の父ビンバシャラだ。」という、なんと父親の声でした。

最愛の息子に殺害され、幽閉されても、なお愛情を示しつづける父母。 しかしアジャセの苦しみは彼自身が引き受けるしかありません。

代わりたくても代われない。それが人間の厳しい現実なのです。

このようなアジャセの苦しみ、悲しみを知った釈尊は、お弟子たちにつぎのように語りかけました。

『アジャセのためにわたしは涅槃ねはんに入らない。』と。

涅槃ねはん目前もくぜんにした 最晩年さいばんねんの釈尊は、罪を犯し苦しんでいるアジャセを 残して、自分ひとりでは涅槃ねはん境地きょうちには 入らないと語るのです。

「アジャセとは、すべての五逆ごぎゃくつみつくる者のことを言う。」

「アジャセとは、煩悩ぼんのう具足ぐそく している者のことを言う。」

「アジャセとは、仏になりたいと願う心(菩提心ほだいしん)をまだおこしていない者のことを言うのだ。」

「わたしがひとりで涅槃ねはんに入らないと語ったのは、いま苦しんでいるアジャセの ためだけを言うのではない。

アジャセと同じように五逆罪ごぎゃくざいを犯したり、また みずからの煩悩ぼんのうに苦しみ、そして、仏になりたいと願う心 (菩提心ぼだいしん)をおこせない者たちすべてを残しては、 私はひとりで涅槃ねはんに入ったりしないのだ。」

「だからこそ、わたしはアジャセのため(そして、アジャセと同じように苦しんでいるすべての者たちのため)に 無量億劫むりょうおくこうという長い時間、ひとりで涅槃ねはんに 入らないと言うのだよ。」

ここに、アジャセを思う釈尊の「慈悲のこころ」が「ことば」となっています。

このように語った後に、釈尊は月愛三昧がつあいざんまいという ぎょうに入られました。

この月愛三昧とは、ちょうど月の光がすべてをやさしく包み込んで照らすように、身分や貧富、職業などを問わず、 仏の大きな慈悲のこころが人びとを平等に包んで、その苦しみを和らげることを言います。

誰れからも、認められず、孤独になっている罪の私に、どこどこまでも、寄り添い、決して裏切らない、 決して離れない慈悲のこころに癒され、心を大きく転回していく原動力になっているのが仏さまの慈悲のこころでしょう。合掌

(『アジャセからの贈りもの』都路 恵子 著 を、参考にさせて頂き、学びました。有難うございました。)


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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