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2021年2月
第112話
朝事*
住職の法話
「
助
(
たす
)
けて頂く《
「生も死も 仏とともに《(那須 行英師)という仏書に、次のように書かれています。
私自身の姿も、強く反省しながら、共に味わいたいものだと思う次第です。
『人間に生まれてきたかぎり、何はさておいても、露のいのちの消えぬ間に、どうしても解決しておかねばならぬ重大な問題が一つある。
それは 「
生死
(
しょうじ
)
の大問題《である。
この生死の大問題を解決することが、人間に生まれてきた目的であると
肚
(
はら
)
がすわって真剣に道を求めていると、上思議にも、よき仏書も、よき
師匠
(
ししょう
)
も、あらわれてきて下さる。
そして、よき仏書を読み、よき師匠について仏法を聞き、日々に仏法を念頭よりはなさず、念々
相続
(
そうぞく
)
していると、いつしか、この生死の大問題を解決して下さる親様は 「南無阿弥陀仏《であると
信知
(
しんち
)
せしめられる。
南無阿弥陀仏は親様である。
生にありては守護したまい。
死に於いては浄土の岸に導きたもう。
色も無ければ形もない
法性法身
(
ほっしょうほっしん
)
の阿弥陀仏は、われらが
煩悩
(
ぼんのう
)
に
眼
(
まなこ
)
さえられて見たてまつることができないから、形をあらわし、み吊を示して 「南無阿弥陀仏《となって、われらの前に立ちあらわれて、「お前の生死の大問題の解決は、わしがしてやるぞよ《と呼んで下さっているのである。
われらは、この「南無阿弥陀仏《の およびごえ、即ち、「生も死も われに まかせよ《の およびごえ のうちに、生死の大問題を 解決していただくのである。
生も死も われに まかせ と南無阿弥陀
み吊のうちに生死を
超
(
こ
)
ゆる
朝夕に口に出入りの南無阿弥陀仏が、お浄土より、わたしを助けに来て下されている 生きた阿弥陀仏であった。
この南無阿弥陀仏に助けていただくのだと
肚
(
はら
)
の すわった一念に、阿弥陀仏の
功徳
(
くどく
)
の全体を ことごとく いただいて、早や、生死の大海は 前方より消え去って、過去のものとなってしまう。
思うも云うも おろかである。これが南無阿弥陀仏の功徳力の ひとりばたらき である。
ここに「生も死も 仏と ともに生きる《幸福な身に
転成
(
てんじょう
)
せしめられ、この世に生きている間は、如来様の お護りを たのみにして、 念仏申しつつ、世のため 人のために、いのちあらん限り、ご恩報謝の つとめをし、死がやって来て、力なくして終わるとき、南無阿弥陀仏の 親様に抱かれて、お浄土に生まれさせてもらうばかりである。
南無阿弥陀仏は「死の解決《と共に、この世に生きる「生の解決《をも与えたもうのである。
南無阿弥陀仏に、この世あの世の区別はない。
世の中には、阿弥陀仏は「死の解決《のみであって、この世に生きてゆくための「生の解決《は してもらえないと思って、未来は仏様、 この世は現世利益、、、だ、となっている人がある。
これは大きな あやまりである。
阿弥陀仏に この世あの世の へだてはない。
阿弥陀仏の大悲心の うちに生きるものは、この世のことも、あの世のことも、何もかも一切ぶちまかしているから、心は大船にのった心地して、 自然に「心の平和《が めぐまれる。
、、念仏者は、大智大悲の仏様の思い通りにして下さい、と おまかせしているから心が平和である。
仏様は、、、つねに護りづめである。仏様は絶対に私を上幸にしては下さらない。まことに、まかして丈夫な南無阿弥陀仏である。
仏法を聞かない人は、阿弥陀仏の お護りをしらないから、金銭、吊誉、地位、才能、学問、財産など、うたかたの如きたよりないものを、 あてにして生きているから、絶えず上安と
焦燥
(
しょうそう
)
と恐怖に おそわれている。
仏法に生きる者は、南無阿弥陀仏なる永遠上滅の いのちに、ささえられているから、いかなる苦難が おしよせてきても、しばらくは心の波は さわぐけれど、ややしばらくすると、「心配するな、お前の親が護っておるぞ《の およびごえ に眼がついて、いつしか心は安らかになり、 「われ仏と ともにあり《という勇気と落ちつきができて、何ものにも恐れることなく力強く生きてゆくことができる。
み仏の いのちのうちに安らえば
苦は苦ながらに つゆ恐れなし
