今月の・住職の法話
平成24年10月「一度きりのであい」
『法句経』に、
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも、汚れた心で話したり、
行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。-車をひく(牛の)足跡に車輪がついていくように』
『もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
−影がその体から離れないように』
【「真理の言葉」中村 元訳】
とあります。
ここに、現代社会で、あくせく生きている私が、深く省みるべき真理が示されていると思います。
経済大国という言葉がありますが、現代では、「金が無ければ幸せになれない。」と子供までがそう感じているのではないでしょうか?
お金さえあれば、ゲームでも、スマートフォンでも、何んでも自分が欲しい物が買えるからです。
そんな、物・金中心主義は、どこから来たのでしょうか?
ある老婦人は言われました。
『人間は楽がしたいのだ。自分が楽するということを中心に物事を考えている。自分の欲望とは、「楽がしたい。」ということです。
楽な方に楽な方にと、わがまま、気ままに、向かっていく。
自分の欲のままに、生きて、自分で、自分の欲望に歯止めをかけるということを忘れている。
現代のように飽食の時代では、恵まれ過ぎて、自分の欲に歯止めをかけること、自己を律することが出来ない。』
等々と、言われ、私も返す言葉もありませんでした。
現代は、飽食な中で、忍耐や、辛抱することを忘れ、何でも、物や金で、考える習慣が身についてしまったのかも知れません。
先ほどの『法句経』の言葉にありますように、『心を主とする』ということが、忘れられていると思わずにおれません。
確かに、食べるものは、豊かになっています。昔の食べ物の無い時代を知っている人が言われました。
『毎日が盆・正月のような食事だ。私は、昔の食べ物が無い時代も、
現代の、食べ物が恵まれた時代も、両方知っている。』と。
飽食といいましたが、ある男性が言われました。
『今の人間は平和ボケしている。わしらが子供の頃は、食べるものが無かったんだから。今の人間はボケている。
昔は、「腹減った」と言って、食事をしていた。今の人間は、感激もなく、黙って食べている。』と。
ある方が言われました。
『私たちは食事とは、口で食べる、舌で味わうと、全てモノ中心に考えます。
しかし、もし、心に心配事があれば、
どんなご馳走も舌では感じないのではないでしょうか。
心の怒りを抑えながら食べたら、味はありますか?
それに対し、好きな人と楽しく食べながら、いい景色を喜びながらの食事の味は格別です。
口で食べ、舌で味わう、決してそれだけが食事ではありません。
人は「心で食べる」のです。「心で味わっている」それが事実・現実です。
そう意識して、食事をしてみると、味が全く違ってくるのに気付きます。まさに「心によってつくりだされる」のです。
世間には、豪邸に住みながら一片の感謝の心もなく、憎み合って過ごす人もいるでしょう。
食も住も衣も、喜ぶ心、それを感謝する心があって初めて幸せとなるのでしょう。』と。
「おかげさま」と感謝の言葉の出る人はボケを防ぐと言われています。
『心を主とする』とのブッダの教えは、現代人に欠落した、人間の幸福な生き方の根源を示しているのかも知れません。
阿弥陀如来のおよび声を聞き、そのお慈悲の中に生かされている「こころ」を身に得た者は、常にその喜びを忘れず、
おかげさま、有難し、と報謝の日々を恵まれる。
ここに、どんな人生でも、「ようこそ、ようこそ」と、生きていく、最高の道筋が示されているように思われます。
オアシスという言葉があります。
オ(おかげさま)、ア(ありがとう)、シ(しあわせです)ス(すいません)です。
ある信者のおばあちゃんは、
『無いものを欲しがらずにあるものをよろこばせてもらおう』と味わわれました。
確かに、目が見えるそれ一つでも大きな幸せでしょう。
当たり前と思っていたことが、どれだけ幸せなことか喜び続けた、我々の先輩の信者もいます。
そういう先輩方の信心の姿が我々を、無言のうちに導いて下っているように思えてなりません。
そういう信者の姿から、信心の香りというものは自然に伝わっていくものなのかも知れません。
河村とし子さんという方が、甲斐 和里子先生という先生を訪ねて行かれました。
甲斐 和里子先生という先生は、『草かご』『落葉かご』などの本を書かれた方です。
甲斐和里子さんが八十四歳でいらした時に、ある方の紹介で、河村とし子さんは、こころはずませながら、京都まで、
尋ねて行かれました。
初対面のごあいさつを申し上げた瞬間、甲斐 和里子さんから、
『遠い所からよう来られました。・・・よう念仏に出あわれたことよのう。
よかったのう。よかったのう。ほかの事は皆こまい、こまい」
とそのお顔の前で手を振られたのでした。
甲斐 和里子先生は、八十四歳でいらしたのに、その毅然としたお声、お言葉。
河村とし子さんは、もう何も言えず、胸いっぱいになって、涙がドォーとあふれ、ただ「ありがとうございました」とお礼申し上げたのみ、
他は何のお話もうかがわず、帰宅されたのでした。
一度きりのお出会い、でも、河村とし子さんには、甲斐 和里子先生のお顔が、お声が、絶えず絶えず、いまだに眼前に浮かび、
耳朶に響いているのです。
ほんとうに他のことは皆こまいこまい、取るに足りないことだったのです。
私に恵まれた、出会いを通して、私たちも、仏さまの本願の大きな大きな心に触れ、『本願力は大きいなあ。』と、
わが身に深く味わわせて頂きたいものです。
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩
のままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
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