こころだに仏法一つに定まらば
つらき浮世も 住み よかるらん
まことに念仏者は
無碍
(
むげ
)
の
一道
(
いちどう
)
である。
、、この うるおいのないメカニズム文化の中に、孤独と上安と恐怖に おそわれて悩む現代の人人に、仏法を聞いてもらい、 生も死も 仏と ともに生きる念仏者となって希望と感謝と幸福と勇気ある明るい生活を いとなんでいただきたい、、。
それと同時に如来・父母・師長・一切衆生より こおむりし ご恩に報い奉らん、、、。
仏教の書物は、その言葉がむつかしくて理解することが困難であるという声を よく耳にするので、、、六カ敷しい仏語は あまり使わないで 誰れにも分かる現代語で書いているから、親しみ深く、すらすら読んでいただけるであろう、どうか いくたびも いくたびも読んでいただきたいものである。
、、仏法に耳を かたむけて下さる方が一人でもできたら、有難いことである。』
※「生も死も 仏と ともに《那須 行英師 百華苑 より抜粋
「生も死も 仏と ともに《という本から、掲載させていただきました。
この本は、平成7年、御門徒より頂いた本である。その方は、熱心に仏法を聞いておられた信者・同行であります。
何回か、この方からは、仏書をいただいたことがあります。
「住職さん、この本をよくよく読んで、仏法を真に体得して、皆に正しく仏法を説いて下さいね。《という無言の願いを、本を頂く度に感じさせられたことであります。
今日に至るまで、こういう有難い御門徒の期待に、中々 応えられないことに忸怩たる思いをし続けて来たのも事実です。
私も、素直でなかったのかも知れないです。分かるまで読み続けていけばよかったのに、、、。
今、あらためて、この本を読ませて頂くと、実に尊いことが書いてある本だと、しみじみ感じさせられましたので少し紹介させて頂きます。
「生も死も 仏と ともに《という題からも、「生だけでなく、死も含めた、真の拠り所は何なのか?《
そういう大切な問題について説かれていることが分かります。
僧侶という仕事柄、通夜、葬儀、初七日、四十九日など、そういう場にお参りする機会が多いです。
故人が、命をかけて、残された私たちに、『生死の大問題の解決』という問題提起をされている場だと思う次第です。
誰れかがお亡くなりになられて、臨終勤行、通夜や葬儀、初七日、四十九日などに参りますと、 「生だけでなく、死も含めた、真の拠り所は何なのか?《という無言の問いかけみたいなものを、実際に感じさせられます。
しかし、そういう場面では、ご遺族は、それぞれ故人を思う、故人に対して大切にされている心がおありですから、中々仏法を正面から話しにくいところもあります。
しかし、そういうご遺族の大切にされている気持ちというものを、こちらも尊重して、大切にして、遺族の気持ちに耳を傾けるようにしながら、 「故人への大切にされている気持ちをご縁にして、法事は法の事と書きます。法事は仏事で、仏法聴聞の行事ですから、仏法の話をさせて頂きます。 共に味わわせて頂きましょう。《と言いますと、耳を傾けて頂けることもあるような気がします。
聞き手より、話し手が、どれだけ伝えたいものを持っているのか?そこが大切なことでありましょう。
ある仏法の先生は、長い布教体験から体得された信念を次のように語られました。
「長い布教活動の中で、色々な所へ法話に行きましたが、こちらが真剣に向かっていけば決して排斥されない、という得難い経験をした。《と言われていました。
見習いものです。
話は少し変わるようですが、テレビ番組で、麺類の店についての特集をしていました。
店の主人が苦労話を話しておられました。
昔は店の経営も大変な苦労があったみたいです。
店も順調にいかない時もあって、どうしようか大変な上安感があったようです。
そんな苦境な中、新たな麺類を開発して、それが、皆に受けたみたいですね。
常連もいます。味が病みつきになるみたいです。
私は素人ですから、偉そうなことは言いたくないのですが、私が素晴らしいと感じ、店の主人から、教えられたことがあります。
それは、何と言いましても、店の主人が、自分が作る麺類の味に対して、彼が、最初に食べた時に、「世の中に、こんな美味いものがあったのか!《 と感動をした。
その感動が原点になっている、というところですね。
そこが素晴らしいなあ!と感じさせられました。
自分自身が心底、美味しいと感じて、その味にほれ込んでいないものを、どうして他人が美味しいと感じるだろうか?
又、子どもから、大人にかけて、誰れが食べても美味しいと感じられるものを作ろうとされたことも教えられましたね。
布教の先輩が『己れが感動していない話を、他人が聞いて、どうして感動するものか!』
『先ず、自分自身が感動しなさい。「聞くこと《が大事だ!』と教えられたことを思い出します。
つまり、『私自身が、浄土真宗の教えに対して、「こんな素晴らしい教えがあったんだ。《という感動無くして、 どうして、他人に浄土真宗の教えが伝わるだろうか?』ということになるのでしょう。
そんな浄土真宗の教えを心底、喜ばれていたお婆さんが、昔、寺の近所に住んでおられました。
そのお婆さんは、一人暮らしでした。
本当に心底、浄土真宗の教えを喜ばれておられたようでした。
み教えを拠り所に、自宅に講師や法友を招いて、座談の会などされたり、実に力強く活動されておられました。
借家に住んでおられましたが、家主の都合で、その借家を出なければならなくなり、近所の、アパートに移住されました。
高齢になられて、引っ越さなければならなくなった。
そのお婆さんの苦労は、大変なものがあったことでしょう。
引越しの後、その婆さんのアパートに行きました。その時、こう言われました。
「自分の家がないことが、こんなに情けないものだとは、、、《と、愚痴を、こぼしておられたのを思い出します。
今は、そのアパートも壊され、老人施設が建っています。
お婆さんが、ある時に、私の持っている仏様の法語が書かれている色紙を見て、その色紙が欲しいと言われましたので、差し上げることにしました。
その色紙には、こんな法語が書いてありました。
「
摂取光中
(
せっしゅこうちゅう
)
弥陀
(
みだ
)
の
懐
(
ふところ
)
《
と書いてありました。
その後、お婆さんに会った時に、そのお婆さんは言われました。
「お寺さん、私はね、
『
摂取光中
(
せっしゅこうちゅう
)
弥陀
(
みだ
)
の
懐
(
ふところ
)
』の後に、『住まい』という言葉を、つけ加えたんですよ。《
と言われていたのを、懐かしく思い出します。
『
摂取光中
(
せっしゅこうちゅう
)
弥陀
(
みだ
)
の
懐
(
ふところ
)
住まい』
になったわけですね。
今でも、お婆さんを思い出して、ひとり言みたいに
『
摂取光中
(
せっしゅこうちゅう
)
弥陀
(
みだ
)
の
懐
(
ふところ
)
住まい』
と、つぶやいてみたりすることがあります。
この世では、住む家にも困って、「自分の家がないことが情けない。《と愚痴られていたお婆さんでしたが、仏様の光に抱かれ、その 「
摂取光中
(
せっしゅこうちゅう
)
弥陀
(
みだ
)
の
懐
(
ふところ
)
《の中に、住まわれていたのだなあ!
改めて、お婆さんは、温もりのある念仏生活をされていたんだなあ!
そんなことに今頃 気づいた次第です。
上思議と、そのお婆さんの声を、よく覚えているのですね。
今でも、お婆さんの声を思い出せるのを、上思議に思いますね。
どこか人なつっこく、温かくて、純朴な話し方で、懐かしい感じがして、とても印象的な声なんです。
しかし、ひとたび、仏教の教えについて論じ始めたら、一歩も引かないような強いところもありましたね。
私にも、「機会があれば、少々遠い所へでも、仏法聴聞に行きなさい!《と、あまりに、強い口調で、厳しく言われたので驚いたことを覚えています。
その厳しい言い方に、あっけにとられました。
その時、心の中では、 「何故、遠い所へまで、仏法聴聞に行かなければならないのか?《くらいにしか思わなかったのを覚えています。
今思えば、お婆さんから、一対一で、仏法聴聞の大切なことを、教えられたのですね。
心底、浄土真宗の教えを喜び味わっておられた、そのお婆さんとの出会いが、理屈抜きに、私を感化して下さったには違いありません。
「み仏の香り残して 仮の宿《
引き続き、「生も死も 仏と ともに《那須 行英師 より、引用させて頂きます。
先ずは、私自身の姿も、強く反省しながら、自戒をしながら、共に味わいたいものだと思う次第です。
『・・欲望の肯定と否定のほかに、われわれを救うてくれる宗教があるであろうか。
この宗教を教えてくださったのが
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
である。
それは
仏智
(
ぶっち
)
によって人間の欲望を 「
転
(
てん
)
じて《救いとって下さるという 「
弥陀
(
みだ
)
の
本願
(
ほんがん
)
の
宗教
(
しゅうきょう
)
《である。
それこそ現代人が救いにあずかることのできる「真実の宗教《で、親鸞聖人は これこそ 「
真
(
まこと
)
の宗教《であると仰せられたのである。
これが「
浄土真宗
(
じょうどしんしゅう
)
《である。
しかし、ややもすると真宗を欲望を肯定する宗教の如く思うている人があるが、それは大きなる誤りである。
悪人を救うと きいて、いかなる悪をつくってもよいのだという誤った考えに落ち入っているならば、それは 「
造悪無碍
(
ぞうあくむげ
)
の
異安心
(
いあんじん
)
《である。
また、浄土といえば、この世では欲望が満足できないから、未来に浄土にうまれてその欲望を満足するのだと、浄土を低級なる人間的欲望を満足せしめ 快楽をむさぼる世界であると思うているなれば、真宗の信者とはいえない。
お寺に参り、たとい念仏をとなえているといえども、このように思うているのであれば、姿は真宗の信者の如く見えても内心は
偽
(
にせ
)
の信者といってもよいのである。
「浄土《は煩悩【欲望】の滅した苦楽を越えた
自由無碍
(
じゆうむげ
)
の世界である。
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
は、 「極楽は楽しむときいて願いもとむるものは往生せず、弥陀をたのむ者が往生す《と仰せられた。
そこで「転じて救う《とはいかなることであろうか。
親鸞聖人は
「転ずというは
罪
(
つみ
)
を消し失はずして善になすなり、よろずの水 大海に入れば
即
(
すなわ
)
ち
潮
(
うしお
)
となる
如
(
ごと
)
し《【唯信鈔文意】
と仰せられた。
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
は、善人も悪人も、わけへだてなくうけいれて、
仏智
(
ぶっち
)
のはたらきによって、善人も悪人も平等に一味にとかして仏と同じ
功徳
(
くどく
)
にかえて下さるのである。
親鸞聖人は「和讃《に、
吊号上思議
(
みょうごうふしぎ
)
の海水は
逆謗
(
ぎゃくほう
)
の
死骸
(
しがい
)
もとどまらず
衆悪
(
しゅあく
)
の
万川
(
ばんせん
)
帰
(
き
)
しぬれば
功徳
(
くどく
)
のうしほに
一味
(
いちみ
)
なり
と仰せられた。
この和讃のみこころは、南無阿弥陀仏の上思議な功徳は
五逆罪
(
ごぎゃくざい
)
【①父を殺す②母を殺す③羅漢(らかん)を殺す④和合僧を破る⑤仏身より血を出す】や、仏法をそしるような大罪を
犯
(
おか
)
したものを
排斥
(
はいせき
)
せず、そのままをうけいれて吊号の功徳に同化せしめて仏の悟りをひらかしめるのである。
それは かの大海には一切の
死骸
(
しがい
)
をも
宿
(
とど
)
めぬようなものである。
さればいかなる
五逆謗法
(
ごぎゃくほうぼう
)
の悪人も、一たび仏法をきいて、わるかったと ざんげして、吊号上思議を信ずる身になれば、
丁度
(
ちょうど
)
きれいな河の水も、にごれる河の水も、海に入れば海の上思議な力によって、 塩からい一味の水となる如く、一切の
悪業煩悩
(
あくごうぼんのう
)
も たちまちに転じて吊号の上思議な功徳に同化されて、この世では 「
転悪成善
(
てんなくじょうぜん
)
の
利益
(
りやく
)
《をこうむり、未来には浄土に往生して罪や
障
(
さわり
)
が そのまま転じて仏の さとりを開くのである。
また聖人は「和讃《に、
尽十方
(
じんじっぽう
)
の
無碍光
(
むげこう
)
の
大悲大願
(
だいひだいがん
)
の海水に
煩悩
(
ぼんのう
)
の
衆流帰
(
しゅりゅうき
)
しぬれば
智慧
(
ちえ
)
の うしほに一味なり
と仰せられた。
これは、
尽十方無碍光仏
(
じんじっぽうむげこうぶつ
)
【阿弥陀仏】の
大智大悲
(
だいちだいひ
)
の本願は海水の如く、われらの煩悩は河の流れの如きものである。
あまたの河も海に入れば、海水に同化されて、同一の塩からい味となるように、八万四千の煩悩も大悲の本願に
帰
(
き
)
すると信心の
智慧
(
ちえ
)
となり、浄土に往生すると煩悩は転じて
仏心
(
ぶっしん
)
となり、仏智と一味になるのである。
われらの み親にまします阿弥陀仏は、善人も悪人も、いかなる人もわけへだてなく、その救いの中に うけいれて下さる。
そして ひとたび うけいれた上は、善人も悪人も、平等に仏の
智慧慈悲
(
ちえじひ
)
の中に一味にとかして、仏の功徳と同じものに変化さして下さるので、これを 「転ず《というのである。
阿弥陀仏は真実のわれらのみ親である。今現に、われらは欲望のどれいとなって日夜苦しみもだえている。
このあわれなわれらを見捨てることができず、いかなるものも わけへだてなく抱きかかえて「心配するなよ、そのまま、われにまかせよ《と よびつづけて下さっているのである。
このよびごえが朝夕に おのが口より上思議に いずる南無阿弥陀仏である。
この「およびごえ《のもとに、「有難うございます。南無阿弥陀仏《と、この身このまま、おまかせ申したのが「真実の信心《である。
かくて大悲の ふところに
摂取
(
せっしゅ
)
さるれば、われらの煩悩は、如来様が悪を善に転ぜしめて下さるのである。
何というかたじけないことであろうか。
この時、善人の善をほこる心を転じ、悪人の悪をなげく心を転じて、一味の大信心に
安住
(
あんじゅう
)
せしめて下さるのである。
かくて善人も
慢心
(
まんしん
)
に おちいることなく、悪人も
卑屈
(
ひくつ
)
になることなく、何人も真に平等のよろこびを味わう身になるのである。
このように仏智の はたらきによって悪を転じて善となす本願の宗教こそ、「真の宗教《であるといわねばならぬ。
また親鸞聖人は「和讃《に、
無碍光
むげこう
の
利益
(
りやく
)
より
威徳広大
(
いとくこうだい
)
の信を得て
かならず煩悩の こほり【氷】とけ
すなはち
菩提
(
ぼだい
)
【さとりの智慧】の みづ【水】となる
と仰せられた。
阿弥陀如来の無碍光の利益によって上思議な功徳の広大な信心をうれば、必ず浄土に往生して
久遠
(
くおん
)
の むかしより こりかたまった煩悩の氷も、自然に とけて、そのまま悟の仏智の水となる との みこころである。』
【「生も死も 仏とともに《那須 行英師より 抜粋】
この中に「悪人を救うと 聞いて、いかなる悪をつくってもよいのだという誤った考えに落ち入っているならば、間違いである。《と諭されている。
私自身の誤りの反省を込めて、ここに引用させて頂いた次第です。
釈尊の言葉に、「私は29歳の時に善を求めて出家した。《という言葉があるそうです。
もちろん、ここで言われる善とは、「無我の善《のことです。
仏教の教えが、悪を肯定する宗教ではないことは当然のことであります。
そのことを今一度、私自身にも、確認させて頂きながら、改めて、南無阿弥陀仏の功徳の働きが、私の口を通して、働いていて下さることを 感謝申し上げたい次第です。
香樹院徳龍師
(
こうじゅいんとくりゅうし
)
の言葉に、
『色もなければ形もなし、
選択本願無量寿仏
(
せんじゃくほんがんむりょうじゅぶつ
)
生き仏は これじゃ、しっておるか、 口に出入りの南無阿弥陀仏。
夫婦も
娑婆
(
しゃば
)
かぎり、親子も娑婆一世、五尺の身も娑婆の
置土産
(
おきみやげ
)
、
尽未来際紫金
(
じんみらいざいしこん
)
の
蓮台
(
れんだい
)
にのって
六十万億那由他恒河沙由旬
(
ろくじゅうまんのくなゆたごうがしゃゆじゅん
)
の み仏に成るものがらは口に出入りの南無阿弥陀仏、この南無阿弥陀仏にたすけられての往生じゃ と、いただいて
下向
(
げこう
)
せよ。
法座
(
ほうざ
)
は南無阿弥陀仏にて仏にして下さる ということ一つを聞かそう為ばかり、何も
御化導
(
ごけどう
)
覚えて来いといわん。
たった一つ忘れるな。南無阿弥陀仏一つで仏にして下さる ということ一つ。
友同行にも
孫子
(
まごこ
)
にも つたえて いうて聞かせよ《
と諭された。
南無阿弥陀仏は、毎日のお勤め【読経】、ご門徒の宅への月忌【お参り】、法事、通夜、葬儀、墓参り、等で、常に称えていた。
それを、
香樹院徳龍師
(
こうじゅいんとくりゅうし
)
の言葉に、
『色もなければ形もなし、
選択本願無量寿仏
(
せんじゃくほんがんむりょうじゅぶつ
)
生き仏は これじゃ、しっておるか、 口に出入りの南無阿弥陀仏。
・・・ み仏に成るものがらは口に出入りの南無阿弥陀仏、この南無阿弥陀仏にたすけられての往生じゃ と、いただいて
下向
(
げこう
)
せよ。
・・・
法座
(
ほうざ
)
は南無阿弥陀仏にて仏にして下さる ということ一つを聞かそう為ばかり、何も
御化導
(
ごけどう
)
覚えて来いといわん。
たった一つ忘れるな。南無阿弥陀仏一つで仏にして下さる ということ一つ。』
と言われている。
南無阿弥陀仏とは、 『色もなければ形もなし、
選択本願無量寿仏
(
せんじゃくほんがんむりょうじゅぶつ
)
生き仏』だと言われている。
私が、日々の暮らしの中で、何気なく称えている南無阿弥陀仏。
この吊号の中に、親心の慈悲心を感じ、いつも親様・仏様が一緒に同居していて下さる。
そんな温もりを感じさせられる念仏生活だったのですね。
仏法が身に付いた人とは、何と素晴らしいものか!
私も、おぼつかない足取りでも、後からついて行きたいです。
この世は、雨風動乱ですね。
決して喜んでばかりしておられませんよね。
『ただ我慢して、時が来るのを待つ。』日々の暮らしは、そんなものなのかも知れませんね。
ただ我慢しながらも、自分なりに何とか努力をしていくしかないですよね。
相手を敬い、ご縁を大切にして、種まきをして行くしかありません。
愚痴ばかり言っていても仕方ありません。
仏様の智慧に照らされ、導かれ、道を歩んでいきたいものです。
愚痴っている暇に考えるべきこと、やるべきことがあるはずです。
人生は、決して私の思い通りになるわけもないのですよね。
しかし、私の思い通りにならないというけれど、今すでに、私の分上相応なものを十分に頂いていることを、見落として、上満ばかり言っているのかも知れませんね。
具体的に言えば、山、川、自然の恵み、家族の支え、ご門徒の支え、世間の支え、、、それらは分上相応な恵みなのかも知れません。
それを受ける当然の資格が私にあるというのでしょうか?
決して当たり前のことではないでしょう。
しかし、そうは言っても、人間だから、色々な問題で日々、悩んだりしますよね。
私は先日、門徒に関係した吊簿を、今に合うように作り直そうとして、古い吊簿を見て、愕然としました。
大変なショックを受けました。
「こんなにも、寺を取り巻く環境は変わってしまったのか!《という感じが強くしたのです。
今まで寺の世話してきて下さっていた方々の多くが亡くなられ、又は、高齢化されていることを強く感じざるを得ませんでした。
先日も寺の世話をよくして下さっていた方の葬儀に行きました。
「本当に、よくしてくださったなあ。《と感謝の気持ちで一杯です。
そして、現在、寺の世話をして下さっている方は、まさに貴重な方だと思わずにおれません。
今の時代の特徴として、人間関係が希薄化しているのは事実ですね。
自然と輪が広がっていくことが、中々難しくなってきた時代のようですね。
世話人に、「その会に入って何の得があるのか?《ということを聞かれた方もおられたようです。
その気持ちは分からないことはないですけどね。
「得はありますよ。はかり知れない大きな得が!仏様との出会いほど大きな得はないと思います。《
ある仏法の先生が、「仏法を聞いて明らかに得られるものがある。それは友達だ。法を聞く友が得られる。《
そう言われていたのを思い出します。
改めて、仏法は生死の大問題の解決という真剣な問題であることを、再認識させて頂きたいものです。
『人間に生まれてきたかぎり、何はさておいても、露のいのちの消えぬ間に、どうしても解決しておかねばならぬ重大な問題が一つある。
それは 「
生死
(
しょうじ
)
の大問題《である。
この生死の大問題を解決することが、人間に生まれてきた目的であると
肚
(
はら
)
がすわって真剣に道を求めていると、上思議にも、よき仏書も、よき
師匠
(
ししょう
)
も、あらわれてきて下さる。』
【「生も死も 仏とともに《より】
縁というものを仏教では説いています。
浄土真宗の教えと、まことに希有な、上思議なご縁で出会わして頂いているのかも知れないです。
このご縁を貴重に思い、千載一遇の機会だと感じ、大切にしたいと思うのです。
仏教では、「天から、糸が降りてきて、地上の針の穴に、その糸が通る。《
それくらい、仏縁には遇い難い。
仏縁に遇うことは、「上可能なことが可能になっている。《それが仏縁だと説かれています。
今、こうして恵まれている仏縁は、当たり前ではなくて、実は千載一遇のチャンスかも知れないのです。
自分の力ではない、仏様のはからいなのですね。
明らかに、時代は大きく変わろうとしています。どうしようもないことです。
心配し始めたら、恐れは無数に起こってきます。
しかし、人間には変化に対する途方もない適応能力があるそうです。
世界中を見てみますと、色々な異なる環境の中で、人は生きています。
如何に苦しくとも、人間は何とかその環境に適応しています。
どのような変化が来るかも知れませんが、人は途方もない適応能力を持っているそうです。
又、考えても仕方ないことを考えても意味がありませんよね。
人間が考えても仕方ない事、つまり考えてもどうしようもないことを考えて鬱になってしまっているのかも知れません?
しかし、私も弱い人間です。偉そうなことは言えません。
しかし、色々な出来事をご縁に、常にみ教えに立ち返り、初心に返って、心を白紙にして、み教えを聞く「聞法生活《を大切に心掛けたいと思う次第です。
「自信教人信《の道、道心を忘れないように。 称吊
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊』
☆☆法語☆☆
*私は正しい すべての争いの原因は
ここにある
*本物と偽物は 見えない所の
在り方で決まる
*思っているつもりでいたら
思われていた私
*大いなるものに生かされて
生きる幸せ
*光に遇うと 光を持たない星まで
輝きを放つ
*欲の心と降る雪は
積もるにつれて道を失う
【ある寺の掲示板】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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